第11章 雨の音楽室Ⅱ

文字数 8,163文字

 雨の音楽室 Ⅱ

 窓の外の雨は降り止む様子はない。瑞希の回想は続く。

「おじゃまします」
 北山家はかすみケ丘駅の南口から一キロほど、バスに乗っても良かったのだが、あいにく行ってしまったばかりだったので、歩いた。おかげで少し遅刻してしまったが、待ち合わせした未玲はまだ来ていなかった。
 母親の都紀子は、一年前とは少し印象が違った。髪も短く、表情には笑みも浮かべて、少し若返ったような感じだ。息子が亡くなったばかりの時の悲嘆にくれた状態からやっと抜け出して、たぶん、これが本来の姿なのだろうと瑞希は思った。
「どうぞこちらへおかけになって。蔵原先生は電車が事故で止まって三十分ほど遅れるっておっしゃってました」
 未玲先生は、都内の仕事の用事が終わってから来ることになっていた。その電車が遅れているのだろう。
 隣の和室に設置された小さな仏壇でまず焼香を済ませる。写真は飾られていない。悲しい気持ちがこみあげてくるので、命日以外は取り外しているのだと、都紀子が言った。
 焼香の正しい仕方なんてわからないまま、線香を立てて手を合わせる。
「どうもありがとうございます」
 再びリビングのソファに座った。
 都紀子がおいしそうなケーキと紅茶を出してくれた。
「蔵原先生には見えたら出しますから、お先に召し上がれ」
 斜め前に座った都紀子はスマホを手にして画面を見始めた。
「いただきます」
 瑞希は遠慮なくパクパクと食べてしまった。お腹が空いていたのもあるし、割とそういうのが平気なたちだった。その食べっぷりをみて都紀子は微笑んだ。
「まだありますよ。よかったらどうぞ。山本先生も今日いらしていただく予定だったのが、明日になったので」
 瑞希は習っていないが、山本裕子先生には何度か未玲先生と一緒に会っている。未玲先生のお師匠で、日本を代表するピアニストのひとりでもあり、初めて会ったときはさすがに緊張した。
 もうすぐ五十になるというが、未玲先生同様若々しく、上品で優しそうな印象だった。未玲先生からは、霞ヶ丘に入学したら、彼女の指導を受けることを勧められていて、事前にみてもらった方がいいという未玲の考えからだった。
 実際会って話をして、演奏を聴いてもらって、山本先生も自分のことを気に入ってくれたみたいだった。
「音がとてもきれいね。身体全体の力の入れ方がちょうどいい感じだし、手首が柔らかくて指先のコントロールもよくできているわ。でもそんな技術的なことより、なにより音楽を演奏する喜びが感じられる。うん、ステキ。入学したらぜひ一緒にお勉強しましょうね」
 と言ってくれた。
 北山翔太も、元は山本先生が見出したのだった。とてもピアノが上手い子がいると知人から紹介されてこの家で演奏を聴き、その才能に驚き、誰か適当な先生を探していると言われて、その場で自ら直接指導を申し出たのだという。
「そのケーキおいしいでしょ。『リュリ』っていう駅前のケーキ屋さん。翔太も大好きだったんです。小さいので、いつも二個か三個をペロリと」
「そうなんですか。おいしいです」
 当然のように二個目をいただきながら、瑞希は答えた。
 外見は普通のイチゴのショートケーキなのだが、クリームがおいしい。スポンジに挟まっているイチゴの量も多い。今度お母さんに買ってきてもらおう。
「辛いことがあったとしても、生きてなければ楽しみもないんですけどね」
 急に都紀子がしんみりした口調になった。
 亡き子を思い出してしまったのか。瑞希は気が重くなった。
「そんな死に急ぐことなんてなかったのに」
「え?」
 どうも母親の言葉からは、翔太が自ら命を絶ったかのようなニュアンスを感じて、瑞希は思わず声に出してしまった。
 都紀子も自分で口に出してハッと気が付いたらしい。
 沈黙が続いた。
 都紀子が口を開いた。
「あの子、夕方、急に出かけたんです」
「はあ」
「そんな時間に出歩くことなんてなかったのに。少し前から様子がおかしかったんです。秋野さんは翔太に会って変な感じは受けなかったんですか」
