第11話

文字数 2,014文字

 セイリーンは思案顔で、机の上に拡げた地図を眺めていた。ペン先で、何度も地図の上を辿っては、
(一番早いルートは、真っ直ぐ海をいくことだけど、このあたりの海域は潮の流れが急で危険だわ。陸路だと、その点安全だけど、ロンシャン山脈を越えるのに、日数がかかり過ぎる…、)
 陸路、海路ともに、一長一短があり、なかなかルートを決められない。セイリーンは息をつき、カップの茶を一口飲んだ。
(出来るだけ早く、カバナに着きたいわ。ラサファーンの居所は、近くまで行けばきっと分かる。それは、確信が持てるわ。手遅れになってしまう前に、ラサファーンを見つけなければ…。)
 セイリーンは不意に心に浮かんだ『手遅れになる』という言葉に、ぎょっとした。
(…一体何が手遅れになるというの?)
「大丈夫よ、ラサファーンなら。何があっても、大丈夫。」
 声に出して言ってみたが、セイリーンの不安は消えなかった。
(いやだわ。どうして、こんなに胸騒ぎがするんだろう?)
 彼女は目を閉じ、心を落ち着かせる為に、瞑想した。どのくらいの間、そうしていただろうか。
「セイリーン様。」
 ノックの音に、セイリーンは我に帰った。
「入って、ティナ。…どうしたの?」
「セイリーン様、お客様でございますが。」
「ルース卿ね?居間にお通しして。」
「いえ、それが…。」
 侍女のティナは口籠った。
「誰?ルース卿の他に、午後の約束はなかったはずよ。」
「それが、お見えになられていらっしゃるのは、パテキオ王子なのです。」
「王子が…?」
 一瞬セイリーンは訝しむような目をした。パテキオが、わざわざ屋敷まで彼女を訪ねてくることなど、今までなかったことだ。
「分かったわ、ティナ。王子を居間にご案内して、お飲物をお出ししておいてちょうだい。私もすぐに行くから。」
「かしこまりました。」
 セイリーンは地図を片付けると、部屋着を脱ぎ、少し考えて、明るいピンク色のドレスに着替えた。
(一体、どうした風の吹き回しかしら?)
「お待たせ致しました、王子…、」
 居間に入ったセイリーンは、ハッとして足を止めた。パテキオは座りもせず、腕組みをしたまま、壁に掛けられた風景画を睨むように見つめているところだった、その厳しく引き締められた横顔が、セイリーンの眼には、何処か、痛みを堪えている人のように映ったのだ。
「…王子、お待たせいたしました。」
 緑色の、きつい光を宿した眼が、セイリーンを見た。
「ご機嫌うるわしそうで、なによりですわ。…どうぞ、お掛けになって。」
 セイリーンは優雅な身のこなしで、お辞儀をし、王子に椅子を勧めた。どさりと腰を下ろしたパテキオは、しばらく何も言わず、花瓶や調度晶に視線をやっている。セイリーンは王子が口を開くのを、静かに待った。
「…久しぷりだな。」
「ええ、先月の夜会以来ですわね。」
 セイリーンは相槌を打ち、
「わざわざのお運び、今日は一体、どういうご用件でしょうか?」
「ああ。」
 パテキオは、じろじろと無遠慮にセイリーンのことを眺めた。
「ふん、随分元気そうじゃないか。兄上が行方不明だと聞いて、どんなにしょげかえっていることだろうと、来てみたんだが…。」
「お心遣い感謝いたしますわ、王子。」
 パテキオの皮肉めいた物言いも、セイリーンは気にしなかった。微かに微笑み、
「でも、ご心配には及びませんわ、王子。ラサファーンは、無事ですから。」
 セイリーンの言葉に、パテキオの眉が微かに上がった。
「兄から、何か連絡でもあったのか?」
「いいえ。でも、私には分かるんです。」
「そうだったな。子供の頃から、お前にとって兄上は特別な存在だったな。」
 パテキオはそう言うと、口元を歪めるように微笑った。そのきつい緑色の眼に、一瞬表れ、すぐに消えたやるせない光に、セイリーンは気付かなかった。
「…今日はいい天気だな。」
 不意にパテキオは立ち上がると、窓辺に寄り、外を眺めた。
「…プロポーズは…、」
「えっ…?」
 パテキオの呟きが聞き取れず、セイリーンは首を傾げた。
「何?」
「…いや。なんでもない、邪魔をしたな。兄上が早く見つかるよう、せいぜい願掛けをすることだ。」
「…ええ、ありがとう。」
 部屋を出て行こうとしたパテキオは、不意に振り向いた。
「ダーナの下町辺りじゃ、物騒な事件が多いらしい。物盗りに命を取られることも、日常茶飯事だそうだ。…兄上は虫も殺せぬほどお優しい方だから、物盗りに狙われなければいいがな。」
「パテキオ…?」
 セイリーンは、パテキオの意味有り気な物言いに、ふと不安を感じた。
「パテキオ、あなた、何を考えているの?」
「…名前を呼んでくれたのは、何年ぶりかな。五年、いや、もっと前か。」
「はぐらかさないで、ちゃんと答えて。」
「…心配しなくても、兄上をどうこうしようなんて、考えてないさ。巫女姫様の大切な想い人、我が国の希望の星を。」
「…、」
 セイリーンは去っていくパテキオの後ろ姿を、複雑な面持ちで見送った。


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