第9章 バンフ

文字数 7,107文字

 バンフ

「この道を真っすぐ進めば一号線に出るはずよ」
 空は青く澄み渡っている。九月の中旬、世界は秋の透明な光に包まれていた。
 カルガリーの空港で予約していたレンタカーを借り、出発したはいいが、車線が多く、慣れない右側通行もあって、まっすぐ進むべきところを右折してしまい、反対の方角へ行ってしまった。百合香の案内で何とか左折を繰り返して目指す道路へたどり着いた。
 片側二車線のこの道路は、「トランス・カナダ・ハイウエイ」の名で知られている。東海岸から西海岸まで、この国を東西に横断する道路網の一部をなす、カナダ随一の幹線道路だが、交通量はそれほど多くはなく、快適に走ることができた。今日の目的地のバンフへは一時間少々、その先さらに行けば、ロッキー山脈を横断してバンクーバーに戻ってくる。
 カルガリーの市街地を抜け、かつての冬季オリンピック会場跡地を過ぎると、辺りは畑や牧草地に変わった。
「わあ、広い」
 後席の未玲が小さく感嘆の声を上げた。
 ここは五大湖の西、マニトバ州からアルバータ州へかけて続く大平原が、ロッキー山脈にぶつかって果てるどんづまりで、ここからだとロッキーの麓までは数十キロしかないはずだが、大地が、緩くうねりながら無限とも思われるほどに果てしなく広がっている。
 日本で地平線まで見渡せる場所というのは北海道の東の端にでも行かなければないと思うが、それでもこのような広々とした感じはのぞめないだろう。悠太は目の前の広大な風景に、心が解放されるような気分になった。
 しばらく走ると遠くに微かに見えていた山並みが段々近づいてくる。
「あれがロッキーだよね」
「そうね」
 二十分ほど走ると、ごつごつした岩山が迫ってきた。山の水を集めて滔々と流れる川を横目に道路はバンフ国立公園に入って行く。いつの間にかすっかり山岳地帯に変わった広い谷間の道をしばらく走ると、ほどなく今日の目的地に到着した。
 バンフは日本で言えば蓼科とか白馬のような山岳観光地だが、規模はずっと大きく開けており、軽井沢のような雰囲気もある。今日明日はここに泊まり、その後三百キロ北上したジャスパーへ移動する予定だった。
「ここでいいのかな」
 道路沿いに建ち並ぶホテルの看板を確認して、目指す建物を見つけた。地下の駐車場に車を停める。
 バンフのホテルといえば、巨大なお城のような「バンフ・スプリングスホテル」が有名だ。でも市街地から遠いのと、若者の気楽なドライブ旅行には中クラスのホテルがいいということで、百合香がここを選んだのだった。
 部屋は広々していて快適だった。中心部に建ち並ぶ店にも歩いて行けるし、コストパフォーマンスはいいと感じる。
 車で行く周辺の観光スポットは翌日に回ることにして、女性二人はお土産を探したいというので、ぶらぶら市街地を散策した。
 百合香がまず名前を挙げたのが、石鹸の店で、カラフルな色の固形石鹸のほか、スキンケア用品が並んでいた。その種のアイテムに全く興味のない悠太は、女性二人が手に取ってはしゃいでいるのを少し離れて見ていた。母親や妹に買って帰れば喜ぶかも、と思いつつ、今いろいろ買ってしまうと後で財布がさみしくなってしまうと思ってやめた。
 すると、買い物を終えた百合香が、そっと耳打ちした。
「瑞希ちゃんのお土産にひとつ買っておいたから、後で渡すわね」
「ありがとう」
 そのあと、先住民の工芸品や雑貨などを扱う店に入った。そこは石鹸屋よりも多少は悠太の興味を惹くものがあった。
 繊細なデザインに惹かれて、定番のドリームキャッチャーを二つ、瑞希と史奈への土産に買った。
 買わないと決めたものには興味を失ってしまう悠太と異なり、女性陣は一つ一つの棚をくまなく見て、手に取ったりしている。
 本当に女性は買い物が好きなんだな、と思う反面、そういえば去年、留学前に旅行用品を買った以外、百合香と一緒に買い物に行ったことはほとんどなかったことに気づいた。これからつきあっていくと、今みたいな状況になるのだろうか。彼女が喜ぶ顔を見られるなら、こうして待っているのもそれほど苦ではないとは思うが、手持無沙汰なのは確かだった。
 悠太は通りの向こうに目をやった。
 あれ、と悠太は目を瞠った。
 反対側の歩道を独りで歩いている若い女性が、一瞬未玲に見えたのだった。
