第3章 少年のいた夏Ⅰ

文字数 10,510文字

 少年のいた夏Ⅰ

「瑞希ちゃん、おめでとう」
 表彰式などのセレモニーがひととおり終わり、帰りは観客席で観ていた未玲先生と一緒になった。
「最初緊張したけど、すぐに集中できました」
「そうね。とてもよかったわ」
 未玲は微笑んだ。
 今日の先生はいつもにもましてきれいだった。最近元気がない様子だったが、やはりこうやって外見をバッチリ決めて、笑顔でいた方がいい。
 先生の歳ははっきり聞いていないが、普段の話の内容からすると三十歳前後のはずだ。
 丸顔でショートカットの髪型が似合うし、服装も上品でセンスがいい。未玲という名前も可愛いと思う。
 物腰は上品でおっとりしていて、育ちの良さが感じられる。レッスンでも怒ったり苛立ったりすることは全くない。瑞希にとっては理想の先生だった。
 そんな素敵な先生だから、モテて当然だと思うのだが、あまりそっちの方面には興味がない様子だった。独身で付き合っているひともいないらしい。ピアノに生涯をささげているのかなあ、と瑞希は思っていた。
 彼女の口から音楽以外の話題が出ることはめったになかったし、異性のことについてはテレビに出てくる芸能人なども含めて聞いたことがない。もっとも瑞希も今のところ異性に興味がないので、かえって安心できた。
 ちらっと聞いたところでは、父親はなく、生まれてすぐに祖父母の養子になったという。子どもの頃はちょっと複雑な家庭環境だったらしい。
 祖父母の養子なんてことあるのか、と思って父親に聞いたことがある。
「ああ、あるよ。今はそれほどじゃないが、ひと昔前は、地主とかお金持ちの家だと、孫を養子にすることが結構あったんだ」
「なんで?」
「相続人の数を増やすと、相続税の控除額が増える、つまり課税対象額が減るんだよ。そうするとお祖父さんやお祖母さんが亡くなったときに納める相続税の額が若干減るわけさ。あとは、若い孫に直接財産を残すという目的もある」
「ふうん」
 父親としては判りやすく説明したつもりかもしれないが、瑞希には「控除額」の言葉の意味もよくわからなかった。でもまあ、そういう家庭もあることは理解できた。西山家ほどではないが、蔵原家もそれなりの資産家らしいので、お金持ちの事情なんだろうな、と瑞希は理解した。
 それとともに、父親がいないことが、彼女の男性観に影響しているのかもしれない、と瑞希は勝手に考えていた。

 タクシーでかすみが丘に戻る。乗り込んですぐ、未玲が瑞希に話しかけた。
「音もきれいだったし、ペダル使いも完璧だったと思うわ。スクリャービンの神秘的な雰囲気も出ていたし。優勝は順当なところだったわね」
「はあ」
 優勝者は後日記念コンサートに出ることになっている。その曲目もこれから決めなければならない。
「あんまりまだピンとこない?」
「え?」
「少し、疲れちゃったかな」
「あ、はい。すみません」
 しばらく間をおいて未玲が言った。
「何を考えてるの?もしかして翔太さんのこと?」
 瑞希が黙って頷くと未玲が言った。
「あの子が出ていればどうだったかしらね。決勝まで行ったのは間違いないと思うけど」
 コンクールは彼が優勝すると、あの演奏を聴いたときに、すでに確信していた。そう思ったことで、かえって余計な気負いがなく準備ができたともいえる。
 実際、八月の予選では彼の弾くショパンのエチュードの完璧さに、その会場にいた誰もが度肝を抜かれたのだった。瑞希だけでなく、みんなが今年の優勝は彼で決まりだと思ったに違いない。
 だが運命は大きく狂った。
 翔太は予選の翌週、外出時に車に轢かれて亡くなった。
 ミューズの神に愛されすぎて天に召されてしまったとでも考えるほかはない、あまりにも突然の訃報に、瑞希をはじめ、関係者のだれもが言葉を失った。
 瑞希は葬儀には行かなかったが、後日、未玲と一緒に焼香に訪れた。
 北山家はかすみケ丘駅の、瑞希たちが住んでいたマンションとは反対側の出口から歩いて十分ほどの住宅地にある一軒家だった。
 母親はまだ息子の死を完全には受け入れられない様子で、瑞希はいたたまれない気持ちになった。その母親が、
「瑞希さんのことをよく話していましたよ」
 と言ったのには、半ば予期していたとはいえ、胸が震えた。
「『自分と同じピアニストをめざしてる一学年上のすてきな女性がいる』って。『彼女?』ってふざけて訊くと、『違う』って。でもこうしてお会いすると、とても可愛いお嬢さんで」
 瑞希は話す母親が目に涙を浮かべているのを見て、曖昧に頷くしかなかった。