「そうですね……」
 翔太が亡くなったのは夏休みの最後の日だった。都紀子によると、八月に入ったあたりから、いつも明るく陽気な翔太がふさぎ込んで、食べ物も残すようになった。悩み事ができたのだろうか、と訊いても何でもないと言うばかり。学校は休みだが、SNSで何か嫌なやり取りでもあったのか、と、スマホをこっそりのぞいたが、それらしい痕跡はない。コンクールの予選が迫っているので緊張しているのだろうと思って自らを納得させた。
 瑞希が翔太に最後に会ったお盆前の時といえば、あの楽譜の書かれたメモをもらった日だった。言われてみれば、少し元気がない気がしたものの、気になるほどではなかった。瑞希の前ではつとめて明るくふるまっていたのかもしれない。
 下旬になってから、何かがふっきれたのか、気持ちが上向きになって、食事の量も元に戻ってきた。母もそれで安心したのだったが、そこへ悲劇が起きたのだった。
「交通事故だったんですよね」
 少年が亡くなったときの詳しい話は聞いていない。瑞希としては知っておきたいという気持ちはあったが、去年都紀子と会ったときはそんな話を聴くような状態ではなかったし、未玲先生もひどく落ち込んでしまい、その原因が少年の死にあることは明白だったから、訊くのははばかられた。瑞希自身も、都紀子や未玲ほどではないが衝撃を受けたことは間違いなく、その後も関係者の間で話題は避けられ続けて来た。
 都紀子が話してくれた話を要約するとこういうことらしい。
 その日は平日だったが都紀子は夏休みで家にいた。夕食の支度をしていると、翔太が未玲先生のところに行くといって出かけようとしたのだという。
 北山家は父親がなく、都紀子と長女の彩佳と翔太の三人暮らしだった。彩佳は東北地方の大学の大学院で、応用化学を専攻している。そのため、家にはいないし、瑞希も会ったことはない。生前翔太が雑談の中で話していたところでは、父親が違うらしい。
 そんな時間にレッスンに行くことはなかったので、都紀子がなぜ出かけるのか訊くと、今後の進路の相談に行くという返事だった。
 ――明日から先生が夏休みをとるんだって。大学って九月も休みらしいんだ。だから今のうちに話をしておこうと思って。
 未玲が九月の初旬に休みをとるのは例年のことだった。休むといっても二週間程度なのだが、その間、レッスンはお休みになる。
 その説明に母親は納得して送り出したのだが、出がけに翔太は一言、
 ――レッスンはもう辞めるかも。
 と言った。
 ――あら、どうして?蔵原先生の教え方がとてもわかりやすいって言ってたのに。
 ――うん……これからは演奏より作曲の勉強をメインにしたいから。
 翔太ほどの才能なら、もう演奏に関して学ぶものはないのかもしれない。コンクールに出たあとは大学の作曲科をめざして、そちらの勉強に力を入れたいという趣旨のことを呟いていたのを瑞希は憶えている。未玲先生のレッスンはこの際やめようと考えるのはひとつの考えかもしれない。
 でも、と瑞希は思った。
 最後に瑞希が彼に会ったときには、辞めようと思っているという話は出なかっただけでなく、蔵原先生の指導はとても勉強になるので、これからも続けたい、というようなことを言っていた。
 だから翔太が母親に告げたという言葉は瑞希にはとても意外だったし、ショックでもあった。わずか二週間ほどの間に、急に考えが変わったとしか思えない。
 さて、翔太は出かけたのだったが、家を出て駅までの間にある幹線道路を横切ろうとして、直進してきた車に撥ねられた。そのとき歩行者信号は赤だった。横断歩道の向かいで信号待ちをしていたサラリーマンが証言している。
 なぜ赤信号を無視して渡ろうとしたのか。
 サラリーマンによれば、少年はふらふらと考え事に夢中な様子で、信号が目に入らないかのように、横断歩道を渡ってきた。危ない、と大声で注意してその声にハッとした様子で彼の方を見たのだったが、そこへ車がやってきて、急ブレーキをかけたが間に合わず、少年の身体がボンネットから宙を舞った。目撃者にとってもそれはショッキングな光景だったに違いない。
