第6話

文字数 1,969文字

 がやがやと大勢の人間で賑わう店の隅で、その黒髪の男は、一人、酒を飲んでいた。自分だけの思いに沈み込んで、考え事をしているかに見えるが、先程から彼は、後ろのテーブルに陣取った漁師たちの話に全神経を集中させ、耳を欹てている。
 此処は、クリシュナ国の首都ツェトラの東南にある港町、サライの居酒屋だ。
「漁を止めるって?本気か、キムの親父。」
「ああ、もう海は真平だ。…あんな恐ろしい思いをしたのは、五十七年間生きてきて、初めてのこった。」
 男が自分たちの話に聞き耳を立てているとは知らず、漁師たちは声高に話している。
「思い出しただけで、ふるふる、身が疎む。お前らも、気をつけたがいい。」
「そんな話は到底信じられねえな。あんた、また酔っ払ってたんじゃねえのか。」
 若い漁師の一人が、からかうように言う。
「そりゃ、ちょっとばかし飲んじゃいたが、本当のことなんだ。俺の目の前で海が…、海が消えちまったんだ。」
 先程から話題の中心になっている小肥りの漁師は汗を拭き、ジョッキのビールを一気に呷った。
「恐ろしいこった。何かの崇りだ。いや、世界の終わりだ。…俺はもう金輪際、漁には出ねえよ、恐ろしいこった…、」
 キムの親父はぷるぷるっと首を振り、勘定を置くと、立ち上がった。
「…気の毒に。あの年で耄碌するとはな。」
「酒のやり過ぎだ。若い時分から、無茶な飲み方してたからな。」
 仲間たちの囁きも聞こえない様子で、キムはふらふらと店を出ていく。
「…恐ろしい、世界の終わりだ。終末だ。」
「おい、キムの親父。」
 ぷつぷつ眩いていたキムは、突然呼び留められて飛び上がった。振り向くと、漆黒の髪をした若い、二十五歳前後の旅人が立っていた。先程酒場で、キムたちの話に聞き入っていた男だ。
「さっき、あの酒場でしていた話を、もっと詳しく聞かせてもらえねえか。」
「あ、あんたは…?」
「俺はザオウだ、ハイファのザオウ。」
 男は浅黒い顔の口元を歪めた。
「…実を言うと、俺も似たような経験をしたんだ。俺の場合は、砂漠でだったがな。」
「えっ、そりゃあ、本当かね?」
「ああ。一杯奢るから、そこの店で話を聞かせてくれ。」
 ザオウはキムの背中を押し、傍らの酒場へと入っていった。
 そして、一時間後――。宿に戻ったザオウは寝台に腰をおろし、拡げた地図に鉛筆で印をつけていた。
(これで、俺の知っている限りで三箇所。一体、何が起こっているんだ。)
 ザオウの黒い、いつの時にも鋭い光を湛えた切れ長の眼には苛立ちの色が濃く見える。ザオウはしばらく地図を睨むように見つめていたが、やがて荷物の中から、布に包まれた一冊の書物を取り出した。赤褐色の革の装丁の、時代を感じさせる古いものだ。表紙と背には、生命の水を溢れさす聖杯と、それを取り囲むオリーブの枝を象った紋が型押しされている。
 ザオウはぺージを捲り、旧地球語で書かれたその最初の一行を、声に出して読んだ。
「人類を滅亡から救ったマギ様とその御弟妹様の行われた奇蹟を、この惑星の創造の過程を、神官ハーティスが記す。」
 ザオウに読めるのはその箇所だけだった。旧地球語は死語となって久しく、今やその読み書きの出来る者はいないに等しい。ある限られた人間はその教育を受けているのだろうが、それは、家具職人の倅のザオウには全く関係のない世界のことだった。
(…ザオウ、よくお聞き。この書物は我が家の家宝なんだ。大切にして、決して他人の目に触れさせちゃあならないよ。いいかい、何があっても、これは人様に見せちゃあいけない。例えお前の嫁になる人間にも、これは見せては駄目だ。分かったね。)
(…ザオウ、お前に頼みたいことが…。あの書物を、ツェトラの神殿に…、)
 ザオウの脳裏に、幼い頃に聞いた祖母の言葉と、一ケ月前に亡くなった彼女の今際の際の言葉とが蘇った。
(この書物に書かれていることと、今回の異変とは、何か関わりがある気がする。俺の勘に間違いはない。)
 ザオウは、祖母パーラの不思議な能力のことを考えた、彼女には普通の人間には見えないものが見え、その予知した事柄はいつも、必ず現実のものとなった。たまに正夢を見たりするザオウにも、幾分その血は受け継がれているらしい。その彼は、ここのところ、不思議な夢に付き纏われていた。
(俺は見た。世界が消え失せてしまう夢、地球が荒れ果てた荒野になってしまう夢を。)
 その夢は、あの砂漠での異変を経験して以来、毎夜ザオウを訪れていた。眠りにつくと必ずその夢を見、ザオウは激しい危機感と焦躁感に駆られて眼を覚すのだ。
(マギ神殿…。あそこに行けば、何か手懸りが掴めるだろうか?…返してきてほしい。確かに、ばっちゃんはそう言った、この書物をツェトラの神殿に返してきてほしいと…。)
 ザオウは心を決めかねるように、手にした書物を見つめ続けた。
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