第10話 途を違えた研究者 

文字数 2,404文字

 後藤英子からの手紙を読み終えた正孝は内なる衝撃にたじろいでいた。「オウム」のような新興宗教と呼ばれるものはいつの時代にも社会に現れる。それは教祖の特異な霊能力を売りにして信者を集めてゆく。
 ただ「オウム」が他と違うのは信者の年齢層。若年層をターゲットにしていた。この金まみれの狂乱の時代にあって恩恵に預かれない世代。10歳上だったらディスコで連日踊りあかしていただろう。せいぜいルーズソックス、髪を金茶に染めて渋谷センター街をふらつき、男子ならば安価なシンナーを吸ってヤンキー気分でよたる。いずれも財布には3000円しか入っていない。
 男女共に若者には金は降って来ない。そしてやがて行き場を失い社不(社会不適合者)となる。「オウム」は彼らを囲い込む。社不は縋るものを求めている。それが流行りのコミックに出て来る、超能力なんかであればすぐに群がってしまう。超能力獲得に尽力する。

 「オウム」はこの時代だったから栄えたのかもしれない。日々膨れ上がる信者。宗教なのだから信者には「お布施」を要求する。金のない彼らは実家の財産にも手を伸ばす。ただここが「オウム」のウィークポイントだった。
 大抵の新興宗教団は金を持っている中年以降の世代、特に主婦層をターゲットにする。簡単に「布施」を調達出来るし一家ごと抱え込める。この事実は大きい。その子供は二世信者となり次に三世信者を産んでくれる。教団を安定させる大事なファクタ―。
 しかし「オウム」にはこのファクタ―がない。経済基盤が弱い。そこで考え出したのが当時絶好調の株式投資だった。若者の中から経済を学んだエリートをチョイス。株式投資部を創り金を転がせた。これは大当たり。莫大な資金を得ることに成功する。
 これで盤石かと思うが世間の風当たりは強い。不気味な集団にしか見えない。公安警察にはマークされる。また、衆議院議員選挙に教団員26名を立候補させたのが不味かった。「オウム」の持つ異様さを際立たせてしまう。ますます社会で孤立してゆく。
 こうなると彼らは自衛の手段を講じる。公安警察に対抗する武器を作り始め、アジトの護りを強固なものにする。また優秀でありながらも社会に溶け込めなかった人材を募る。目的は組織の防衛攻撃力の強化。物理、化学、機械工学のエキスパート、はてまた出世できない現役自衛官たち。
 いつしか教団の目的は社会転覆、革命へと向かう。社会が自分たちを受け入れないんだったら、逆に自分たち中心の社会を造ってしまえばよい。釈迦の生まれ変わりと主張する教祖の思想と相俟って選民思想に発展してしまう。神仏に選ばれた「オウムの民」の完成。
 あとはいつどうやって社会を転覆させるかの算段となる。
 けれどこうも急速に先鋭化するとは予想外の展開。しかも化学兵器に手を出すとは。確かに安価に容易く大量殺戮が可能。これを国会開催中の議事堂に散布すれば政府の中枢はマヒする。けれどそのあとは? 何か場当たり感が否めない。
 たぶん戒厳令が敷かれ自衛隊が治安に乗り出す。それに対抗出来るのか? 自衛隊は化学兵器に対抗する手段を講じるはず。それに対抗できるだけの火器を保有しているのか?? こうなると、もはや教団内の一部勢力の暴走としか言いようがない。
 後藤英子は図らずもこの勢力に巻き込まれてしまった。あの石井に騙されてVXガスを作らされた、と記されている。報道されている〇市の三名の不審死事件も、このガスに寄るものだと謝罪している。自分はどうすればよいのか、と尋ねて来ている。
 正孝は何より英子のことを気遣った。もはや事件は起きてしまった。彼女の責任は免れない。それでも何とか励ましてやりたかった。彼女の手紙にも短絡的に石井の容姿に惹かれて罪を冒したことへの後悔と共に、許されるならば「また一緒に研究をしたい」と素直な気持ちも描かれていた。
「英子の作ったガスならば即効性の解毒剤も作れるはず。ぜひ出来るだけ多くを揃えて欲しい。次の犠牲者のために。それが英子の贖罪。それから僕はいま病気で動けない。その替わりに、記者とカメラマンの二人に教団からの救出を依頼する。待っていて欲しい」
 返信にはこう暗号で記した。
「彼女の様子はどうでしたか?」
 正孝は記者の吉岡灯に尋ねた。
「随分と憔悴してる感じでしたね。時々、真っ赤に目を泣きはらして。ちょっと同性として見ていられない様子でした」
 灯は正直に話した。そして、
「あなたを待ち望んでいる感じでした。これは同じ女性としての勘です」
 正孝は肩を落とす。
「ご覧の通り。僕はもうまともに歩けもしない。君とカメラマンさんで英子を救出できないかな?」
「それは可能ですが…彼女が望めばですが、、」
 灯はそのあとの言葉を飲み込んだ。聡明な正孝には理解が行くはずだ。罪は消せない。いずれ捜査の手は及ぶ。自由とは束の間のこと。英子も望まない気もする。これも女子の直感。
 激しく咳き込む正孝。段ボールハウスに敷いた布団の上。コンクリートの冷感は身体に堪えるはずだ。灯は呼吸が楽になる薬剤が入ったスプレーを慣れた手付きで手渡す。灯は、大変申し訳ない話だが、記者として訊かなければならないことを言いそびれていた。
すると正孝が察したように、
「記事は君たちの使命だ。見知ったことをいち早く世間に伝える。それが報道の役割。躊躇なんていらないさ」
「もちろん実名なんて出しませんが、ガスの制作者が教団内に居ることは分かってしまいます。教団は英子さんのことを隠そうとするし、彼女の口から漏れることを怖れて絶対に手放さないでしょう。よろしいですか?」
「うん、判った。それで『別の世界でまた一緒に研究が出来る』か。やっと意味が理解出来た。来世でとのことだ。女子はほんとに潔い。そうかそれは楽しみだよ」
 正孝の表情から笑みがこぼれた。
 正孝から微笑みが見られるのはこれが最後となった。
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