 その後すぐにドライバーが飛び出してきて、救急車を呼んだ。しかし、頭を打ったのが致命傷で、その晩のうちに息を引き取ったのだった。
 都紀子の話の内容はそんなところだった。
 話を聴く限りでは自殺だとは思えない。ぼうっと考えごとをして車に轢かれたということではないだろうか。
「あの子がわざと車に撥ねられたとは思っていません。あれは事故だったんでしょう。でも、普段なら赤信号に気がつかずに飛び出すなんてことはないんです。いろんなことを考えすぎていて注意が散漫になっていたんだろうなって。ではそれってなんだろうって」
「はあ……」
 都紀子が瑞希の目を見て言った。
「あの子、誰かに恋をしていたみたいなんです」
「え」
 日記なんてつけたことのない子なんですけど、その時分、歌をいくつかつくってたみたいで、それが恋とか失恋とか、そんな内容なんですね。これは直感でしかないんですけど、今思うとあの感じは恋、それも片思いの誰かがいたんじゃないかと思うんです」
 そう言って、都紀子は再び瑞希を見た。
 瑞希は相手の言わんとしていたことがようやくわかった。
 そこで慌てて首を振った。
「私は違います。北山さんからそんな風に見られていたことはないと思います」
「そうですか」
 都紀子は少しほっとしたような、がっかりしたような表情を浮かべた。
 子供っぽくて他人の思いには鈍感な方だと自覚している瑞希だが、自分が思いを寄せられていたということは、どう考えてもありそうにない。
 彼からそんなまなざしを感じたこともないし、それらしいことを仄めかされたこともない。単に同じ音楽の世界を目指す友達同士、という関係だったと思う。
 瑞希の方でも、明るく謙虚で素直な翔太には好意を持ってはいたし、初めの頃は、もしも彼氏だったらどうだろうと妄想したこともあったが、すぐにやめてしまった。
 実は少年との関係を訊かれたのはこれが初めてではない。史奈からも、遠回しに訊かれたことがある。その時はプッと噴き出して、「まさか」と言ったのだったが、さすがに母親に対してそんな態度をとるわけにはいかない。
 むしろ翔太がそうした感情を抱くとすれば……。
 瑞希は西山家のアトリエで中学生の百合香の絵をじっと見ていた翔太の姿を思い出した。まさか。
「何か?」
「いえ、何でもありません」
 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。未玲がやってきたのだった。
「遅れてしまって申し訳ありません」
「いいえ、こちらこそありがとうございます。事故を押して来てくださって」 
 未玲が翔太のレッスンの思い出話を話すのを瑞希は聴いていた。
 聴きながら、さっき一瞬思い浮かんだ考えを反芻した。
 百合香と翔太が会ったことはある。一度だけ。兄から聞いた。百合香も翔太の演奏に驚いたらしい。
 翔太の方も、絵に描かれたよりも大人になってさらに美しさを増した百合香を見て、心奪われたとしてもふしぎではない。しかも彼女は翔太が尊敬する莉々の娘なのだ。
 でも、その百合香は兄に夢中だし、翔太の思いはかなうことはなく、傷心の翔太は未玲先生の所へ行くと偽って、もうすぐ日本を離れる百合香に最後に会いに行こうとして……。
 想像をたくましくするとそういう感じだろうか。
 お話としては成り立つ。でもリアリティがない。
 翔太が一目ぼれした百合香にコンタクトをとった形跡がないからだ。また、翔太と話していて、百合香への特別な思いを感じたということもない。
 もちろん、そんなことは内緒にするのだと言われればそれまでだが、瑞希も翔太との会話の中で、何度か百合香の名前を出したこともあった。相手は百合香のことを、莉々の娘という目でしか見ていないような反応だった。百合香との会話でも、翔太の話題が出たことはなかったし、内緒で会ったなどということもなさそうだった。
