第9話

文字数 2,556文字

 ウダガットはじっと少女の白い面を見つめていた。彼女は目を閉じ、先程から同じ姿勢のまま瞑想している。
 マギ神殿のすぐ横手に広がるアムルタート家の屋敷内の、瀟洒な造りの客間のひとつ。サンダルウッドの香の焚かれる中、白い敷物の上に結跡朕坐で座った少女を、もう三十分ほどもウダガットは見守り続け、行方不明になった御子ラサファーンの安否が彼女の口から告げられるのを待っているのだ。
「ウダガット様。」
 不意に少女が目を開いた。その美しい黒い瞳が、にっこりと微笑む。
「どうか、ご安心を。彼は無事です。」
「まことですか、セイリーン様。」
「ええ。」
 ウダガットの言葉に、ラサファーンの従姉妹の巫女姫は大きく頷いた。
「彼の、…魂の力を感じますわ。」
「おお。ありがとうございます、セイリーン様。それを伺って、安堵致しました。」
 ウダガットの面を、言葉通り安堵の色が広がっていく。
「ただ…、」
「ただ?」
 セイリーンはふわりと立ち上がると、丸められた一枚の西洋紙を持って来た。ウダガットの前に世界地図をひろげて見せ、
「…ただ、彼がいるのはダーナではありません。もっと南です。…ダーナより南にある港町を探して見てください。」
 白い指先が、ダーナより南のカバナやヴユィスを指し示した。
「わかりました、ダーナより南ですな。誠にありがとうございました、セイリーン様、感謝致します。」
 ウダガットは深く頭を垂れ、この不思議な能力を持つ少女に礼を述べた。
「これくらいのこと、何でもありませんわ、ウダガット様。彼は私の大切な従兄弟ですもの。いつでも力になります。」
 大人びた口調で言い、セイリーンは微笑んだ。それへ、ウダガットはもう一度、頭を下げる。
「セイリーン様。こんな早朝から、誠に申し訳ございませんでした。これからすぐに手配を致しますので、私はこれで、失礼させていただきます。」
「ええ、よろしく頼みます。…ルゥイン、ウダガット様をお送りして。」
 セイリーンは笑顔で、退出するウダガットを見送った。しかし、一人になった途端、彼女の、その美しい黒曜石の瞳には翳りが浮かんだ。瞑想中に彼女は、眠るラサファーンの姿をはっきりと視たのだが、何故かその魂の所在が掴めなかったのだ。
(…なんだか、酷く遠くに彼はいるみたい。体はダーナ近くにある。でも、魂は…、)
 セイリーンは不安だった。ラサファーンの身に一体何があったのか、彼女には見当もつかなかったのだ。
(…ラサファーンの馬鹿、心配かけて。だから、私もついていくって言ったのに。)
 今回の近隣諸国の視察旅行が決まった時、セイリーンがついていきたいと言うと、ラサファーンは困ったような笑顔で、言ったものだった。
(セイリーン、僕は遊びに行くわけじゃないんだよ。いい子だから、聞き分けて、ねっ?何か君の気に入りそうな物を、お土産に持って帰るから。分かったね?)
(…ラサファーンったら。私のこと、てんで子供扱いなんだから。)
 客間から私室へと戻ったセイリーンは、ソファに腰を下ろし、テーブルの上に置かれた姿絵の中の従兄弟を軽く睨んだ。それは、ラサファーンの元服の時に、ラティロス王が記念にと、二人の王子を描かせたものだった。
(…パテキオも、ラサファーン行方不明の知らせを受けたのかしら?)
セイリーンはふと、クリシュナ国のもう一人の王子のことを想い、姿絵の中のパテキオに視線を移した。少し哀し気に、黒曜石の瞳が曇る。
 子供の頃、セイリーンはいつも大好きな従兄弟の後をついてまわり、その後ろには必ずパテキオの姿があったものだった。何をするにも三人一緒で、まるで仔犬のように無邪気に遊んでいた、幸福な子供時代。それが、あの一件があってから、パテキオはすっかり変わってしまった。セイリーンが彼女の子供時代を失ったリラの花の下で、パテキオも、その子供時代に別れを告げたのだ。
(あの時、あのリラの下で、私たちは多くのものを失ってしまった。…パテキオも私も、子供の頃のようには、もう戻れないわ。)
 セイリーンが溜息をついた時、
「セイリーン様。」
 ノックの音がして、従者のルゥインが飲物を運んできた。
「セイリーン様、お疲れでしょう。熱いココアはいかがですか。」
「…ありがとう、ルゥイン。」
「ラサファーン様がご無事と聞いて、僕も安心しましたよ。」
 ルゥインはカップをテーブルの上に置き、誇らしげに言った。
「本当に姫様のお能力には、いつもながらに驚かされます。ラサファーン様は、すぐ見つかるでしょう。…セイリーン様?どうなされたのですか?」
 セイリーンの沈んだ様子に気付き、十二歳になったばかりの少年従者は、その紅顔を驚きの色に染めた。
「大丈夫ですよ、セイリーン様。きっと、ラサファーン様は、すぐに見つかります。だから、どうか元気を出して下さい。」
 主人の側に脆き、一心に慰める。
「…それとも、他に何か、ご心配事ですか?もしそうでしたら、僕に何でもおっしゃって下さい。セイリーン様の為なら、僕、どんなことだって…、」
 明るい澄んだ茶色の瞳に、真摯な色を浮かべて、ルゥインは言った。
「ありがとう。いい子ね、ルゥイン。何でもないのよ。…ちょっと、子供の頃の事を思い出して、感傷に浸っていただけ。」
 セイリーンはルゥインを安心させるように微笑んだ。
(…振り返るのは止そう。私らしくないわ。前進あるのみよ、セイリーン。)
「姫様…?」
 ほんの一瞬、考えを巡らしたセイリーンは、次の瞬間には、もう心を決めていた。
「ルゥイン、支度を手伝って。」
 彼女は元気よく立ち上がると、腰までもある、艶やかな黒髪を後ろでくくった。黒い瞳が生き生きとした光を放ち、その頬が薔薇色に輝き出す。
「セイリーン様、あの…?」
 ルゥインは目を丸くして、セイリーンが引き出しやクローゼットを開けるのを見た。
「私、ラサファーンを探しに行くわ、彼のことだから心配ないとは思うけど、ちょっと気になることがあるの。だから。」
 セイリーンは巫女姫としてではない、十六歳の活発な少女の顔に戻ると、そう言った。
「セイリーン様、僕もお供致します!」
 叫んだルゥインに人差指を立てて、
「しっ、静かに、ルゥイン。内緒で出かけるんだから。…いい?出発は、今夜よ。」
 セイリーンは悪戯っぽく笑った。
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