 細身でショートの髪、丸顔に清楚な目鼻立ち。着ている服も地味だが上品だった。あの華奢な感じは日本人女性だろう。
 悠太は向かいのジュエリー・ショップのショーウインドーを見ているその女性を見た。体型は確かにそっくりといっていいほど似ている。
 女性は別に買う気はないらしく、すぐに再び歩き始めた。その時に一瞬悠太と目が会ったが、何の反応もなく、立ち去った。 
 真正面から見た顔は、もちろん、未玲ではない。全くの別人だった。だが、雰囲気は共通のものを感じた。
 一昨日の夕方、未玲を見たのも似たようなシチュエーションだったことを思い出した。通りの反対側の歩道を歩いている彼女を見つけたのだ。その時の印象が残っていて、似たような年齢の女性を見て、記憶が誘発されたのかもしれない。
 悠太は、何となく未玲が気になっている自分を意識した。
 異性について自分の好みのタイプというものは誰にでもある。悠太にとっては、おそらく十歳ほど年上ではあっても、未玲もまた百合香とは別の、好きなタイプの女性ではあった。
 そう考えてきて、悠太は未玲のことをこれ以上考えるのはやめにした。見た目や態度が好ましいというだけで、単なる好意を抱く以上のものではないにしても、そんな風に彼女を女性として考えること自体が良くないことのように思われた。
「ごめんね、待って疲れた?」
 遠くの山並みを眺めていた悠太に、やっと買い物を済ませた百合香が声をかけた。
「ううん。……ほしいものあった?」
「まあね。ミレ先生もついつい買っちゃうみたい」
 百合香が店の中に視線をやると、ちょうど、未玲が大きな袋を抱えて出てくるところだった。

 いったんホテルに戻り、夕方、百合香が予約したレストランに行った。
 三人ともお酒はほとんど飲めないので、ミネラルウォーターを注文する。
「今日はお疲れ様でした。かんぱい」
「明日は車でサルファー山というところへ行こうと思います。ゴンドラで山頂まで行けるみたい。バンフの街やロッキーの山の眺望がすばらしいって書いてありました。麓には温泉もあるみたいですよ」
 悠太が告げると、女性二人も賛同した。
「ほかにどこか行きたいところがあったら、リクエストしてください」
「わたしはバーミリオン・レイクっていうところを見てみたいわ。人工湖らしいけど、名前がすてきだから」
 百合香がそう言ったあと、未玲に尋ねた。
「先生はどこか行きたいところありませんか」
「私は特に……もし時間があれば、あのお城みたいなホテルを見てみたいわ」
「ああ、バンフ・スプリングスホテルですね。あそこならサルファー山へ行く途中ですから帰りがけに寄れますよ」
「先生が一緒なら、そっちにすればよかったかしら」
 そういえばバンクーバーで未玲が泊まったのも、クラシックなホテルだった。好みなのかもしれない。
「ううん、全然。街中のホテルの方がお買い物に便利だから。でも、あのホテル、写真でよく見るじゃない。せっかくだから見ておきたかっただけ」
 料理を注文する。
「悠太さんはお肉でしょ。ここステーキがおいしいらしいの。地元のアルバータ牛は有名だから」
 百合香は、初めて出会った年の大晦日に悠太が軽井沢のレストランで注文した巨大なTボーンステーキの印象が、いまだに強いらしい。今もまた未玲にその時の話を聴かせた。
「わあ、じゃあ見てみたいわ。そんなに大きなステーキあるのかしら」
 未玲もメニューを見ながら言った。
 というわけで、悠太は比較的大きめの、約五百グラムのアルバータ牛ステーキを頼んだ。女性二人はサーモンのソテーを頼んだ。こんな内陸部で魚料理なんてとは思うが、ヘルシーなものが好きなのだろう。 
「すごい。それ全部食べられるの?」
 百合香と未玲がそろって驚いた表情を見せた。
「うん。軽井沢で昔食べたのはもっと大きかったよ」
 悠太はこともなげに答えた。ただし、今回のステーキは、肉の大きさもさることながら、付け合わせのフレンチフライやオニオンリング、温野菜などの分量も相当なものだった。
「おいしいですよ。赤身だけど柔らかいし、肉の味も濃いし」
「よかったわ。気に入ってもらえて」
「このサーモンもおいしいわよ」
 未玲の言葉に百合香がうなづいた。
「お魚のお料理は日本が一番みたいに思いがちですけど、こちらで食べるお魚料理で感心するのは、生臭みがほとんどないことですね。お魚の臭いが嫌いなこちらの人でも食べられるように、下ごしらえが徹底しているのかしら」
