第16話

文字数 1,189文字

眠るラサファーンを、アルスはじっと心配そうに見つめていた。突然意識を失ってから、もう七日間も彼は眠り続けている。
アルスはそっとラサファーンの毛布の裾を直すと、音をたてぬように気遣いながら、テントの、幕で仕切られた一室を出た。
「じっちゃん、お早う。」
「お早う、アルス。どうじゃな、彼は?」
「うん…、変わりないよ。」
アルスは育ての親であるファバに答えて、朝食の準備を手伝った。小さな木のテーブルの上に、パンとスープだけの質素な食事の支度ができると、腰を降ろして、頬杖をつく。
「どうした、アルス。」
「ラサファーン、いつまで眠ってるのかな。」
アルスはラサファーンのことが心配でたまらない。朝から晩までつきっきりで様子を見ているが、ラサファーンは少しも目を覚す気配がないのだ。
「ずっと眠ってて、お腹空かないのかな。」
アルスは碗のスープをぼんやりと眺めた。
「アルス、お前はいい子じゃな。でも、彼のことは、このまま黙って見守っててやろう。そのうち、きっと目を覚すだろうから。いいな?…さあ、そんな顔をしないで、きちんと食べなさい。お前が体を壊したら、彼も心配するじゃろうて。」
「…そうだね。きっともうじき、目を覚すよね。ラサファーンが起きたら、おいら、歌を教えてもらうんだ。」
そう言うと、アルスは微笑んだ。
「いただきます。おいら、腹ぺこだよ。」
アルスが食事をする姿を、ファバは温かな眼差しで見つめた。その瞳が、ふと物を思い煩うかのように、伏せられる。
ファバはラサファーンが意識を失った日の朝に見た、不思議な夢のことを思い出していた。もう六十年も昔のこと、ツェトラの学問所で勉学に勤しんでいた頃のことを、夢に見たのだ。夢の中で、あの頃のように若返ったファバに、同じように若返った学友がおかしなことを言った。
(ファバ、君はこの世界の成り立ちを知っているかい?)
(…そうだな。君はどう考えているんだ?)
(この世界は大いなる幻影で出来ている。)
(幻影?マーラ、それはどういう意味だ?)
そう訊ねた途端、突然、友人の瞳が大きく、ファバを呑み込んでしまうかと思われるほど大きく、目の前に広がった。
(…いずれ、彼の目覚める時が来る。それまで、彼の眠りを妨げてはならない。)
(彼?それは一体、誰のことだ…?)
(ファバ、彼を頼む。彼を見守り、決して、その眠りの邪魔をしないように。)
友人の声が雷のように響き渡り、そこで、ファバは目が覚めたのだ。
「…彼の眠りを妨げてはならない。」
低く、ファバは眩いた。
「じっちゃん…?」
アルスの黒い瞳が、じっと自分を不思議そうに見つめているのに気付き、ファバは微笑んだ。
「どうかしたのかい、じっちゃん。」
「いいや、なんでもないよ、アルス。さっ、たんと、おあがり。…スープをもう一杯、どうじゃね。」
「うん。」
ファバはアルスの碗にスープを注ぎ分けながら、眠り続ける青年のことを思った。


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