第6章 ホストファミリー

文字数 6,669文字

 ホストファミリー

 二人はホテルを出て、タクシーで百合香のホームステイ先へ向かった。
 大学はバンクーバーの西に大きく突き出た半島の先にあり、市街地とは森林やゴルフ場などで隔絶された場所にある。その面積は広大で、キャンパスに隣接してニュータウンのような住宅地もある。
 住宅地は集合住宅と一戸建てがあり、一戸建ては日本でなら間違いなく豪邸と呼ばれるような構えだが、こちらではどうなのかはよくわからない。そのうちの一軒がホームステイ先だった。
「今戻りました。あき先生、こちらが秋野翔太さん」
「いらっしゃい。あなたがユリカの彼氏ね。私は笹山といいます。笹山あき。よろしく」
 出迎えた女性は三十代半ばくらいの日本人女性だった。光陵大学の宮島教授の友人で、こちらの大学の研究員をしている女性らしい。ショートカットのサラサラの髪と黒ぶちの眼鏡、早口の話し方など、知的で活発な印象を受ける。
 もうひとりの、リビングに座っている髪の長いカナダ人女性は上品でおっとりした印象だった。
「ようこそバンクーバーへ」
「こちらの家の主で、パートナーのアリス・マクダガ―です」
 笹山教授が紹介する。
「はじめまして」
 と中学生の時に習った英語の挨拶をした。
 ソファを勧められて、百合香と並んで腰を下ろす。
「今朝着いたんですか。疲れたでしょう」
「はい、少し寝不足みたいです。……でも皆さんに会えて何よりです」
「そう、ありがとう。ユリカの言うとおり、かわいい子ね。普段この家は男性はご遠慮いただいてるんだけど、ユリカの彼氏なら仕方がないわ。今日は特別です……じゃあ、秋野さん、この家では常に英語で会話することになっているんです。うまく話せなくてもいいから、たった今から日本語は禁止ね」
「はい……あ、イエス」
 というわけで、英会話が得意でない悠太は結局、女性三人の会話を聴くだけになってしまった。時々笹山教授が話を向けてくるのだが、簡単な答えを返すのが精いっぱいだった。
 お茶とマフィンのようなお菓子が出されたので、何とか間が持った。
 ところが、百合香が残っている荷物を整理するので、ちょっとだけ時間がほしい、と言って悠太を残して出て行ってしまった。そのため、悠太が二人の相手をすることになった。
 アリスは、その名のとおり、中学校の英語の教科書に出て来た「不思議の国のアリス」の挿絵の少女をそのまま大人にしたような雰囲気の女性だった。外国人の年齢はよくわからないが、笹山教授と同年代に見えた。さっそく悠太に向かって話しかけてくる。早口でよくわからず、あきの助けをかりて何とか会話ができた。
 アリスも大学に勤めていて、専門はカナダを中心とした北米の美術史なのだと言った。
 北米の画家というと、悠太には何といっても好きな画家、エドワード・ホッパーの孤独感漂う風景画が思い浮かぶ。ほかにもポロックやロスコ、ウォーホールなどの現代美術、ディエゴ・リベラやフリーダ・カーロなどメキシコの画家の作品などは本や展覧会でよく目にする機会がある。だが、カナダの画家となるとほとんど知らない。
「エミリー・カーの作品はいくつか見たことがあります。……カナダの美術は先住民アートの影響なんかも受けているんでしょうか」
 持っている知識のほとんどを動員してこれだけ言うのがやっとだった。
「必ずしもそうとは言えませんね。主流はやはりヨーロッパのロマン主義とか印象派、表現主義の流れです。もちろん、先住民アートの影響や、とりわけアメリカの現代アートの影響はとても大きいです」
 アリスとは美術談義がひとしきり交わされたあと、彼女がところで、と話題を変えた。
「ところで、ユリカのことですけど、彼女が政治学の研究者をこころざすようになったのは、あなたの勧めなの?」
「いえ。僕が知り合ったときには、すでに決めていました。それが何か」
 たどたどしい英会話にしびれを切らしたらしく、あきが引き取って続けた。アリスに断って、日本語になった。
「彼女は迷っているみたい。アリスは、ユリカは研究者よりアーティストを目指した方がいいんじゃないかって考えているの」