「確かにそうね」
 食後のデザートはアイスクリーム。ここで、百合香が、せっかくだからカナダのワインを頼もうと提案した。
「食後に少しだけ飲む甘いワインがあるのよ。わたしもアルコール苦手だけど、一度だけ飲んだことがあって、ひと口だけならおいしいと思った。悠太さんもぜひ」
 小さなグラスに半分だけ注がれたワインを一口飲んだ。
 口に含んだ瞬間、果物のような、花のような、何とも甘い香りが鼻を抜ける。
「わあ、何だかワインじゃないみたい」
「ほんとう。とてもいい香り」
「アイスワインといって、ぶどうを冬まで放置して、凍らせてから収穫するの。凍らせることで水分が抜けて、甘くて濃厚な味と独特な香りになるんですって。わたしもホームステイ先で初めて飲んだとき、感動したの。これは特にいい香りだわ」
「昔、貴腐ワインというのをいただいたけど、ちょっとそれに近いかしら」
「そうですね。貴腐ワインよりはさっぱりとした感じかな」
 もう一杯、と悠太は思ったが、あまり大量に飲むものでもないらしいので、遠慮した。それに値段も相当のようだった。
「アルコールが入ってなければもっとよかったのにな」
「そうね。でも、アルコールが入っているから、こんなに香りがふわっと広がるんだと思うわ。香水と同じで」

 ホテルに帰り、悠太の部屋に飲み物とお菓子を少々持ち込んで雑談をした。
「運転どうもありがとう。疲れたでしょ」
 百合香がねぎらいの言葉を悠太にかけた。未玲も同調して、
「ほんとう。こんなきれいな場所に来れてよかった。やっぱり車の運転ができるっていいわ。秋野さんて運転お上手なんですね。全然酔わなかったし。ありがとうございます」
「いえ、どういたしまして。運転するの好きだから」
 女性からおだてられると、うれしくなってしまうのは男の性で、悠太は疲れも忘れて答えた。
「明日も少し周辺をドライブするし、そのあとはいよいよジャスパーまで行きますから」
「お願いします。楽しみだわ」
 そう言って未玲は今度は百合香に
「百合香さんも英語がますます上手になったのね。元々英語は得意だったけど、さらに磨きがかかった感じ。おかげで助かるわ」
「ありがとうございます。かなり英語を事前に勉強したつもりだったけど、最初のうちは授業についていくのが大変でしたよ。だいたい理解できて自分の言いたいことを話せるようになるのに二か月くらいかかったかしら。……ミレ先生はカナダは初めてなんですか」
「海外は子供の頃ハワイに行ったことしかないの。最近は旅行自体、年に一度しかしないから。今回みたいに九月の夏休みに」
「そうでしたよね。じゃあ、ここまで一人で大変だったでしょう」
「まあね」
 未玲は微笑んだが、表情に少し翳がさしたように悠太には感じられた。
「でも、涼子先生から聞いたけれど、百合香さん、ローゼンシュタットのレッスンを受けたんですって?どうだった?」
 悠太が言わなくてもすでに知っていたらしい。
「はい、とても勉強になりました」
「でしょうね」
 音楽の話になると、二人とも表情に真剣味が増してくる。
 話題は百合香のヴァイオリンの話になり、悠太はやりとりを黙って聞いていた。
 百合香が悠太の様子をちらっと見て、未玲に問いかけた。
「ところで、瑞希ちゃんは、霞ヶ丘に決めたんですね。試験対策はもうバッチリなんでしょうか」
「ええ。彼女なら国内の音大はどこでも入れると思うけど、私や山本先生と引き続き一緒にやれたらいいなって、勧めたの。演奏や聴音、楽典などの音楽系の試験はもう心配いらないので、受験対策は国語と英語の勉強がメインかしらね」
 当然のことながら音大の国語と英語の試験は、ごく基本的な問題しか出ない。霞ヶ丘の場合は、二教科一緒に出されて一時間ちょっとの試験時間だった。
 それでも瑞希にはプレッシャーらしく、珍しく悠太に英語の文法について訊きに来たこともあった。学校の勉強をする時間はほどんとないにしても、成績はそんなに悪くないのだから、心配ないよ、と言っているのだが。
「それより、大学にいる間にどうするかが問題よね。とりあえずは在学中に全日コンは受けて、あと国外のコンクールの一つや二つは狙っていくのかな。あとは友達づくりよね。これがやっぱり大事だわ。自分の腕を磨くだけじゃなくて、人脈っていうのかしら、私もそうだけど、仲間や知り合いをつくることがこの仕事の場合大事になることが多いから」
