第7話

文字数 1,830文字

 耳慣れない音楽が、何処からともなく流れていた。
(此処は一体何処だろう…?)
 その音色に揺り動かされたように、彼は目を覚した。暖かな陽光がテントの隙間から射し込んできて、彼の毛布を被った足元を温めている。遠く、テントの外から聞こえてくる賑やかなざわめきは、時にワァッという大歓声になったり、笑い声になったり、大勢で歌う恋歌になったりして、彼のことを誘うようだった。
 ぼんやりとそれらを聞いていた彼は、陽気な曲が終わり、物悲しい旋律が流れてきた途端、ハッと体を起こした。額に載せられていた手拭が落ちるのも構わず、テントの外へ飛び出していく。
 その音楽は河のほとりの広場から聞こえていた。彼は急ぎ足で、そこに出来た人だかりに近づいていった。人だかりの中央でギターを弾きながら歌っていたのは、褐色の肌と黒い髪をした一人の青年だった。その歌は聴く者の心を揺さぷり、その声は一度聴いたら生涯忘れることの出来ないほどの素晴らしいものだった。すっかり圧倒され、彼はその歌声に聴き惚れた。
 やがて歌が終わり、聴衆の歓声と拍手と飛び交うコインの中、青年は彼の姿を認めると、その精悼な顔に微笑みを浮かべて、近寄って来て言った。
「よお、具合はもういいのかい?」
「凄い…、黄金の声だ…。」
 感嘆した彼の眩きに、青年は薄く、口元を歪めて、笑う。
「…止してくれ。それは、いつもあんたが言われていることだ。いくら俺でも、あんたの歌には敵わない。」
「私の歌…?」
「あんたは、その名に恥じない歌い手だ、オルフェウス。黄金の喉を持った大天使。」
「オルフェウス…?私の名前…?」
 彼――オルフェウス――は訝しげに首を傾げた。その名は、彼の記憶の中で特別な響きを持っていた。しかし…。
「違う、私の名はラサ…、」
「どうしたんだ、オルフェ。何だか様子が変だぜ?」
 不意に、青年の黒い、鋭い光を湛えた両の眼が曇った。
「オルフェ…?何だか、夢の中に居るような眼をしてるぜ…?」
(夢…?)
「熱のせいで、どうかしちまったんじゃねえだろうな?おい、しっかりしろ。」
 青年に肩を揺すられ、ふっとオルフェウスは夢から覚めたようになった。すぐ目の前に、自分を心配して覗き込んでいる、友人の切れ長の美しい瞳がある。
「おい、オルフェ?」
「大丈夫だ、何でもない、スラロ。…夢を見ていたんだ。」
 そう言ったオルフェウスは、ふと、夢の内容を思い出そうとするかに見えたが、やがてその見事な金髪の頭を振り、
「変だな。どんな夢だったか、忘れてしまった。とても…、そう、とても大事な夢だった気がするのに…、」
「夢の話なんかどうでもいいじゃねえか。それより、オルフェ。景気づけに何か一曲歌ってくれよ。」
「駄目よ、駄目っ!オルフェは病気なんだから、まだ寝てなきゃあ…、」
 スラロの言葉に、走り寄って来た少女が抗議した。大きな黒い、きらきらと輝く瞳がオルフェウスを見つめる。
「オルフェったら、あたいが水を汲みに行ってる問にいなくなっちゃうんだから…。心配するじゃないの。」
「ああ、ごめん、ツィルカ。でも、もう大丈夫だから…。」
「すごい熱だったんだから、まだ寝てたほうがいいよ。ねっ、あたいが側についててあげるからさ。」
「そんなピーチク言わなくっても、自分の具合くらい、オルフェにはちゃーんと分かってるさ。」
「なんでスラロはそんな意地悪言うの。」
 スラロの皮肉めいた口調に、ツィルカは顔を上げ、五つ年上の従兄弟をキッと睨んだ。スラロが肩を疎め、ふいと向こうに行ってしまうのを見送り、
「前はあんなじゃなかったのに。この頃のスラロってば、意地悪なんだから。」
 来月十二歳になるとはいえ、まだまだ幼いツィルカには、子供の頃から兄のように優しく頼りになる存在だったスラロの、最近の態度の変化が腑に落ちない。それが、金色の髪と青い瞳の吟遊詩人へ自分が向ける眼差しの為だとは、彼女は気付いていなかった。
「オルフェ、本当に大丈夫?」
「ああ、アリナの薬が効いたようだ。ありがとう、ツィルカ。お礼に何か歌おう。何か、ツィルカの好きな曲を。」
「じゃあ、ほら、あの歌。オルフェの作ったアポロン神に恋した乙女っていう…、」
「分かった。」
オルフェウスは微笑むと、楽器もなしにいきなり歌いだした。その唇から流れだす黄金の声に、彼の周りには、忽ちのうちに人垣が出来る。
 魂の力と深い愛情に満ち溢れた生命の歌。彼の歌声は十七世紀初頭の欧州の村々を流れ、そして、包みこんでいった。

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