第10話

文字数 2,161文字

「オルフェー、何処にいるの?オルフェ!」
 ツィルカはオルフェウスを探しながら、森の奥深くを歩いていた。侵入者の声に驚いた鳥たちが、不気味な鳴き声を上げては、周りの枝々から飛び立つが、彼女はそれを少しも気に止めない。頬を染めて、風のように軽やかな足取りで、まるで踊りのステップを踏んでいるかのように進んでいく。
「オルフェー!」
「此処だよ、ツィルカ。」
 オルフェは答えて、再び視線をもとに戻した。彼の周りには様々な種類の植物が生え、その幹で鳥は囎り、栗鼠などの小動物は元気よく駆け回っている。枝の間から射し込んだ幾筋もの光の帯は、不思議な模様を地面に描き出している。
「何してるの、オルフェ?」
「森を見ていたんだ。」
「森を?」
「ああ。此処は、本当に美しい処だね。」
「うん。あたいも此処は好きだよ。此処の人たち、とっても気前がいいんだ。昨日だけで二日分の稼ぎがあったんだから。」
 ツィルカはニッと笑って、ポケットから青林檎を取り出し、オルフェに放った。
「美味しいよ。」
「ありがとう。」
 その瑞々しい、青い果実に歯を立てた吟遊詩人の鼻を、甘酸っぱい香りが擽る。
「美味しい。本当に美味しい林檎だ。…それに、」
 オルフェは周りを見回し、微笑んだ。
「それに、この時代は大気の色が違う。濃い、本当に素晴らしい大気だ。」
「オルフェ…?」
 オルフェを見つめていたツィルカは、不意に息を呑んだ。微笑みを浮かべたオルフェウスの身体が透き通り、周りの木々と同化して消えてしまう、そんな幻が見えたのだ。
「駄目よ、駄目!オルフェ、行っちゃあ、駄目っ!」
 ツィルカは思わず叫び、オルフェの胸にしがみついた。
「どうしたんだい、ツィルカ?」
 オルフェウスの戸惑った声。ツィルカは首を振り、両腕に一層力をこめた。
「ツィルカ?」
「オルフェ、お願い。何処にも行かないで。」
「ツィルカ…?」
 ツィルカはオルフェを見上げ、必死な面持ちで訴えた。
「ねえ、お願い、オルフェ。約束して。何処にも行かないって、ずっとあたいと一緒にいるって、約束してよ。」
「ツィルカ、こんなに震えて…、」
「ねえ、約束して。」
「わかったよ、ツィルカ。何処にも行かない、ずっとこの一座にいる。約束するよ。」
 微笑んだオルフェがそっと額に接吻をしてくれたが、ツィルカの不安は消えなかった。
「ねえ、ティレシアス…、」
 仲間の所に戻ったツィルカは、その足で、占い師のテントを訪ねた。漆黒の髪と碧い瞳を持つこの男は、仲間内でもよく当たると評判の占い師だった。
「どうした、ツィルカ。恋患いか?」
 占い師は微笑いを含んだ声で問うた。それへ首を振り、ツィルカは占い師の傍らに腰を下ろした。
「オルフェのことを、占ってほしいんだ。」
 青ざめた頬、愁いを帯びた眼差しは、彼女を急に、大人の女のように見せた。
「この頃のオルフェ、何だか変なんだ。何処か遠くを見てたり、おかしな事言ったりしてさ。…あたい、心配なんだ。オルフェがどっかに行っちゃって、もう戻ってこないみたいで。不安なんだ、とっても…、」
 ツィルカは苦し気に、息をついた。占い師の碧い眼が、そんな彼女を、限り無い愛惜の籠もった眼差しで見つめる。
「…占わずとも、私には彼の未来が見える。彼は近く旅立ち、二度と再びこの一座に戻ってくることはないだろう。」
「うそ…、」
 そう言ったきり、ツィルカは後の言葉が続かなかった。彼女の知る限り、占い師の言葉が外れたことは、かつてなかったのだ。
「ツィルカ…、」
「嫌だ、そんなの嫌だ…。」
「ツィルカ、よく聞くんだ。…人には、それぞれ持って生まれた使命というものがある。大なり小なり、どんな人間にもそれはあるものなのだ。オルフェの…、彼のそれは、とても特別なこと。誰にも邪魔することは、許されない。」
「邪魔なんかしない。…あたい、オルフェの邪魔なんかしないよ。」
 涙を堪えた黒い瞳の、長い捷毛が心刻みに震える。
「あたいは、ただオルフェの側にいられるだけでいいんだ。何にもいらない、何にも求めない。それでも、オルフェは行っちゃうの?あたいを置いて、出て行っちゃうの?」
 言葉を続けるうちに、ついに堪え切れずに、ツィルカは泣き出した。大粒の涙が、次から次へと頬を伝って落ちる。
「ツィルカ…、」
 占い師はツィルカの頭の上に、そっと大きな手を載せた。
「ツィルカ、いい子だ。泣きたいだけ、泣くといい。…今は辛くとも、おまえはやがて真実の愛に気付くことだろう。」
 占い師の深みのある声が語る言葉は、ツィルカの心に不思議なほど染み入ってきて、いつのまにか彼女は穏やかな、何の哀しみも知らない幼子のような平和な心地になっていた。
「あたいの、真実の愛…?」
「そうだ。それは幼い頃から、お前のすぐ近くにあったものだ。それに気付いた時、お前は幸福を掴むことが出来るだろう。」
「すぐ近くにある幸福…?」
 占い師の声は子守歌のようだった。いつしか、彼女は眠りの世界へと誘われていた。
「ツィルカ、いい子だ。今は、何もかも忘れて眠りなさい。」
 ツィルカを見つめる占い師の碧い眼には、悲哀の色が浮かんでいた。
「…彼の邪魔をしてはならない。その未来は、お前たち人類の未来に、深く関わっているのだから。」
 彼のその低い呟きは、眠りに落ちたツィルカの耳には届かなかった。


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