第7章 尋ね人

文字数 3,327文字

 尋ね人

 百合香との話は尽きそうもなかったが、今日はもう疲れてるでしょう、本当は夕食をご一緒したいけど、わたしの方も帰国の準備がまだ整わなくて、旅行から帰った翌々日に出発だから、今晩のうちになるべく全部片づけなければならないの。明日は午前中から市内を一緒に見て回るから、今日のところはこれで。明日の朝十時くらいにロビーに迎えに行くわ、と百合香に言われて、ホテルに帰ることにした。ダウンタウン行のバスの停留所まで百合香が見送ってくれた。
 部屋で少し休んでから、夕食をとるために外出した。九月だというのに七時を回っていても、おもてはまだ明るい。といっても日差しにあまり熱量が感じられず、人工の光に包まれたような不思議な感覚がある。この街が東京よりはるか北の高緯度の地であることを実感する。
 一人でレストランに入って高価な食事をする気にもなれないので、目に留まったファーストフード店に入った。それでもかなりの値段だった。
 ハンバーガーとポテトでお腹いっぱいになった。店を出て通りを散歩する。波止場で海を眺めたあと、ガスタウンという、この街発祥の地域をぶらぶら歩く。観光客向けの洒落た店構えのショップが並ぶが、特に買い物はしない。たぶん、明日百合香が案内してくれるだろう。
 五百メートルほど歩くと商店は尽きた。陽も次第に落ちて暗くなってきた。ガイドブックによると、この先はあまり治安が良くない地域らしいので、引き返す。
 再びホテルに向かって歩いていると、反対側の歩道に、若い日本人らしい女性が同じ方向に歩いているのに気が付いた。どこかで見たような気がして、立ち止まった。悠太は驚きとともに、道路を横切って女性のそばにより、声をかけた。
「蔵原先生」
 さきほど百合香との会話の中で話題に出た女性が目の前にいた。濃紺のややカジュアルな感じのパンツスーツに黒のローファー。観光にしては少しフォーマルな感じもした。彼女の普段着なのだろうか。
 相手も驚いたように悠太を見た。誰だったか、という表情を一瞬見せたので、
「秋野です。秋野瑞希の兄の悠太です」
 蔵原未玲は、ああ、と微かに声を漏らした。急に表情が和んだ。
「瑞希ちゃんのお兄さん。これはまた、奇遇というか……じゃあ瑞希ちゃんも?」
「いえ。僕だけです。あの、西山さんがこちらに留学してて、もう日本に戻るので、その前に会いに来たんです」
「あ、そうでしたよね。百合香さんを迎えに行くのは瑞希ちゃんから聞いてました」
 未玲は頷いた。少しぎこちない感じがした。
「先生は観光ですか」
 すると相手は少し口ごもった。
「いえ、私もちょっと人に会いに」
「そうなんですか。会えましたか」
 何気なく訊いたところ、相手は首を振った。そして、意外なことを言った。
「あの、もしご存じでしたら教えていただきたいんですけど」
「何でしょう」
 すると未玲は少し考えを巡らせるように再び口ごもったので、悠太は、思い切って言った。
「ここで立ち話はあまりよくないですから、よかったらあそこのカフェに入りませんか」
「あ、はい。そうですね」

