第17話

文字数 2,233文字


 ツィルカはゆっくりと、最後の札を捲った。卓の上に広げられた占い盤を黒い瞳がじっと見つめ、ごくりと喉を鳴らした彼女は、やがて口を開いた。慎重に言葉を選びながら、占いの結果を告げる。
「…別離によりもたらされる、大いなる実り。迷いは悲劇的な結末をしか産まない。…全てを捨てた時に、彼は全てを得ることが出来るであろう。」
 占いを終えると、ツィルカは不安気な瞳で傍らの男を見上げた。ティレシアスの口元に微笑みが浮かぷ。
「上出来だ、ツィルカ。短期間で、よくここまで上達したな。今に私の助けがなくとも、一人で立派にやっていけることだろう。」
「ほんと?ティレシアス。」
「ああ。私が保証する。」
 占い師が大きく頷くのを見て、ツィルカもほっとした顔で微笑む。彼女が占いを習い始めたのは、つい十日ほど前のことだったが、その呑み込みの早さは、勧めた当のティレシアスさえも驚くほどだった。
 日を追うごとに何処か遠く、遥か彼方を見つめるオルフェの瞳に、ツィルカは近づきつつある別れを感じ、思い悩む毎日を送っていた。オルフェを笑って送り出してやりたいと思う反面、何処にも行かせたくない、ずっとオルフェの側にいたいという思いも抑えることは出来ず、それらの思いの強さほど、ツィルカは苦しんでいた。そして、食事も喉を通らなくなり、彼女の健康的な薔薇色に輝いていた頬が、青白く痩せ細った、そんなある日、不意に占い師が言ったのだ。
(ツィルカ、タロット占いをやってみる気はないか。やる気があるのならば、占い方を教えよう。…お前の内面には、お前自身の知らない能力が眠っている。占いが、お前の能力を開花させるきっかけとなることだろう。)
 ティレシァスのその言葉は、彼女には、神託のように聞こえたものだった。その日のうちから、ツィルカは、この漆黒の髪と碧い眼の占い師に、占いとそれ以外の多くのことを教わるようになったのだ。今まで考えたこともなかった世界の成り立ちや天体の運行、人類の歴史などについて知るうちに、彼女の内部で、少しずつ変わっていく何かがある。
(ティレシアス。不思議な男性…。)
 ツィルカはそっと、占い師の、整った横顔を見上げた。
(彼のお蔭で、あたしは何だか強くなれたような気がする。)
 ふと、卓の上の占い盤を見つめたツィルカの瞳が、奇妙な光を湛えた。
(別離によってもたらされる、大いなる実り。オルフェの未来の占い盤…。)
「ツィルカ。ちょっと、いいか?」
「あ…、スラロ。」
 心配そうな瞳で、テントの入り口に立った従兄弟の姿に、ツィルカはうっすら微笑んだ。
「…私は外そう。」
「すまねえな、ティレシアス。」
 ティレシアスが出て行くのを待って、スラロはためらいがちに、口を開いた。
「いいのか、ツィルカ。…もうオルフェの発つ時刻だぜ。」
「…うん、いいの。お別れは、昨夜すませたから。」
「ツィルカ…、」
 スラロは不思議なものを見るように、幼い頃から恋しつづけている少女を見つめた。この何日かの間に、ツィルカは急に大人びて、スラロの見知らぬ一人の女が、目の前にいるようだった。
「…そうか。じゃあ、俺はオルフェを見送りに行ってくるよ。」
「ええ。よろしく言っておいて。」
 スラロが行ってしまうと、ツィルカはテントを出て、橋の近くに集まった人だかりを眺めた。オルフェウスに別れを告げている仲間たちの一団だ。その真ん中にいる金髪の吟遊詩人を、限り無い哀しみを湛えたツィルカの黒い瞳が、じっと見つめる。
「…ツィルカ。」
「ティレシアス。」
 ツィルカの傍らに占い師が佇み、同じように、遠くの人だかりに視線をやった。
「…ツィルカ、いい娘だ。よく彼を行かせる決心をしたな。」
「昨夜、お別れをした時に、オルフェが言ってくれたんだ。いつか必ず、あたしたちの所に帰ってくるって。あたし、それが守れない約束だっていうことが、どうしてだか、分かったの。でも、オルフェは約束してくれた。…だから、いいんだ。」
 ツィルカは胸元のロザリオを握りしめた。それは、オルフェがいつも身に付けていた、彼のロザリオだった。
「…それに、ティレシアスが教えてくれたでしょう。魂は永遠に不滅のものだから、いつか何処かで、またオルフェに会えることもあるに違いないって。」
 ツィルカはうっとりと微笑んだ。
「あたしはオルフェのことを忘れない。いつか、他の誰かを愛して結婚して、たくさんの子供に恵まれて。旦那と子供の世話に毎日が忙しく過ぎて行って、過去を振り返る暇もないくらい幸せで…。それでも、それでもオルフェのことを忘れない。…忘れないんだ、あたし。」
「ツィルカ…。」
 ツィルカが泣き出すのではないかと思い、気遣うように彼女を見つめた占い師の、碧い眼が僅かに細められた。
「ツィルカ…?」
 彼女の瞳の奥底には、今まで無かった不思議な光が煌き始めていた。そして、仲問に手を振り歩きだしたオルフェウスの、だんだんと小さくなっていく後ろ姿を見つめていた彼女の唇から、不意に低い呟きが洩れた。
「…見える。」
「ツィルカ?」
「…見えるよ、あたし。…此処じゃない何処か、遥かな地で、あたしはまたオルフェに出会える。オルフェの、あの青い瞳を、また見ることが出来る。…会えるんだ、彼に。」
 ツィルカは眼を閉じ、吐息をついた。
(ありがとうございます、神様。…感謝いたします。)
 微笑むツィルカの、閉じられた両の眼からは熱い涙が溢れ出し、それは筋を引いて、いつまでも、いつまでも流れ続けた。


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