 先ほどの空港での黒崎香織との会話をいやでも思い出す。
 あきがアリスに英語で通訳すると、アリスは頷いた。そしてあきを通訳にして会話が続けられた。
「自分もヴァイオリンの演奏家を目指していたことがあったので、そう感じるけど、あなたはどう思ってらっしゃるの?」
 とアリス。
「僕は、彼女の意思が決まっていると思うので、研究者になるのを手伝いたいと思っています。お二人は、彼女は研究者には向いていないと思われますか?」
 あきは少しだけ沈黙した。そしてアリスとしばらくやり取りしたあとで、悠太に向き直った。
「ユリカは勉強熱心だし、あなたのサポートもあるようだから、研究者になるのは困難なことではないと思う。
 ただ、彼女は勉強のほかにヴァイオリンの練習も毎日、何時間も熱心に続けているわ。音楽の道もあきらめてはいないように私たちには思える。しかもここにきて迷いだしているみたい。ローゼンシュタットさんからも強く勧められたようだし。このままではどっちつかずになってしまう可能がある。研究者になるなら、当面ヴァイオリンは、もう手にしないくらいの気持ちにならなければ。でも、今の彼女にそれができるか。そこが心配なの」
「わかりました。彼女とよく話し合ってみます」
「それがいいと思うな」
 十分ほどで百合香が戻ってきたため、会話はそこで中断し、百合香が自分の部屋に案内してくれた。
「わあ、かわいい」
 淡いピンク系統のストライプに花が描かれた壁紙や、白い窓枠など、赤毛のアンにでも出てきそうな趣味の内装だった。瑞希に見せてやりたい。かわいいもの好きな彼女が見たら歓声を上げるだろう。とりあえずスマホで写真を撮る。
 ベッドと机、チェスト、本棚も白とピンクが基調だった。
「もとはアリスが使っていた部屋らしいけど、ちょっと可愛いすぎて落ち着かないのよね」
 確かに百合香に似合うかどうかは微妙だった。かすみケ丘の実家での彼女の部屋は、北欧テイストのシンプルでナチュラルなインテリアだった。
「でも、いい匂いがするね。ハーブの」
「ええ。この前買ったの。やっぱりこちらは充実してるわ。ちょっと匂いが強めだけど」
 ハーブ好きの百合香は嬉しそうに言った。
「この家、三人で住んでるんだ」
「そう。元々アリスのご両親が住んでいたんだけれど、何年か前に米国のLAの近くに移住してしまって彼女一人になったので、笹山先生と一緒に住むようになったの。ホームステイを受け入れたのはわたしが初めてなんだって」
「笹山先生はこちらは長いの」
「五年前から暮らしてるらしいわ。もう日本には帰らないんじゃないかな。結婚もしたし」
「結婚したの?」
「ええ」
 結婚しているのになぜアリスと二人で暮らしているのか、と訊こうとして、アリスのことを「パートナー」と言っていたことを思い出した。百合香がこちらの心のうちを察したかのように、
「カナダでは同性婚が認められてるから」
「そうなんだ」
「びっくりした?」
「うん。少しだけ」
 知らず知らず、性に対する思い込みにとらわれている自分を自覚しないわけにはいかなかった。
「二人にはとてもよくしてもらっているの。こちらにも音楽室があって、ヴァイオリンの練習に使わせてもらってるのよ。アリスもずっとヴァイオリンをやっていたの。だからわたしがピアノを弾いて合奏したりもするわ」
「ヴァイオリンはあいかわらず毎日練習してるんだ。独りで?」
「ええ。月に二三回、ウエブで門倉先生に見てもらってるけどね」
 最初はもう先生にはつかないかもしれないと言っていた百合香だったが、結局高校三年の春からも途切れることなくレッスンを受けることになった。去年から習っている門倉理恵という先生は、涼子の後輩で、やはりプロのソリストだった。涼子が北海道へ行ったあと、代わりとして紹介してもらったのだった。
「ところでさっき空港で、わたしが席を外していたとき」
 百合香が思い出したように言った。
「黒崎さんたちと何か話してたわよね。すごいまじめそうに。初対面なのに、って感じたんだけど、何を話してたの?言いにくいことなら教えてくれなくてもいいけど」