 カフェ・ラテを二つ持って、空いているテーブルに座った。
「あ、すみません。お金払います」
「いいです。僕が誘ったので」
「あ、でも」
 未玲はなおも払おうとするので、悠太は素直に受け取った。
「百合香さんにはもうお会いになったんですか」
「はい。ついさっきまで。彼女のホームステイ先にお邪魔していました」
「私も先月メールもらったんですけど、元気みたいですね。危ない目にも遭わなかったみたいで、よかったわ。勉強に打ち込めたんじゃないかしら」
「そうみたいです」
 ローゼンシュタットに招かれてレッスンを受けて、再び音楽の世界に戻ろうか迷っているという話をしようかと思ったが、本人に断らずに勝手に言わない方がいいかと思い、口には出さなかった。
 しばらく百合香や、妹の瑞希の話が続いた。
 考えてみれば、彼女と二人で話をするのは初めてだった。
 上品なショートカットの髪型や、柔和な印象の顔立ちにぴったりな、おっとりした話し方で、百合香とはまた違った育ちの良さを感じる。
「それで、お訊きになりたいこととは何でしょう」
 相手の表情に少し陰がさした。
「ああ、そうですね、いえ、こんなことお訊きしていいかわからないんですけど、人の名前から住所とか連絡先ってわからないでしょうか」
「それって、このカナダでですか」
「はい。大使館とか領事館とか行けば教えてくれるでしょうか。こちらに帰化していなければ、国籍は日本人のままだと思うんです」
 要するに、在留邦人の誰かを探しているらしい。
「さっき、住所だと教えられた場所を訪ねて行ったんですけど、もうそこは引き払っていていないらしいんです。引っ越し先もわからないみたいで」
「なるほど」
 悠太も外国に暮らしたことなどないので判らないが、百合香に訊けば何か知っているかもしれない。
「ご親戚か何かですか」
「いえ」
 未玲は少し口ごもったが、悠太を見て答えた。
「北山翔太さんって、瑞希ちゃんから聞いてませんか」
 それはさっき百合香と音楽のことを話していて悠太の頭に浮かんだ少年の名前だった。
「はい。知ってます。僕も一度西山さんの家で会いました。すごい才能だって。彼女も言っていました。でも確か交通事故で」
「はい。去年亡くなって、……」
 彼女の話だとこういうことらしい。
 北山翔太は母子家庭で、父親は離婚して、いない。全く連絡などはないらしい。
 先日、彼の一周忌の命日に北山家で法事があり、彼女も焼香に訪れたのだという。そういえば、瑞希が蔵原先生とお線香を上げに行くと言っていたことを思いだした。
 未玲はその日、母の都紀子から、翔太の父親の話を聞かされた。
 北山健吾という名前で、翔太が生まれてまだ物心つかないときに別れたのだという。全く交流はなく、存命かどうかもわからない。連絡先がわからないので息子の死亡のことも伝えていない。
 だが、どうやら現在、カナダのバンクーバーに住んでいるらしいということがわかった。
 というのは、母親の友人の女性がバンクーバーに住んでおり、翔太も中学生の頃、バンクーバーの学校に留学していたときに彼女の家にホームステイしていのだが、その女性が最近偶然、健吾に会ったと、今年日本に一時帰国していたときに知らせてくれたのだった。健吾は元々こちらに住んでいたのだが、一時期仕事で米国のシアトルに移住したあと、再びバンクーバーに戻ってきたと言ったらしい。ダウンタウンに小さなギフトショップの店を開いているという。その店の名前から所在地を割り出すことができた。
「インターネットで検索するとお店の電話番号とメールアドレスが載っていたんですが、電話をかけてもつながらず、メールを出しても返事はなく、そこでその住所に直接訪ねて行くということになって」
「先生が頼まれたんですか」
 それでわざわざ渡航したとは、ずいぶん……
「お母様はお仕事で行けないし、私の方はもともと九月に二週間ほど夏休みを予定していて、海外にも久しぶりに言ってみようかなって思っていたんです。カナダのバンクーバーなら治安もよさそうだし、観光するところもあるし、時間が合えば百合香さんにも電話して驚かせちゃおうかなって。今日のお昼に着いたばかりで、用事を済ませてから連絡しようと思ってたんですけど」
 海外旅行のついでに翔太の母親の依頼も受けて訪ねてみたというわけらしい。それなら、わかる。
「で、お店はもうやっていなかったんですか」
「お店自体はまだあったんですけど、つい三か月ほど前に違うオーナーに替わっていて」
「前のオーナーがどこへ行ったかは知らないというんですね」
「そうなんです。ただ、『ジャスパーで新しい店を開くので引っ越す』って言っていたらしいんです。ジャスパーって、有名な観光地らしいですけど、ここからはずいぶん遠いみたいだし、どうやって行けばいいのか……一週間ここにいる予定なので、あきらめて、あとは観光だけして帰ろうかしら、と思い始めてたんです」
 ほっと小さくため息をもらした未玲は、それでもなお、おっとりした仕草で、カフェラテを口に運んだ。
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