第1話

文字数 1,755文字

     その者は三度虹色に
     輝くであろう。
     選ばれし時、
     受け継ぎし時、
     そして、
     大いなる眠りにつきし時に――。
              (ハーティスの書)





 しゃらん…、しゃらん…、
 涼やかな鈴の音が、幽かに響いていた。
(ああ、またいつもの夢だ…、)
 彼は思った。幼い頃から何度も彼を訪れている、既に彼にとっては懐かしい郷愁をさえ抱かせる夢――。
 それは、いつも同じ光景だった。黒髪を頭の高い位置で結い上げ、薄衣を幾重にも重ねた丈の長い昔風の衣装を纏った少女が、たった一人、広い草原で踊っているのだ。少女の手首と足首につけられた鈴が、彼女の動きに合わせて複雑なリズムを刻み、不思議な音楽を生み出している。
 それは何度見ても、美しい、そして何故か哀しい光景だった。
 彼が初めてこの夢を見たのは、五つになるかならないか、ほんの子供の時分だった。以来、何度となくこの夢を見続け、彼は夢の少女と親しく、まるで現実の世界の人間と同じように付き合ってきた。年を追うごとに彼が成長して大きくなっていくのに、彼女の方は昔のまま少しも変わらない。彼女だけが時間に取り残されてしまったかのように、少女のままの姿で、いつもたった一人、踊っているのだ。
(やあ、ダナ。また来たよ。)
 彼の言葉に、少女の黒いアーモンド型の瞳が微笑む。少女は踊り続けた。彼女の褐色に輝く肢体は、疲れるということを知らないかのようだ。異国情緒に満ちた舞いを、彼女はしなやかな動きで踊り続ける。
 彼はその踊りに、興味深い視線を注いだ。彼女の踊りのひとつひとつのポーズは、何か深い意味のあるもののように彼の眼には映った。
(今の踊りは?いつもと違っていたね。)
 やがて踊り終えた少女に、彼は言葉をかけた。
(ええ。これは特別な踊りなの。神に出会う儀式のための…、)
 彼女は彼の傍らに腰を下ろしながら、そう言った。
(パサナ村で、年に一度行われる祭の前夜に、神の丘の祭壇で踊られるの。)
(パサナ村?)
(そう、パサナ村。私の故郷よ。)
 彼は驚いて辺りを見回した。今まで気付かなかったのが不思議なことだが、確かに遠くに集落が見て取れた。
(私は一番の踊り手だって言われたわ。私の踊りは、神にも出会える踊りだって。)
(神に出会える踊り…、)
(そう、私は本当に神に出会えたの。…だから今、此処にこうしているのよ。)
 不意に少女はすっくと立ち上がった。両手で空を抱き締めるような仕草をする。
(私は此処を忘れない。私の愛する故郷、大切な人たちの眠る場所、そして、私の魂の帰ってくる場所――。何があっても、私は此処を忘れない、忘れないの。)
 少女の黒曜石の瞳が、不思議な光を帯びて、彼を見た。
(いつか、私の故郷に来てね。本当に美しい処なのよ。)
 少女はほんの少し哀しい顔で微笑んだ。
(ダナ…?どうしたの…?)
 そこで、彼は目が覚めた。
 彼は起き上がると、窓を開け、爽やかな朝の空気を部屋に入れた。小鳥の明るい囀りが聞こえる、平和な朝――。
 彼は枕もとの皮袋から、地図を取り出し広げてみた。彼の青い瞳は、目的の場所を難なく見つけ出す。
「ラサファーン様、お目覚めですか?」
 ノックの音に続いて、この数日ですっかり慣れ親しんだ声がした。
「起きているよ。入って、ナシャル。」
 身支度を整え、再び地図に目をやっていた彼は、友人を部屋に招き入れた。
「おはようございます。ご機嫌は如何でございますか?」
「おはよう、ナシャル。今日も気持ちのいい朝だね。」
 彼は、茶色い癖毛の友人に微笑みかけ、側の椅子に腰掛けるよう促した。
「ねえ、ナシャル。パサナ村に寄ることはできないだろうか。」
「パサナ村…?」
 友人は首を傾げた。
「ここからだと、馬で半日ほどの距離なんだ。」
「聞いたことがございませんが、そこに何があるのですか?」
「僕の知っている人が、そこに住んでいるんだ。」
「はぁ…。急ぐ旅でもないですから、私は構いませんが…。」
「じゃあ、決まりだね。ダーナに発つ前に、パサナ村に寄ろう。」
「はい、分かりました、ラサファーン様。…でも、その前に朝食にしましょう。ここの魚貝のパイ包み焼きは評判らしいですよ。」
 いそいそと立ちあがった友人の後を、彼は微笑みながら続いた。
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