第5話

文字数 2,120文字

 ひんやりと冷たい、緊張を孕んだ空気がその部屋を満たしていた。
 クリシュナ国の首都ツェトラの西、東側の小高い丘の上にあるルーシィアン城の対角線上に位置するマギ神殿――。クリシュナ国のみならず、世界の各地で信仰されているマギ教は、旧地球暦終わりに人類を滅亡から救ったと言われるマギ神とその弟妹の神々を祭ったもので、聖地であるツェトラのマギ大神殿には今日も多くの巡礼者が訪れ、一心に祈りを捧げている。
 その神殿の地中深く、一般の人間はその存在すら知らない、巨大な楕円形のドームの幾つにも仕切られた部屋の一室で、先程から祈りを捧げながら、じっとその瞬間を待ち続けている女性がいた。
 絹のように細く光り輝く銀の髪を美しく結い上げ、純白のマントに身を包んだその女性は、一見して高貴な生まれと分かる気品と、神秘的な雰囲気とを併せ持っている。
「ティアレーン王妃、どうかご安心を。たった今、御子は無事送り届けました。」
 不意に宙に現れた青白い光の球の中から、一人の僧侶のように見える老人が姿を現し、彼女にそう告げた。老人といっても、その痩せた体は長年の修行によって鍛えられ、とても八十を過ぎた老人のものとは思われない。
「ええ、マーラ殿。少しの間ですが、あの子にメッセージを送ることができましたわ。」
 神殿を守る能力者の一人であるマーラに、ティアレーンは言った。その青い、宝石のように美しい瞳がほんの一瞬翳りを帯びる。
「…ご心中、お察し致します。」
 深く頭を垂れたマーラは、言葉を続けた。
「大神官がお呼びです。どうぞ、御手を。」
 ティアレーンは頷くと、差し出されたマーラの手に自分の手を重ねた。一瞬の眩暈が、彼女を襲う。次の瞬間、二人は『青の間』と呼ばれる広間にいた。このドーム内の部屋にはどれも、扉はおろか窓のひとつさえなかったので、彼女にようにその能力を持たない者にとって、ドーム内を移動するには瞬間移動の出来る能力者の助けが必要なのだ。
「では、私はこれで…。」
 それだけ言うと、マーラの姿は現れた時と同じように、一瞬のうちに掻き消えた。後に残されたティアレーンは、ゆっくりと広間の中央の空間にぽっかり浮かぶ、青く輝く光の球に近づいた。
「伯父様…。」
 早くに亡くなった父母の代わりに、彼女と一つ違いの兄を育ててくれた伯父、レシャンドを呼ぷ。彼女の声に、青い光が微かに揺らいだ。
「…ティアレーンか。」
 結跡践坐で瞑想を行っていたレシャンドは、姪の前に静かに降り立った。今年六十半ばになるこの大神官は、黒い瞳の奥に穏やかな光を湛え、その秀でた額に豊かな知識と知恵とを持った偉丈夫だった。
「ティアレーン。ラサファーンのことは、何の心配もいらない。私に全て任せておいで。いいね?」
 愛しい姪に情愛の籠もった眼差しを向け、レシャンドは言った。その温かな、信頼のできる伯父の言葉に、ティアレーンはそっと頷いた。
「…覚悟はできておりました。伯父様、私はあの子を誇りに思います。」
「ラサファーンには、…そなたの子には、私の後を継がせたかった。まさか、マギ様が、男のあの子をお選びになるとは…、」
 レシャンドは複雑な面持ちで眩くように言うと、ふと夢を見ている人の、遠い眼差しになった。二十三歳という若さでこの世を去った最愛の妹ユーフュリナの面影が、彼の脳裏をよぎる。
 大神官となる者はアムルタート家の血をひく能力者で、その魂の内に黄金の光を持つといわれている。毎年春に催される聖なるマラチャの祭の夜、黄金の光に包まれた者が、次の大神官となる資格を持つのだ。三年前の元服の年、ラサファーンの身体は黄金の光に包まれ、レシャンドは彼が立派な後継者となることを、堅く信じて疑わなかった。
 しかし、この春の祭りで、ラサファーンの身体はマギ神に選ばれた印の虹色の光に包まれ、輝いたのだった。
(…お兄様、赦してね。本当は私、知っていたの。…でも、恐くて。ずっと、気のつかないふりをしていた。お兄様の気持ちと自分の思いとを。…ごめんなさい、お兄様。誰よりも、誰よりも愛しています。)
 今際の際のユーフュリナの言葉が、レシャンドの胸に蘇った。禁じられた恋心を胸の奥深くに閉じ込め、苦しみを友とした日々は、既に遠い時の彼方にあった。美しい彼のユーフュリナは、今は幸福そうな微笑みを浮かべ、彼の内面にある。それは、誰にも汚すことのできない彼の聖域だった。
(ユーフュリナ。どうか、あの子を見守ってやってくれ。あの子が、無事に旅を終えるように、道を誤ることのないように。)
 レシャンドは、ユーフェリナによく似た面差しの青年の為に、そう祈った。
「伯父様。私、しばらくマラチャの塔に籠もろうかと思いますの。あの子の為に、私が出来ることは、祈ることくらいですから。」
 ティアレーンの静かな声に、レシャンドは我に帰った。
「…ああ、それがいい。今回の旅は今まで以上に特別なものになる。何しろ、古書が失われて以来、初めての旅なのだからな。」
「長い、…長い旅になりますわ。…あの子にとっても、私たちにとっても。」
 彼女の母親譲りの青い瞳は、時の狭問、遥かなる地球の上に居る息子を想って、いつまでも遠くを見ていた。

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