 百合香にとっても、瑞希の友達の少年、という認識しかなかっただろうと思う。だが、そう言い切れるかどうか。
 そんな思いにふけっているうち、未玲はバッグから取り出したCDを手に取って都紀子に見せていた。
「これ、翔太さんから貸していただいたんです。今になって思い出して」
 そういって、未玲は瑞希にジャケットを見せた。
 日本人の若い男性が五人ほど写っている。エレキギターにキーボード、ドラム、ロックバンドだろうか。この分野には全く疎いので、「ブリーザーズ」というグループの名前も初めて見る。一応、瑞希も目にするメジャーなレーベルなので、それなりに知られたグループなのだろう。
 翔太がクラシック以外も聴くことは知っていた。だから、こんなCDを持っていても不思議ではない。
 都紀子の顔が少し歪んだような気がして、瑞希はハッとした。
「これ、私の付き合っていた人なんです。翔太のお父さん」
 都紀子は瑞希に向かってそう言って、ジャケットのギタリストの一人を指さした。
 痩せて長髪の男性が笑みを浮かべている。言われると、確かに目元が翔太に似ている。
「北山健吾っていうんです。この人がグループの曲を作曲していたんです。私、このグループの前にやっていた別のバンドのファンで、それでこの人と知り合ったの」
 都紀子の顔に一種の輝きのようなものが浮かんだ。
 その名前は翔太から聞いたことがある。自分の父親だという人だ。瑞希は、そうなんですか、と小声で答えた。未玲を見ると黙ってうなづいている。彼女の方は、都紀子が話したことを承知しているようだった。
「翔太がまだ生まれる前に別れたんです。理由は……まあ、瑞希さんにお聞かせするようなことじゃありませんよね。でも、翔太は父親のことは知っていました。翔太がカナダに留学していたときは、彼の所にときどき遊びに行っていたようですけど」
「今カナダにいらっしゃるんですか」
「バンクーバーです。一度アメリカのシアトルに引っ越したらしいんですけど、最近会った私の友人が今はバンクーバーに戻ったって。雑貨屋をやっているみたいですね。音楽は続けているのかどうかは知りません。特にやりとりもありませんので」
 都紀子はそっけなく言った。父親がシアトルに引っ越した云々の話も、翔太が話していたような気がする。
「ところで……」
 話題を変えようとした都紀子に、未玲がなおも尋ねた。
「その、お父様にはその後連絡は取れたんですか」
「いいえ。連絡くらいはしたかったんですけど。そうすれば先生にも……いえ、私はもう、彼にまつわる物は何も持っていないので」
「そうなんですね」
 未玲は自分もがっかりしたような口調で呟いたので、瑞希は思わず未玲を見た。
 すると、都紀子が意外なことを口にした。
「ところが、先日、一周忌を機会に翔太の部屋を整理していたら、メモ帳が出てきたんです。やはり住所はバンクーバーのダウンタウンみたいでした。一周忌も過ぎて、今さら連絡しても仕方ないとは思ったんですが、一応、電話をしてみたんです。でもお話し中なのか、出ないんです。住所を訪ねて行けばいいのかもしれませんけど、そこまでするだけの時間がありませんのでね」
 未玲は頷いたが、
「もしよかったら、私が行ってみましょうか」
「え、先生が?」
「私いつも九月の初旬に夏休みをいただいて、気晴らしに旅行するんです。今年は海外もいいかなって思ってまして。ですから、それだったら、ついでに立ち寄ってもいいかなって、今ふと思いついたんですけど」
 瑞希は未玲の言葉に驚いた。彼女にしてはずいぶん、行動的だと意外に感じたからだった。
 さらに意外だったのは、都紀子の反応だった。
 黙って考えを巡らせている様子だったが、すぐに、
「じゃあ、住所をお教えしますので、確認していただけますでしょうか」
 と、遠慮する態度もほとんど見せず、あっさり、依頼した。
「わかりました」
「外国ですから、あまり無理なさらないでね。先生にとっては、とても思いが……」
 ハッとしたように都紀子は黙った。