 悠太は香織に、百合香にヴァイオリンの道に戻るよう促してくれと言われたことを話した。さらに、今しがたもアリスに言われたことを。
 百合香は軽くため息をついた。
「そんなことだと思った。……で、悠太さんもわたしに学問よりも音楽をとるように勧めるの?」
「いや、それはユリカさんの希望次第だと思う。どっちでも僕は応援するよ」
「そう」
 百合香は床に視線を落としたまま言った。空港で会ったときから、いまいち元気がないように感じていた。やはりこのことで思い悩んでいるのだろうか。
「わたし、前に言ったようにヴァイオリンのプロになるという選択肢は捨てたつもりだったの。練習はするけど、それは自分のためだけのものだった。でも、クララ先生がこの家に来てから……」
 先ほど香織からも聴いたのと同じようないきさつを百合香は語った。
 クララ・ローゼンシュタットはここ二十年近く故郷のウイーンを離れてバンクーバーに住んでいる。以前、アリスが大学のイベントか何かで知り合って、この家に来たこともあるのだという。アリスもヴァイオリンをやっていたから、それが知り合う縁だったのかもしれない。
 そしてクララは百合香の演奏にずいぶんと驚いた様子で、今度八月に別荘でごく少人数でセミナーをやる。それに先立ってレッスンをしようと思うが、来れるだろうか、と言うのだった。
「もちろん、わたしはプロを目指してますなんて言ってないわ。でもそれでもいいというので行ったのよ。時間に余裕があったからね。結局八月も黒崎さんたちと残ることになって、だから、エレナと旅行したあと、まるまる一か月半、クララ先生の別荘にいたの」
「ふうん。そうだったの」
「でもなんか変だと思ったんだ。わたしみたいな素人のところにあんな著名人がわざわざ聴きにくるなんて」
 百合香は少し口を歪めた。
「涼子先生よ」
「佐倉先生?」
「彼女、クララ先生と知り合いなのよ。それで、自分の弟子が今バンクーバーに来ているからぜひ一度聴いてみて、もし見込みがあると思うならアドバイスをしてやってほしいって頼んだらしいの。セミナーに行くかどうか迷って涼子先生に相談したら、自分の顔を立てるためにもぜひ行ってほしいっていうから、どうしてと思って問いただしたらそういうわけだったの。……まあ、わたしとしても、あのクララ・ローゼンシュタットに少しでも教えてもらえるならと思って行ったのよ」
「ふうん。それで、少しは勉強になった?」
「ええ。とっても。本当に細かく具体的なところまで教えていただいたし、自分の特性なんかも自覚できて目指す音楽の方向性が明確になったような気がする。……で、後から黒崎さんとその彼氏も来て、彼女とは本当に久しぶりに話をしたわ。コンクールのとき以来かも。そんなことも刺激になったし……今までやってきたことが間違ってなかったって実感できた」
 そう言って百合香は悠太の目を覗きこむようにして、
「正直言うとね、心がぐらついているの。というのは、宮島先生が来年の四月から関西の大学に移籍することになって、ゼミ生も募集しないらしいのよ」
「え、そうなの?」
 宮島先生とは、百合香の亡き父裕章の後輩で、大学の国際関係論の講座を受け持っている女性のことだった。西山家にも出入りしていた。百合香が光陵大学を受験したのも、彼女のゼミに入り、大学院に進学するのが目的だった。その宮島教授が、どうしても断れないしがらみがあるらしく、三年間、光陵を去るという。
「後任の男の先生が相手の大学から交換で来るんだけど、どういうひとかよくわからないし。もちろんそんなことで研究者への道をあきらめるべきじゃないけど……そんなこともあって」
 引っ込み思案で人見知りな百合香が、その殻を脱ぎ捨てて、大学の研究者を目指そうという気になったのは、宮島教授の働きかけが大きかったはずだった。その先生がいなくなってしまう。もともと、対人環境が苦手な百合香にとってはショックだったかもしれない。
 そこへもってきて、かつてコンクールで競った黒崎香織をはじめ、周囲から、あなたはヴァイオリニストを目指すべきだと口々に言われ、心が揺らいでいるのだ。