 未玲の言葉に、悠太が口を挟んだ。
「瑞希はあんまり人付き合いが得意でないから、そこが心配ですね」
 未玲は兄の言葉に微笑んだ。
「大丈夫ですよ。瑞希ちゃんは素直で人柄はとてもいいから。それに音大なら音楽に関して同じ価値観を持った子がたくさんいると思うので、友だちもできやすいと思いますよ。去年の学生コンクールで、彼女の存在は知れわたってるから、たぶん周りが放っておかないです」
「そうだといいんですけどね。……でもやっぱり今でも、自分が優勝したことを素直に喜べないようで」
 未玲の顔が曇った。悠太は余計なことを言ってしまったと後悔した。
「もう、いまさら考えても仕方がないのに……」
 未玲は呟いた。それは自分自身に対しての言葉のようにも感じられた。
「瑞希ちゃんにはショックだったんでしょうね。彼女は彼女の道を進むしかないんだけど。気持ちの整理が完全にはつかないんでしょう。何となくわかる」
 百合香が続けた。
「北山さんだっけ。あの子の演奏は確かにすばらしかったけど、でも瑞希ちゃんには瑞希ちゃんだけの表現があるんだもの。どっちが良くてどっちがダメっていうことじゃないと思うわ」
「そうよ。瑞希ちゃんもただ繊細だけじゃなくて、最近は表現の幅が出て来たから。どんどん変わっていくものよ」
 コンクールに優勝してから、彼女の練習量はさらに増えた。百合香がヴァイオリンでさらに一皮むけたように、瑞希もいつかあの少年の呪縛を克服することができる日がやって来るに違いない。
 悠太はそういえば、と北山翔太の楽譜のことを思い出した。
 未玲にも見せてみようかと思った。彼女は大学では演奏のレッスンのほかに、楽曲分析の講義も受け持っている。音楽の知識については百合香以上に豊富のはずだった。専門家の意見も聴いてみたいと考えたのだった。
 だがまてよ、と悠太は思い直した。
 見せない方がいいのではないか。
 未玲もまた、翔太の死ではショックを受けた。それは瑞希以上かもしれない。今も、彼にまつわる話題が出たとたんに、表情が変化した。瑞希も、百合香に訊くより、いつも会っている未玲に訊く方が手っ取り早いし、確実と思うのにそうしていない。
 ただ、今回こうして未玲は翔太の父親を探す役目を負って来ている。彼女に翔太の話題を出すことはタブーではなくなっているのではないか。
 悠太があれこれ逡巡していると、百合香がそれを断ち切るように、
「ミレ先生、実は見てほしいものがあるんですけど」
 彼女も同じことを考えたらしい。悠太は百合香に促されて、例の楽譜の画像を見せた。
「どう思いますか。この楽譜。瑞希ちゃんが去年の夏に北山さんからもらったらしいんです。瑞希ちゃんは何かのメッセージじゃないかって言うんです」
 怪訝そうな表情で未玲は覗き込んで言った。
「うーん、何だか濁った響きね。このHとAが逆ならいいのに。しかも全音符と二分音符、四分音符で繰り返してる。これでもかって言う感じ」
「ええ。それと上段のところの記譜もちょっと乱れてますよね。最初は八分音符だけだったところに、後から二分音符と四分音符を付け加えたのかしら」
「うん、そうみたい」
 百合香も未玲も、楽譜を見ただけで和音の響きも正確にイメージできるらしい。
「曲じゃないわよね……メッセージなのか。何だろう。これしか音がないと、コードとは関係なさそうだし。ごめん、すぐにはわからないわ。百合香さんはわかったの?」
「いいえ。音楽に詳しいひとはかえってわからないかもって瑞希ちゃんは北山さんに言われたらしいですけど」
「え、そうなんだ。……なんだろう。やっぱりこのHとAがわからないなあ」
 未玲は画面をなおも見ていたが、急に表情が変わった。
 何かに気付いたらしい。
「ミレ先生、わかりました?」
 百合香が声をかけてもこたえず、じっと硬い表情で画面を凝視している。
 だが、それは一瞬のことで、はっと、我に返ったように百合香を振り返った。
「え、なに」
「意味がわかりましたか」
 未玲は首をぎこちなく振った。
「いいえ。一瞬、ひらめいたような気がしたけど、勘違いだったみたい。わからないわ。ごめんなさい」
 そう言って未玲はスマホを悠太に戻した。
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