                   ***

 初めて会って以来、翔太とはときどき未玲先生の家で顔を合わせるようになった。初対面の時と変わらず無邪気な態度で、出しゃばったり気取ったりすることもなく、瑞希は楽しく話ができた。
 会話の内容はほとんどピアノの技術的なことや、好きな音楽家や演奏の話がほとんどだった。
 ゴールデンウイークも過ぎたその日もそうだった。好きなピアニストの話になったとき、少年が言った。
「御田村莉々っていう人がピアノを弾いているベートーヴェンのヴァイオリンソナタのCDを最近聴いたんですけど、クロイツェルがとっても迫力があって、気に入ったんです。ヴァイオリンも音がきれいで。御田村莉々ってそれまで独奏曲とコンチェルトしか聴いてなかったけど、室内楽もいいなあ」
 そのCDは瑞希の父も持っていて、彼女も何度か聴いている。個性がぶつかり合うという言葉では上品すぎるかもしれない。奔放なピアノを、ヴァイオリンが抑えようとする、お互いに主導権を争うかのようなスリリングな演奏だった。この二人の演奏はどれも似たような趣があるが、特にこの盤は際立っていると瑞希も感じていた。
「私もその演奏は知っているわ。御田村莉々が好きなんですか」
「そうなんです。独奏のCDはほとんど全部持ってます。僕が生まれた頃に亡くなってしまって生演奏が聴けないのが残念だけど、僕もああいう自由で、それでいて技術も完璧で説得力がある、そんな風に弾きたいって思ってるんです。秋野さんは?」
「私は多分ああいう演奏は無理だわ。どちらかというとヴァイオリンの佐倉先生の方に似たタイプだから」
「ああ、そうそう、佐倉涼子先生だった。二人とも霞ヶ丘の出身なんですよね。佐倉先生の方はリサイタルをテレビで見たことがあります。バッハの無伴奏だったかな。秋野さんも霞ヶ丘に入るんですか。それとも藝大とか?」
「まだ決めてるわけじゃないけど、でも蔵原先生に教えてもらってるから霞ヶ丘かな」
「蔵原先生って、あまり一般のレッスンはしないっていう噂だけど、秋野さんは音高の生徒じゃないのによく教えてもらえましたね。まあ、秋野さんのレベルなら教えてもらえるのは当然かもしれないけど」
 少年の問いに瑞希は、どこまで話せばいいかと頭を一瞬巡らせたが、正直に話すことにした。
「私が通ってる聖花学園の先輩に西山百合香さんっていうひとがいて、卒業して今は大学生なんですけど、そのひとが、実は莉々さんの娘さんなの。莉々さんは結婚して西山っていう苗字になったんです。
 で、百合香さんは最近まで、お母さんの縁でヴァイオリンを佐倉先生に習ってて、中三のときに全日コンで二位になったっていう、すごいひとなんです。でも元々はお母さんと同じピアノをやっていて、何年か前まで蔵原先生にも習ってたの。
 私、その西山さんと仲良くしていただいているので、その縁で、蔵原先生を紹介してもらったんです」
 少年の目が輝いた。
「それって本当ですか」
「そうよ」
 瑞希はついでに、家のピアノだけでなく、西山家の生前の莉々が使っていたピアノで練習させてもらっていることも話すと、翔太の顔がさらに輝きを増した。
「すごい。御田村莉々のピアノってあるんだ。スタインウエイですか」
「ええ。コンサートグランドよ」
 翔太はうらやましがり、一度その家を見学したいと言ったので、瑞希は西山さんに聞いてみると答えた。この場合の「西山さん」とは百合香の祖父の四郎のことだ。

