第13章 選択の時

文字数 4,969文字

 選択の時
 
 翌朝。
「じゃあ、ミレ先生、お気をつけて」
「ありがとう。帰りのバスの手配までしていただいて、助かったわ。……秋野さんも、どうもありがとうございます。ドライブに同行させていただいてとても楽しかったです。邪魔者は帰るから安心してね」
「どういたしまして。僕も先生と一緒で楽しかったです」
 早朝ジャスパーを発ってエドモントン空港へ向かうバスに乗る未玲を、百合香と悠太は見送った。今日の昼にはエドモントンに着いて、翌朝の飛行機でバンクーバーに戻り、成田行きの便に乗り換える。バンクーバーまでの手配は百合香が済ませた。
 はにかむような笑顔を見せて未玲が二人に手を振った。
「では、日本でまたお会いしましょう」
 バスが遠くへ消えたのを見て、二人は再びホテルに戻った。ここであと二泊過ごす予定にしている。
 階下のレストランで朝食を済ませることにした。
「蔵原先生、無事に帰れるかな」
「大丈夫でしょ。余裕を持たせたスケジュールだし、空港内のホテルも予約してあるし。バスさえ乗ってしまえば、ミレ先生もさすがに迷うことはないと思うわ」
 昨日、未玲は結局夜まで帰ってこなかった。遅くなるから夕食は二人でとって、と百合香に連絡があったらしい。帰ってきてからはそのまま百合香と寝室で話をしていた。そのため、悠太は詳しい事情を知らないままだった。
「蔵原先生から話は聴いたの?」
 コーヒーカップを手に持って、悠太は遠慮がちに尋ねた。
 百合香はうん、と頷いた。
「コーヒーを飲み終わったら、お部屋に行きましょう」
 百合香たちの泊まった部屋は角部屋になっていて二方向から光が入って明るく広々していた。北側の窓の外には三角錐の形の良い山が見える。その名もピラミッド・マウンテンというらしい。
 百合香が、改めてティーパックのハーブティを淹れてくれた。爽やかで、甘さも混じった香りが鼻腔を満たした。
「バンフで買ったの。香りがいいでしょ」
「うん、とっても」 
 カップを手に持ったまま、百合香が口を開いた。
「昨日、ミレ先生が訪ねて行って出会った、あの男のひとが北山さんのお父さんの北山健吾さんだったのよ」
「そうなんだね。ただ……」
 百合香が引き取って、
「ミレ先生はあのひとに、自分のお父さんみたいに話しかけていたわよね。つまり、あのひとは彼女のお父さんでもあるのよ」
「……」
 北山健吾という人物は、未玲の母親と結ばれたが、事情があって結婚はしなかったらしい。すぐに別れたものの、未玲が生まれた。北山健吾は後に都紀子と結婚し、悠太が生まれたのだという。したがって、未玲と翔太は異母姉弟ということになる。
「蔵原先生は当然知ってたんだよね」
「ええ。北山さんのお父さんと同一人物だと知ったのは、去年の春ね。北山翔太さんのお母さまと会ったときに、お母さまに北山健吾氏のことを告げられたの。お母さまは別れた夫から、前の妻や子どものことについて話を聞いて、ミレ先生の存在を知っていたのよ」
「なるほど」
「なんだか昔の古いテレビドラマみたいな話だけどね」
 百合香はそう言うと黙った。
 悠太は百合香を見た。何か、もっと何かを言おうとして口をつぐんでしまったように感じたからだ。
 悠太の視線を受けて、百合香は何かを躊躇うような表情で窓の外を見た。
「どうしたの?言いづらいことなら……」
「ごめんなさい。ミレ先生から誰にも言わないでって頼まれたから。やっぱり、悠太さんにもこれ以上は話せないわ。ごめんね……」
 百合香は俯いた。
「うん。いいんだよ。約束は守らなきゃ」
 これまでのいろいろなことから、何となく想像はできる。だが、未玲が言わないでほしいと百合香に言った以上、他人のプライバシーをこれ以上詮索することは慎むべきだろう。
「で、そのお父さんはこちらで家族がいるわけね」
「ええ。奥様も日本人で、義理の娘さんが一緒に店を手伝ってるって言ってた。近々独立してバンフに店を出す予定もあるみたい」
「ああ」
 バンフで未玲たちが買い物をしているのを路上で待っている間に見かけた、未玲に印象が似ている女性は、そのひとだったかもしれない、と悠太は思った。
 
