第3話

文字数 1,989文字

 夜半過ぎ、嵐はその勢いを増して、猛り狂うように大海を揺さぶっていた。巨大な塊と化した波が容赦なく打ちつけてきて、抗うことも出来ず、船は大きく上下左右に揺れ動いている。
 船室の簡易寝台の上で毛布に包まったナシャルは、青ざめた顔で襲ってくる吐き気と必死に戦っていた。今まで船酔いなどしたことのない彼は、この喜ばしくない初体験に、今回の船旅を少なからず恨みたい心境だった。
(だから陸路に変更しようと、私は言ったんだ。)
 気休めにナシャルはハッカ水を口に含んだが、気分は少しも良くならない。
(とてもじゃないが、眠れやしない。何か薬でも貰ってこよう…。)
 ナシャルは擁護室に行こうと、部屋を出た。船の揺れは益々ひどくなり、真っ直ぐ歩くことも出来ない状態だ。どうやらこのシルヴィー号は、五年ぶりに発生した大規模な嵐に、殊の外、愛されているらしい。
(この調子じゃあ、明日のダーナ入港は無理だな。)
 不安気に窓の外を眺めたナシャルの茶色い瞳が、次の瞬間、大きく見開かれた。甲板の上に、銀の光の束が舞うのが見えたのだ。
「ラサファーン様!」
「やあ、ナシャル。」
 船酔いも忘れて慌てて走り寄ったナシャルに、クリシュナ国の御子は微笑んだ。
「凄い嵐だね。」
 三日後に十八歳の誕生日を迎える、青く澄んだ海を映したような不思議な瞳と、銀色に輝く髪を持った美しい御子は、そう言いながらも、激しく身体を打つ雨風を、少しも気に留めない様子だった。
「ラサファーン様、何をなさっているのですか?このような所にいては危険です。お部屋にお戻り下さい。」
「海豚が…、怪我をした海豚の仔があそこにいるんだ。」
「えっ?」
 ナシャルは主人の指が指し示した、暗く荒れ狂う海面を見つめた。しかし、海豚の姿などどこにも見えない。白い牙が逆巻き、恐ろしい勢いで砕け散るばかりだ。
「私には何も見えませんが…、」
 茶色の癖毛の頭を掻きながら、ナシャルは済まなそうに言った。五つ年若の彼の主人は、何処か常人と違った不思議なところがあり、今回この旅に初めて同行したナシャルには、頭を悩まされることが度々あったのだ。
(これもアムルタート家の、聖なる血筋の為せる業か…、)
 瞳を暗く翳らせ、じっと海面を眺める御子を見ながら、ナシャルは思った。
 二千五百年前に終止符を打った旧地球暦の時代から続いている、クリシュナ国は古い古い王国で、国が興って以来神事を司ってきたアムルタート家は、数多くの預言者や能力者の輩出から、アストラシア王家と共に、その聖なる血筋を讃えられ畏れられてきた。その両家の交わりから誕生したラサファーンが、常人と違うというのは寧ろ当然のことかもしれないが、ナシャルにはそういう超自然的なことは、理解の範囲外だった。
(…あの廃村で、ラサファーン様は一体何を見ていたんだろう?)
 三日前に知り合いがいると言って訪れたパサナ村で、――そこは何年か前に、水源が枯れ、見捨てられた村だった、――ラサファーンはしかし誰をも探そうとはせず、村外れの丘に廃墟となって忘れられた祭壇跡で一日を過ごしていた。すぐ傍らにいて、ナシャルは主人の眼が、自分に見えない何かを見つめているのを、空恐ろしい気持ちで感じとっていた。
(特別な力を持った人間は善いものも悪いものも招き寄せる――。)
 子供の頃に聞いたそんな言葉が不意に頭に上る。身震いをし、ナシャルは相変わらず甲板から動こうとしない御子に、もう一度声をかけた。
「ラサファーン様、お風邪を召します。どうかお戻り下さい。」
 戸惑いを隠せない表情で言うのに、ラサファーンはおやと言う顔をした。
「気分がすぐれないようだね、ナシャル。」
「え、ええ。ただの船酔いです。」
「それはいけないね。じっとして、すぐ楽にするから。」
 ラサファーンはそう言うと、驚くナシャルの額に手をやり、何事かを口の中で唱えた。額の、指の触れられている辺りが、じんわりと温かい。その不思議な温かさに満たされたと思った途端、すうっと気持ちの好い風が身体の隅々を吹き抜けていき、次の瞬間、ナシャルの具合は嘘のように良くなった。
「あ、あの、これは一体…?ど、どうもありがとうございます。」
 ナシャルが信じられないといった面持ちで礼を言うのに、ラサファーンは微笑みながら軽く頷いた。
「ナシャル、ダーナで会おう。」
「えっ…?」
 ナシャルがその意味を把握する間もなく、ラサファーンの身体は宙に舞った。
「ラサファーン様っ!」
「すまない、ナシャル。放っておけないんだ。」
「ラサファーン様っっ!!」
 悲鳴のような声で叫ぶナシャルに手を振って、ラサファーンは荒れ狂う波間へ姿を消した。
「大変だっ!船を停めてくれ!人が落ちた、船を停めてくれっ!」
 ナシャルの叫びをかき消すように、風雨はその激しさを増し、彼の視界から銀の髪をした御子の姿を完全に覆い隠してしまった。


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