                    ***

「やあ、いらっしゃい」
「この前言った、北山さんを連れてきました」
「北山です。お邪魔いたします」
「やあ、どうぞ。遠慮しないで」
 四郎は鷹揚に招き入れた。
 もうすぐ梅雨入りしそうな六月の日曜日、瑞希は翔太を西山家に招待した。
「今日は百合香さんお出かけなんですか」
「ああ。百合香は悠太君とデート。お兄ちゃんから聞いていないかね」
「うちのおにいちゃん、そういうこと私にぜったい言わないから。全部バレてるのに」
「ははは、そうか」
「百合香さんって、秋野さんの先輩で、莉々さんの娘さんですね」
「そうさ。私の孫娘だ。北山君は莉々のファンだって瑞希ちゃんから聞いたが」
「はい。そうなんです。莉々さんって、どういうひとだったんですか」
 四郎は、自分の息子が彼女を初めて連れてきたときのこと、奔放なイメージに反して私生活はとてもまじめで規則正しく、一日中練習していたことなどを話した。それは瑞希も前に聞いたことと同じだった。
 翔太は熱心に四郎の話を聴いて感心したように何度も頷いた。
「亡くなったのは事故だったんですか」
 瑞希は少年の問いに緊張した。そのことは詳しく聞いていない。兄は百合香から聞いて知っているようだが、あまり話題にはしたくない様子なので、瑞希も話題に上らせるのは遠慮していた。四郎も軽くいなすように、
「そう。息子ともどもな。まあ、その辺の話は今日はやめておこう。……じゃあ、練習室を見るかい」
「ぜひ、お願いします」
 四郎が音楽室に案内した。
「うわあ、広い。すごい」
 翔太は部屋を眺めまわして感嘆の声を上げた。
「これが莉々さんの使っていたピアノですか。二台あるんだ。……今は秋野さんが使ってるんですか。いいなあ。うらやましい」
「私の使っているのはこちらです。奥のは主に百合香さんが使ってるの」
 少しだけ自慢げな気分で説明すると、
「百合香さんってヴァイオリンもピアノもできるんですよね。お会いしたいなあ」
「そのうち紹介するわ。でも百合香さんは演奏家になるのは辞めて、一般の大学に入ったの。霞ヶ丘の近所の光陵大学。九月からはカナダに一年間留学しちゃうの」
「え、どうして?だって、全日コンで二位になったんでしょう。しかも、あの佐倉先生にも習ってて」
 ピアノやヴァイオリンを本格的に習っている者なら誰でも抱くであろう疑問を、少年も口に出した。
「詳しくは知らないわ。音楽以上に興味のあることができたんじゃない?あと、私もそうだったけど、人前で弾くのがあんまり好きじゃないみたいで」
「ああ、そういう人いますよね。蔵原先生だって、ステージが嫌だっていって、コンサートはしないで大学の教員になったそうだし」
「そうね」
 未玲先生の実力からしたら、ソリストとして、もっとたくさん演奏会を開いてもおかしくないのに、大学の教員メインの道を選んだ。それでもリサイタルを年数回程度開き、会場はかなりいっぱいになるから、固定ファンはいるみたいだが。
 大勢のひとに自分の音楽を聴かせたい、という自己顕示欲よりも、恥ずかしさが勝ってしまうらしい。演奏家になるには心が繊細すぎるのだろう。
 しばらく百合香のことや、学校の話などをした。
「あの、僕も弾いていいですか」
「もちろん」
 四郎の許可を得て、翔太が弾いた。
 リストの「エステ荘の噴水」。
 何度聴いても、翔太のピアノはすばらしい。
「このピアノやっぱり弾きやすい。それに、部屋もこれくらい広いときれいに響きますね」
「上手になったような気がするでしょ」
「はい」
 感動した面持ちの少年に、四郎が言った。
「いつも百合香や瑞希ちゃんの演奏は聴いているが、君のはまた違うな。やっぱり男の子らしい、骨太な感じがする。まあ、私は素人だからよくはわからないが」
「いえ、ありがとうございます。そう言っていただいてうれしいです。ところで、西山さんは画家だってうかがったんですけど」
「そうだよ。絵は興味あるのかい」
「はあ。多少は」
 四郎が、それじゃあ、と言って、続いて翔太をアトリエに案内した。
 瑞希は、そういえばおにいちゃんもこの家に初めて来たときにアトリエに案内されたんだっけ、と思った。
 兄は初めて会った百合香に一目ぼれしてしまったのだった。
 あのとき自分はクラスメイトの史奈を友達として紹介したつもりだったが、意図に反して、悠太が惹かれたのは自分より年上の百合香だった。もちろん、兄がそう告白したわけではない。呑気な兄のことだから自分でもまだ百合香に抱いた感情が何かもわからなかったのだろう。でも、確かにあの日の帰り道の兄の様子は変だった。いつもにもましてどこかぽわーんとした感じで、足取りもふわふわしていた。今になって思えば、あれが恋のはじまりだったに違いない。
 