「学者もプロのヴァイオリニストも、っていうわけにはいかないんだよね」
「そうね。この歳になったらもう、どちらかをとったら、どちらかはあきらめないと。両方とも徹底してやる時間はないもの」
「そうだよね……もちろん、ユリカさんの希望どおりでいいんじゃない?というか、選択肢があって正直うらやましい」
 百合香が頼りなさげな目でこちらを見るので付け加えた。
「ヴァイオリンを弾いてるときと、勉強してるときと、自分ではどっちが充実してると感じてる?」
「それはどっちも。比べられないわ。……ごめんね、悠太さん。わたしが決めなきゃいけないことで、悠太さんを悩ませちゃって」
 悠太は、百合香は自分にアドバイスがほしいというより、悩んでいることを聴いてもらいたい、あるいは自分なりの結論めいた思いを後押ししてほしいのだと悟った。まあ、悠太のその場の思い付きなど役にはたたないかもしれない。
 ならば、百合香の思いとはどちらなのだろう。考えがにわかにはまとまらない。
「そうだね、悩ましいよね」
 とりあえず口に出してみる。
「うん」
「どちらで悩むときはいっそのこと、どちらも選ばないという手もあるけど」
「え?」
「いや、ごめん。ただの思い付きだから忘れて」
 たまたま十年ぶりに将棋の対局番組を見ていたときに、角で飛車と金の両取りをかけられた場面があって、解説者が「両取り逃げるべからず」という将棋の格言のようなものを説明していたのを思い出して言っただけだった。改めて考えるとこの場合には当てはまらないと思う。時間稼ぎとはいえ、悠太は大した考えもなしに口にした自分が嫌になった。
 自分の正直な気持ちを言うしかないと思う。
「もし、どちらを選ぶかと訊かれれば、僕が同じ立場なら、僕でしかできない方を選ぶかな。どちらもその人しかできないことではあるけれど、学者かヴァイオリニストかだったら、学者は、意志と努力で何とかなると思うけど、芸術はそういうわけにいかないでしょ。持って生まれた才能が大きいから。もちろん、学者だって名を残すような業績をあげるのは難しいと思う。それに、指導教授との相性とか、人間関係もいろいろあるみたいだし」
 光陵がどうかは知らないが、アカデミズムの世界も、パワハラとかセクハラとか、問題はあるようだった。特に百合香のような若くて美しい女性は何かと気苦労が多いかもしれない。
「そうかもね……うん」
 百合香は床を見つめたまま頷いた。
 自分の考えていることと一致したらしい。まだ結論までには至っていないようだった。それでも悩みを打ち明けて少し落ち着いたらしい。
「ありがとう、悩みを聞いてもらって。わたしのこと失望した?音楽よりも研究者を選んだはずなのに、意思が薄弱だって」
「ううん、全然。僕だって、やりたいことが二つあって、今すぐどちらかを選べ、って言われたら迷うと思うよ。一度しかない人生だから。だから、回り道とか、他人の評判とかよりも大切なことがあると思うんだ」
 悠太は安心させようと、百合香の手を握った。百合香も握り返してきた。お互いしばらく沈黙したままだった。
 百合香は多少気持ちが落ち着いたのか、微笑んだ。
「そういえば、思い出しちゃった。ミレ先生はお元気になったみたいでよかった」
「ああ、蔵原先生ね」
 おそらくあの少年が亡くなったショックで、しばらくの間、ひどく落ち込んだ未玲も、代わりに瑞希がコンクールで一位をとったこともあって、多少元気は取り戻したらしいが、そのあと、また具合が悪くなり、レッスンもしばしば休むほどになった。原因はわからないが、やはり精神的なものみたいだと、瑞希は言っていた。
 今年に入り、やっと持ち直してきて、今ではかなり回復したという。
「わたしも先生にメールしたけどなかなか返事もいただけなくて、心配したんだけど、この前メールが来て、だいぶ良くなったって。日本へ戻ったら先生にもご挨拶に行かなくちゃ」

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