***

 沈黙の後で、百合香が再び口を開いた。
「話は変わるけど今度はわたし自身のことを話してもいい?」
「もちろん」
「わたしもこの何日か、いろいろと考えて、決めたの。……来年の秋にコンクールに出ようと思う。それで入賞できたら、音楽を選ぶ。ダメだったら、今さら研究者も無理だから、別の仕事を探す、って」
 百合香によれば、「ロンバルディア国際音楽コンクール」という、イタリアのミラノで開催される、ヴァイオリンではそこそこ権威のあるコンクールがあるそうだ。四年に一度の開催で、かつて涼子が優勝し、ソリストとなるきっかけとなったコンクールでもあるらしい。次の開催が来年の十月で、ローゼンシュタットも審査員として参加するのだという。そこで彼女や、涼子に誘われたのだった。ここである程度の結果を残せれば、百合香も演奏家の道に進むきっかけになるというわけだった。
「いいんじゃない。応援するよ」
「ありがとう。でも、大学の授業も受けながらだと時間がとれるかなあ。……それは何とかするとして、悠ちゃんにもあんまり会えなくなる。帰国したら毎日デートしようと思ってたのに」
 上目遣いで悠太を見る百合香に、
「僕のことなら心配しなくてもいいよ。学校で会えれば十分だから、家で十分練習して。瑞希も別に毎日練習行かなくてもいいんだし」
「それはダメよ。瑞希ちゃんは大事な時期だから。前やってたみたいに、ヴァイオリンはほかの部屋でも練習できるから。
 わたしも平日は毎日四時間くらい練習は続けているけれど、コンクールに出るような人はその倍から三倍は練習してるわ。まあ、時間よりも内容と集中力が大事だとわたしは思うけれど。でも、レパートリーを増やすにはどうしても時間は必要なの」
「でしょうね」
「学校の勉強の時間も削らなければならなくなるけれど、卒業は絶対する」
「僕も何かできることがあれば手伝うよ」
「ありがとう。宮島先生には後で相談するわ」
「それがいいよ」
 百合香はふっと息を吐いた。何か目標が明確に定まったという、ふっきれた表情だった。