 百合香はヴァイオリンはもちろんだが、ピアノも相当なものだ。もし途中でヴァイオリンに転向することなくピアノに専念していれば今頃はどうなっていただろう。翔太と同じようなレベルに達していたかもしれない。
 西山家の音楽室で練習しているとき、時々百合香に演奏を聴いてもらっている。指摘が的確で、とても役に立っている。また、ときどきコンチェルトのオーケストラ伴奏をもう一台のピアノで弾いてくれることもある。そんなこともあって、百合香にはとても感謝しているし、尊敬もしている。
 しかし、音楽以外の面では、世間に疎いことに、驚かされることも多い。
 ――初回無料とか、無料お試しっていうのは気をつけた方がいいのよ。最初の一回で辞められるかと思ったら、定期購入とか、セット販売になってて、一年とか二年の契約に申し込んだことになってしまうことがあるから。
 別に利用する気もないエステのインターネット広告をぼんやりみていると、百合香がアドバイスをしてくれたことがあった。家がお金持ちなだけに、経済的な面ではしっかりしているようだった。不安なのは対人関係だった。
 人間関係に疎いのは自分も同じだが、それでも自分は小学校までは公立で、兄もいるし、いろんな家庭の子とつきあっていたからまだいい。同じ年ごろの男の子というもののほとんどは、幼稚か、野蛮か、ただのアホか、のいずれかであることも知っている。兄や翔太などは例外だと思う。
 異性関係も含め、自分と考えや経験がかけ離れた人間とほとんど触れることもなかった百合香には、大学生活は驚きの連続だったろう。
 兄から聞いた話だが、昨年の四月、彼女が大学に入ったばかりの頃、学内の宗教サークルに勧誘されかけたという事件があった。
 地方から出て来たばかりでわからないことが多くて、いろいろ教えてください、などと言って近づいてきた女子学生に、いろいろ世話をしてあげた。その学生から、今度知り合いとサークルの集まりがあるのでぜひ来ていただけませんか、と誘われて承諾した。
 百合香から、来週はデートできないと告げられた、当時まだ高校生の悠太が理由を尋ねると、そのような事情が判明した。悠太がさらにそのサークルの名を訊くと、有名な、某宗教団体の学生組織だとすぐにわかったので、あわてて止めさせたのだった。
 それでも約束しちゃったからというのを、行ったら絶対ダメ、そんなの無視していいんだから、もし向こうが何か文句を言うようだったら僕が一緒について行ってあげる、と言い含めて事なきを得た。
 こうした入学当初の出来事があって、百合香はますます兄のことを頼りに思うようになったし、自身もいろいろ注意深くなったようだが、近寄ってくる初対面の人間のあしらい方は基本的に苦手のようだった。
 四郎が百合香の後見人であるうちに、付き合う相手を決めてしまおうと考えたのは、正解だったと思う。大学生になったら成人だし、百合香は亡くなった両親の遺産もあるらしいし、悪い男に引っかかったら、もはやコントロールが効かなくなる。
 