 何を彼女は言いたかったのだろう。
 北山家を辞して駅まで帰る途中、彼女がバンクーバーに行くちょうど同じ時期に、兄の悠太が百合香に会いに行く予定だと、瑞希が言うと、未玲は少し驚いた様子だった。
「ああ、そうよね、百合香さんももう、日本へ戻るんですものね」
「百合香さんにも会うんですか」
 すると未玲は首を振った。
「いいえ、だって、お兄さまが会いに行くんでしょう?二人の邪魔しちゃ悪いじゃない。だから私が行くっていうことはお兄さまには内緒にしてね。でももちろん、向こうで気が向いたら連絡してみるかもしれないわ」
  
                    ***

 瑞希は再びピアノに向き合った。
 気分を変えて、ソナタの第四楽章を弾く。
 この曲の中ではこの楽章が一番好きだ。
 明るく朗々と歌う唱歌のようなテーマはシューベルトならではのもので、第四番のソナタの第二楽章のテーマでもある。ただしこちらの方がずっと曲として大規模で、彼のピアノソナタの終楽章としては最も充実していると思う。
 最初はまず右手で、それがひとしきり済むと左手に移り、右手は細かい装飾的な動きをする。別のテーマを加えながら段々盛り上がっていく。ロンドといっても、全く同じ形でテーマが繰り返されることはない。最後は突然、第一楽章の冒頭を思わせる音型で締めくくられる。シューベルトもこのソナタ全体をまとめるのに苦労したのかな、と感じさせる終わりかただった。
 一通りさらって、瑞希はふっと息をついた。とりあえずまた明日改めて練習することにして、別の曲を練習しようとして立ち上がったとき、携帯のメールが届いた。
 兄からだった。
 瑞希も百合香にならって、LINEなどのSNSはやらないことにしている。やると気が散るというのもある。
 カナダで何かあったのか、それとも浮かれて写真かなにかを送ってきたのだろうか。
 開くと、港の写真と、まるで赤毛のアンの世界のような、百合香の部屋の写真とともに、今バンクーバーにいること、そして昨日の夕方蔵原先生と会って、明日百合香さんに会わせる予定だと書いてあった。
 なんだ、やっぱり、おにいちゃんと会ったんだ。北山さんのお父さんには出会えたのかしら。まあ、無事でよかった。
 
 瑞希はぼんやりと窓の外を見た。
 雨はまだ降っている。
 彼女の思いは再び少年のことに帰っていく。
 本当に翔太は誰かに恋していたのだろうか。
 今改めて考えても瑞希に答えは浮かんでこない。百合香でもなく、もちろん自分ではないとすると、やはり自分の知らない学校の友達ではないだろうか。
 もう亡くなってしまった人間が誰を好きだったのかなど考えても意味があるとも思えないのだが、つい気になってしまう。なぜ自分は気にしているのだろうと考えた。
 自分が恋などしたことがないからだろうか。
 今まで不思議だとも思ってこなかった。
 小学校の頃に好きな男子などいなかったし、中学からは女子校だし、ピアノに毎日向き合う生活では異性と知り合う機会などない。
 中学校の頃まで習っていたピアノの先生も独身だったし、未玲先生はもちろん、今度習うであろう山本先生も独身らしい。女性のピアニストが特に独身が多いという話は聴いたことがないので、偶然なのだろうが、身の回りに恋の雰囲気を感じさせる人間は兄と百合香以外にはいない。だから、少年の恋心にも鈍感だったのだろうか。
 ふと少年が百合香の絵を見ていた場面が再び思い浮かんだ。
 あのじっと凝視している様子は、単に絵を鑑賞するという感じではなかった。
 だから自分は少年が百合香に恋心を抱いたのだと感じたのだった。でもそうではなかったらしい。
 そのとき何かひとつの考えが閃いたように思った。
 まさか。そんなこと。
 それは、あまり考えにくいことだったので、単なる思いつきとして十分に吟味する必要もないと感じた。瑞希は思いを振り切るように、再び練習を再開した。

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