                   ***

 悠太は窓の外の山並みをぼうっと眺めた。空は澄み渡っている。快晴の空を背景に、遠くの木々の黄葉も色鮮やかさを増している。
 長く暗い冬が来る前の束の間の好天の日々、日本でいえば小春日和のような天気のことを、こちらではインディアン・サマーというらしい。今日などはそれに当たるのだろうか。みんなの心も晴れ渡ってくれればいいが、と悠太は思った。
 百合香が自分を見ているのに気づいた。
「ごめん、また、ぼうっとしてた?」
「ううん」
 百合香は首を振って、なおも悠太を見ている。
 悠太も百合香を見た。百合香は目を瞑った。
 愛おしさと切なさがこみあげて来た。悠太は百合香の手をとって、顔を近づけた。目を瞑ったままの百合香に、いつものようにそっと口づけをした。
 いつもはそれで終わるのに、今日はそれだけで終わらなかった。
 悠太が顔を話すと、百合香が目をあけた。そして、悠太の胸に顔を当て、背中に手を回してきた。
 悠太も百合香を抱きしめた。細く柔らかい身体は強く抱きしめると溶けていってしまいそうだった。いつまでも自分のものでいてほしい。
 再び口づけを交わす。一度離してもすぐにまたお互いに唇を求め、重ね合わせる。
 こんなことの繰り返しで数分が過ぎたとき、百合香がささやいた。
「悠ちゃん、いいのよ……わたしを好きにしても」
 百合香の目は潤んで、まるで別人のように、顔全体から色香が放たれていた。悠太はその甘い誘いに理性を失いかけた。だが、かろうじて踏みとどまった。せっかくの雰囲気をぶち壊しにしてでも、言わずにいられない。
「ありがとう。ユリカさん。でも、聞いて」
「うん?なあに」
「ユリカさんのこと愛してるよ。……言葉に言えないくらい」
「わたしも」
「でもね、つまんないことを言うようだけど、やっぱり、愛と欲望って違うと思うんだ」
「うん……」
 百合香は突然理屈っぽいことを言われて、少し当惑した表情になった。
「ごめん、うまく言えないけど、ユリカさんに欲望を抱いてる。ユリカさんを自分の思い通りにしたいって。でも、それは愛しているからとはちょっと違う。……男って、魅力的な女性なら、それほど好きでなくても欲望を感じるから」
「そうなの?」
「たぶん。だから……」 
「でも、好きな相手と、そうでない相手とじゃ、違うんじゃない?」
「それはそうだと思うよ。好きな人との方がずっとうれしいとは思う。でも」
 百合香は突然クスクスと笑った。
「悠ちゃんて潔癖なのね。もしかしたら、わたしよりも」
「そうかな」
「でも、ちょっとだけ足りないことがあると思うわ……欲望って、男性だけが持っているんじゃないってこと」
「……」
「男のひとほど激しくはないけど、相手を自分のものにしたいっていう点では同じよ」
「そうなんだ」
「でもそれは、こうしてただ抱き合っているだけでもいいの。この人とつながっているって思える。わたしはそれだけで十分幸せ」
 百合香は黙って瞳を動かした。そして、
「子どものころは、学校の先生や美佐伯母さまの言うことをそのまま受け入れていた……でも、わたしはカトリック信者じゃないし、大切なのはただ純潔を守るっていうことよりも、欲望を、理性とか、日常の暮らしと調和させるっていうことなんじゃないかって、最近思うようになったの」
 百合香は微笑んだ。
「わたしも理屈っぽいよね」
「ううん」
 百合香は悠太の手を握った。
「ねえ、もうひとつだけいい?……花はいつまでもきれいに咲いていられないのよ。悠ちゃんにはわからないかもしれないけれど、わたしも二十歳すぎて、これからは顔も肌も、だんだん衰えていくの」
「まだ、そんなことないよ」
「ううん。自分でわかるわ。肌のみずみずしさや張りとかが弱くなって、シミとか、皺とかがだんだん、増えてくるんだわ。このまま気がついたら歳をとっていて、その時になったら悠ちゃんは、もうわたしのことを……」
 悠太は百合香の唇に人差し指を当てた。
「大丈夫だよ。歳をとるのは僕だって一緒だから。僕だっておじいちゃんになるんだ。でも歳をとってもユリカさんのことが好きでいると思う。ずっと、ずっとだから。そんなこと言わないで」
「本当?」
「もちろん。……僕の方こそ心配なんだ。もしかしたら試験に受からないかもしれないし、そうしたらユリカさんにふさわしくないって思われるんじゃないかって」
 百合香はふふ、と笑った。
「おバカね。悠ちゃんは悠ちゃんのままで、どんな仕事につくかなんて、関係ない」
 これまでにないほど、柔和な表情を見せた百合香が腕を伸ばして悠太に覆いかぶさった。
「かわいい悠ちゃん。悠ちゃんはわたしのもの……」
 悠太の髪を撫で、柔らかな唇を顔じゅうにそっと押しつけた。悠太はなすがままにされた。赤ん坊の自分が母親にやさしく愛撫されているようだった。悠太はくすぐったくなってくるのをこらえた。
 しばらくして気が済んだらしく、百合香は悠太の胸元に顔を寄せた。
「まだわたしたち、このままでいるのね」
「ユリカさんさえよければだけど」
「いつまで?」
「うーん、結婚するまで」
 百合香が少し驚いた表情を見せた。
「長い?」
「ううん。そんなことない。わたしもその方がいいわ。うふふ」
 そしていたずらっぽい笑顔になって、
「賭けをしようか。本当に悠ちゃんが我慢していられるか」
「じゃあユリカさんはそうじゃなくなるほうに賭けるんだね」
「そうよ。……じゃあ、わたし悠ちゃんのこと、誘惑しちゃおうかしら。セクシーなお洋服着たりして」
「ダメだよ。そんなことされたら」
「嘘。そんなことしないわ。わたし、悠ちゃんのことを信じてるし、悠ちゃんとの関係をいつまでも大切にしたいから」
 そう言って百合香は悠太を再び抱きしめた。悠太はなすがままにされた。
 

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