                   ***

 瑞希もアトリエに入った。
 少年が作品を見るなり、息を飲む気配を見せた。
「すごい絵ですね。リアルというか」
「まあ、これが私のスタイルでね」
「一作仕上げるのに相当時間がかかりそうですね」
「そうね。ちょこちょこ直していると一年くらいあっという間だな」
 翔太は言葉を失ったように、立てかけられている絵を見て回ったが、ある絵の前でピタッと足が止まり動かなくなった。まるで凝視しているように画面を見つめている。
 何年も前に描いたと思われる人物画で、ピアノの椅子に座った百合香と、背後に立つ未玲先生が笑顔でこちらを見ている絵だった。場所は先ほどの音楽室だ。
 未玲先生も若くて美しいが、やはり画面の主役は百合香に違いない。
 着ている制服の赤いリボンの色からまだ中学生とわかる。絹のように柔らかくツヤのある長い黒髪、やや細面の顔の輪郭に切れ長の瞳、すっと通った鼻筋、雪のように白い頬、コケティッシュに少しだけ開いた薔薇色の唇、全体に漂う気品。瑞希も思わず見とれてしまうほどの美少女ぶりで、少年が見入るのも無理はないと瑞希は思った。
 そういえば兄がこの絵を見たときの様子を史奈から聞いたことがある。知り合ったばかりの頃、史奈と一緒に四郎の絵のモデルをしていたとき、その日たまたま架かっていたこの絵を、アトリエで座っている間、ずっとチラチラ見ていたという。男の子はみんな同じなのね、と思った。
 だが、翔太があまりにも見続けているので、少し不安にもなった。
 瑞希の視線に気づいてはっとしたように、翔太は視線をそらせたが、立ち去り際に再び絵を名残惜しそうに一瞥した。
「きれいでしょ」
「え」
 少年がびっくりしたような声を出した。
「このひとが百合香さんですよ。このときはまだ中学生ですよね、四郎さん」
「そうだね。三年生だったかな」
 少年は一瞬目を見開いてぽかんとした様子だったが、すぐに我に返ったように頷いた。
「あ、ああ、この人が。そうなんだ」
「でもだめですよ。百合香さんには先約があるから」
 つい口にしてしまった。
「先約……」
「私の兄と付き合ってるんです」
「ああ、なるほど」
 少し弱い返事だった。がっかりしたのだろうか。
 よけいなことを言ってしまったと軽く後悔したが、しかたがない。おにいちゃんと百合香さんの関係に波風がたたないようにしただけだと瑞希は自分に言い聞かせた。

                   ***

 少年が出て行った後も、瑞希は四郎に断って、他の絵を見ていた。
 音楽室は毎日来ているが、アトリエはめったに入ったことがない。せっかくのチャンスなので、架かっている絵をじっくり見ておきたかった。
 その一枚が目に留まった。
 緑の野原でベンチに腰掛ける少女。その少女にささやかな花束を手渡そうとする少年。
 まるでおにいちゃんみたい、と瑞希は思った。

