第8話

文字数 2,009文字

 明け方から降り始めた雨は止む気配も見せず、ルーシィアン城の中庭の木々を濡らし続けていた。この季節にクリシュナ国に降る雨は、微かに薄紫色を帯びて美しい。ルーシィァン城の中庭に面した一室で、詩人たちが女神の涙とうたう、その霧雨を見る事もせず、語り合う人影があった。
 低い眩くような声が、雨音にかき消されながら、途切れ途切れに扉の隙間から漏れてくる。
「大変なことになりましたわ。もし、御子の身に何事かあれぱ…、」
「いや…、ラサファーン様ならきっと大丈夫だ。何しろあの方は我々とは違っておられる、特別なお方なのだから。」
 テーブルを囲んで、低い声で話をしているのは、ラサファーンの学問全般の師であるウダガットと、礼儀作法などの教育者であるキシャレイ女史――尤も、彼女が教えることなどない程に、ラサファーンの身のこなしや立居振る舞いは、洗礼された優雅なものだったのだが――の二人だった。
「全く、ナシャルがついていながら、こんなことになるなんて」
 キシャレイは顎の線で揃えたストレートの黒髪を軽く振り、苛立たしげに言った。彼女にとってナシャルは甥にあたり、いつも口を酸っぱくして御子の身を守ることを言い聞かせていたのに、その甥から今朝早馬で届けられた手紙に記されていたのは、御子の行方不明の知らせだったのだ。
「ウダガット殿?どうされたのです?」
 キシャレィは、ウダガットが物思いに沈んで黙り込んでしまったのを不審に思い、そう訊ねた。
「それが、どうも…。王妃様は何か御存知のようなのだ。」
「えっ?それはどういうことですか?」
「いや、私の思い過ごしかもしれないのだが…、」
 ウダガット老は、事情を説明した時のティアレーン王妃の様子を思い浮かべた。王妃は幾分青い顔をしていたが、少しも驚いたようには見えなかったのだ。
「御子は何か、重大な事に関わっていらっしゃるのかもしれぬ。」
「重大な事と申しますと…?」
「クリシュナ国は古い、…古い王国だ。我々常人の窺い知ることの出来ぬ秘密があったとしても、おかしくはない。」
 ウダガットは考え深げに、低く眩いた。
「しかし、御子の命に関わることですよ?もし御無事なら、私たちにも一言あっていいはずです。」
「……、」
 ウダガットの灰色の眼は、アストラシア王家とアムルタート家の歴史を溯っているかのように、じっと一点を凝視して動かない。キシャレィは、しぱらくそんなウダガットを見つめていたが、やがて息をつき、立ち上がった。
「…とにかく、ナシャルだけでは頼りない気がしますわ。すぐに適当な者たちを集めて、御子の捜索にあたらせます。」
 その声に、ウダガットは我に帰った。
「それがいい。しかし、その前にセイリーン様にお会いして、お能力をお借りすることにしよう。」
「ええ、そうですね。では出発は、その後ということにして…、」
 彼女は、不意にそこで言葉を切り、
「誰です、そこにいるのは…!」
 声を荒げて、入り口を振り返った。
「そう、ヒステリックな声を出すな、キシャレィ女史。そんなだと、ますます男どもが寄り付かなくなるぞ。」
「あなたは…、」
 扉の蔭から現れたのは、きつい緑の瞳をした一人の青年だった。青年といっても、幼い頃から武芸で鍛えあげられた体躯は、がっちりとした遅しいもので、既に大人の男といっていいくらいだ。
「パテキオ様。立ち聞きなど、王子のなさることではございませんよ。」
「立ち聞き?この俺が?」
 ラサファーンの三カ月違いの異母弟であるパテキオは、その女史の言葉に、見事な金髪の頭をうるさそうに振り、彼女を咎めるように見た。
「内緒話をしたいなら、何処かの酒場にでも行くことだな。尤も、俺はいつでも行きたい時に、行きたい所に行くがな。」
 そう言って、鼻で笑う。
「ところで、麗しの兄上の帰国は、何日の予定だったかな?」
「来月の五日のご予定です。」
「そうだったな。…それでは、俺はひとつ、ハープの稽古でもしておくか。兄上が戻られた時に、俺のハープで一曲、兄上に歌っていただこう。なにしろ、兄上は我が国一の歌い手だからな。」
 嫌味らしく言ったバテキオは、薄ら笑いを浮かべた。
「パテキオ様。」
 嗜めるようにウダガットが名を呼んだが、パテキオはそれを気にも留めなかった。
「それでは、俺はハープの稽古があるので、これで…。」
 相変わらず薄ら笑いを浮かべたまま、部屋を出ていく。
「…グエン、いるか?」
 部屋を出て、広い廊下の角を曲がったところで、パテキオは低く眩いた。
「ここに控えております、パテキオ様。」
 柱の蔭から、赤毛の男が現れ、膝をつく。パテキオはそれに目もくれず、足を止めようともせずに、囁いた。
「すぐダーナヘ飛べ。兄の居場所を突き止めるんだ、奴らより先にな。」
「かしこまりました。」
「明日には着くな。」
「今夜にも。」
「よし、行け。」
 眉根を寄せ、厳しい顔つきになったパテキオは、真っ直ぐに回廊を歩いていった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み