 これもだんだんわかってきたのだが、百合香は普段の知的で冷静な印象からは想像できないくらい、甘えん坊だった。
 瑞希に対してはそういう話や態度は一切見せないので、初めはわからなかった。でも兄の話を聴いていると、あれやこれや、あきれるような行状の数々を知ることになった。
 大学に入ってすぐに、下校は悠太と一緒に行動するようになっていた。カルトの一件が終わってからも、授業の合間や終わってキャンパスを歩いているとき、知らない男子学生からよく声をかけられるのだとかで、怖い思いをしないように、まだ高校生の悠太がボディガードがわりに付き添っていたのだという。
 今は地味なジーンズ姿だが、入学したての頃の百合香は、「悠太さんが可愛いって褒めてくれるの」と言って、膝丈の薄手のワンピースを何着も揃えて着ていた。モデルさんのようによく似合うし、ステキなのだが、荒れ野にぽつんとひとつだけ咲く華やかな花のように、たくさんの虫どもを惹きつけてしまうことは避けられなかったようだ。
 去年はコロナ禍の影響で、ほとんどが遠隔授業のため、キャンパスは閑散としていたらしい。学生で溢れ、マスクで顔を隠すこともできない例年だったら、さらに怖い思いをしていたかもしれない。
 光陵高校は制服がないので大学生に混じって悠太が寄り添うことが可能だった。それでも悠太の昼休みは百合香の相手でつぶれてしまうし、授業が終わるのも大学の方が三十分ほど遅いので、それまでキャンパス内で本を読んだりして時間を調整することになる。三年生になって帰りが遅くなったなと思っていたのは、それが理由だった。
 変な噂が広がらないことを願うばかりだったが、高校三年の秋の保護者面談のときに、雑談で担任の先生から、秋野君はすごい美人の大学生とつきあっているという噂があって、クラスのみんなも一目置いている、と言われたという。母の淑子は何を勘違いしたのか、息子が褒められたと思ってうれしそうな様子で瑞希に話したのだった。
 兄との関係が今後も続いていけば、いつか自分の姉になる可能性もある大事なひとだ。おにいちゃんよりもおねえさんなんだし、もう少ししっかりしてほしいと、瑞希は百合香に苦言を呈したい気分だった。
 実際に、それらしいことをごく遠回しに言ったことがあるのだが、「ごめんなさい、大事なお兄さんに迷惑ばっかりかけて」と呟くように言って、涙ぐんでしまったので、それ以上何も言えなかった。
 しかし、今でもやっぱり勉強中に突然会いたいと連絡がきたり、司法試験の勉強をしている兄が何とか時間をやりくりしてデートをしたときも、まだ帰りたくないと駄々をこねたりするらしい。
 夜中に突然電話がかかってきて、そんな時でも兄が時間を厭わずやさしく丁寧に相手をしている姿を目にすることがある。
 本当に兄は百合香さんが好きなんだと思う。
 彼女ほどきれいで可愛ければ、兄に限らず男はみんな宝物のように扱いたくなるのかもしれない。一目ぼれしたのだって、身もふたもない言い方をすれば、見た目の第一印象だったに違いない。性格だとか内面の魅力だとかはそのあとからだ。
 なんだかんだいって、美人は得だよなあ、と瑞希は思う。
 瑞希も、友だちから、可愛いと言われることがないわけではないが、百合香のような優雅さや史奈のような愛らしさを態度に見せることができない。ぶっきらぼうな態度や言葉遣いは直せそうもない。
 でも、自分はそれでもいいのだ。百合香のことも、うらやましいとは思うし、兄をあまり煩わせないでほしいとは思うが、本気でうらやんでいるわけでもない。
 なぜなら自分には音楽があるから。
 ショパンでもドビュッシーでも、音楽の持つ永遠とも思える美を目の前にすると、自分という個人のことなどどうでもいいと思えてしまう。その美を表現し、それが自分の中を満たし、一体化することの喜びに比べれば、個人の恋愛なんてどうでもいい。未玲先生も、自分と同じなのかもしれない。
 それはそうと、ゴールデンウイークに、北海道から戻って来ていた史奈と会ったときに、百合香のことで兄に負担がかかっているんじゃないかと、愚痴めいたことをつぶやいたことがある。すると彼女は、そうね、と頷いたあと、
「悠太さんは瑞希ちゃんが思うほど負担には感じていないと思うよ。悠太さんの性格もあるでしょうけど、百合香さんが甘えるのは、悠太さんに何かしてほしいっていうより、なるべく一緒に時間を過ごしたいためでしょ。つきあっていれば、それが普通だと思うよ」
「それならいいけど」
「あんまり束縛するようだと問題だけど、百合香さんって幼い頃にご両親があんな形で亡くなってしまったでしょう。愛する人を失うかもしれないっていう不安が今でもあるんだと思うのね。相手の気持ちが自分から離れていないことを確かめずにはいられないのよ。甘えるのも、幼い頃に両親に思う存分甘えることができなかったからかもしれないわ。
 悠太さんもそのことはわかってるから、とことん百合香さんを支えるっていう覚悟を決めているのよね。それはそれですてきだと思わない?もちろん、瑞希ちゃんにとっては大事なお兄さんが疲れてしまうんじゃないかって心配なのはわかるよ」
 いつもそうだが、史奈は大人だと思う。自分が子供っぽいのは自覚しているが、彼女と話すと、思慮深さに驚く。一つのことでも、いろんな角度から考えているのだ。
「うーん……まあ、百合香さんのことはしかたないと思うけど」
 史奈は少しためらうような仕草を見せてから再び口を開いた。
「本当のことを言ってもいい?私が一番心配してるのは瑞希ちゃんよ」
「え、どうして」
 瑞希は突然自分のことを言われ、びっくりして問い返した。
「百合香さんも瑞希ちゃんも、私からみると似てるところがあるの。やっぱり芸術の才能があるひとって、とても繊細だし傷つきやすいっていうのかしら。すべてのひとがそうじゃないと思うけど、二人の場合は、誰かが守ってあげるなきゃって感じさせるものがあるの」
 もしかして、史奈が悠太を百合香と付き合わせようとしたのは、百合香の面倒をこれ以上みたくなかったからなのか、と瑞希はふと邪推してしまった。兄を百合香に会わせて二人を結び付けようとしたのは史奈のアイデアだった。そして悠太と知り合う前は史奈が百合香のほとんど唯一の友達だったのだから。
「百合香さんはそうかもしれないけど、私はそんなに……」
 史奈はゆっくり首を振った。
「ううん。まあ、百合香さんほど極端じゃないけど、やっぱりそうよ。……それで、百合香さんには悠太さんが付いてるからいいけど、瑞希ちゃんにはそういうひとが今のところいないでしょ。もちろん、私が……友達としてできることはしてあげるけど、将来はやっぱり、瑞希ちゃんを優しくみまもってくれるようなひとを見つけることが必要だと思う」
「そうかなあ」
 瑞希が首をひねると、史奈はいつものように、黙ったまま、にっこりと微笑んで頷いたのだった。

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