第8話 最後の晩餐

文字数 2,383文字

 吉岡灯は別の取材も試みていた。こっちが特ダネの本筋となる。シュウさんも同行する。
「どうでした、例のホームレスの原稿の件?」
 シュウさんは三菱パジェロを世田谷にある「オウム」の拠点めがけて転がす。
「300万の買取でどうかって。いま悩んでいるとこ。確かに300在れば一時的にホームレスから外れて、病院で療養出来るんじゃない。病院も特別『出版健保』の指定病院で、組合員の扱いで入院させてくれるって」
「そうか。あれは結核だな。もしかしたら癌かも。オレの経験じゃもう長くはない。最後の晩餐は快適な所で過ごさせてあげないか。確か『出版健保』には箱根とか軽井沢とかに療養施設も持ってるよ。一度うちの子供たちも連れて行ったことがある」
 灯は紅林に一任されていた。実情を世間に問えれば条件などどうでもよいとも言われていた。灯が黙っていると、
「まあ、確かに彼は食わせもんだから、注意が必要ですね」
 これは我が社の編集局長のことを指す。
「でも面白い。変なことをすればそれをスクープしてやればいい。灯さんのところじゃ無理でしょうから、僕が他社に持ってゆきますよ」
 なるほど。その手もありか。灯は急に気分が軽くなった。何か嫌な予感が常に付き纏っていた。
「それはそうと、『オウム』の目星はついてんるんですか? ただ行くだけじゃ、追い返されるだけだ」
「うん、裏口に15時。ある人が出て来る。その人をピックアップして取材する」
 その人とは例の段ボールハウスの教授(紅林)から偶然に紹介された。
「『オウム』の取材は大変だろう。ガードが堅い。つまり知られたくないことがたくさんあるとのことだ…」
 そこから話しの糸口がほどけた。
 株価が最高値を更新して連夜ディスコダンスに興じてた頃、「オウム」は大量の科学者の卵を勧誘していた。たぶん理系だけではなくて経済学、社会学、政治学などの文系でも、社会から疎外された優秀な人材を集めていたと思う。さらには警察学校、防衛大学校からもちょっとはみ出たオタク系の学生を募っていた、と教授は述べた。
 また、起業を目指した仲間に「オウム」の行った女子がいる。彼女は「半導体」の専門家で、もしアメリカに産まれていたならフロンティアグループの一人となっていたほどの逸材。もう2年近く連絡もとれてないけど、彼女のことが心配になる、と溜息をつく。
 灯は、教授はこの人のことが好きだったんだ、とすぐに気付いた。女子の直感だ。渋る教授から彼女の名前を聞き出し、世田谷の教団本部に手紙を送った。もちろん教授の名前で。すると、ほどなくして返信があった。
 そこには「オウム」の切迫した現実と後悔が綴られていた。また、出来ることならばまた一緒に仕事をしたいとも記されていた。教授は専門分野の「アルゴリズム」の乱数表で文字を綴り彼女に再び手紙を送った。これは暗号で、ふたりだけの秘密の会話。教授と彼女にしか分からない。「オウム」による検閲を怖れたのだ。
 その返事もまた暗号。それを観た教授の指示で、いまこうして彼女と接触しようとしている。
 ほどなく裏口が開き、見慣れた白いオウム服を着た女性が出て来た。灯が助手席から降りて、手を振ると、彼女は走って後部座席に乗り込んできた。
 化粧っ気がまるでないが、きちんとすれば美人だと分かる。ロングの長髪は頭上に束ねられていた。顔色は青ざめていた。ひどく落ち込んでるように見えた。
「時間がないの。私はいま監禁されてる。ある事件がきっかけで。昔からの知り合いが1時間だけなら見逃すと言ってくれた」
 女性は早口に述べた。口ぶりには尋常じゃない精神状態も垣間見える。
「あの人、そんなに体調がよくないの?」
「はい、余命3ヶ月と知り合いの医者が言ってます」
 灯は正直に述べた。彼女にも残された時間はないのだ。
「可哀想に。無理し過ぎたんだわ。一緒にそばに居てあげたいけどそれも出来ない。たぶん私は二度と『オウム』からは逃れられないと思う」
 彼女は大粒の泪を座席シートにこぼした。雨粒のように音が聞こえるかのようだった。このメモに『オウム』がやろうとしている事、私がしでかした事が全て載ってます。一度、紅林に見せてくれますか? その後のことは彼に任せます。あなたたちが記事にするのならそれでも構いません。最後にあの人に、
『あなたと一緒に居るべきだった。でも別の世界でまた一緒に研究が出来る』
 そう伝えて下さい。
 灯は、新宿西口の段ボールハウスでホームレスたちのために、彼がやっていることをシュウさんの写真を交えて説明した。そして、彼から預かった株券らしきものを彼女に渡した。
「これをあなたにあげるように言われました。私には何の意味があるのかよく分かりませんが…」
 彼女はその株券を見つめ、可笑しそうに笑いながら、灯に戻した。
「これは彼の夢です。実現したかった夢。いまに大化けします。恵まれない研究者たちの支援に充ててください。私にも明日はないのです。貰っても『オウム』のものになってしまうかもしれない。彼は実業には向かない人だった。優し過ぎるんです。慈善活動家だったらよかったのに…」

 夜の帳も相まってか、巨大な黒い塊にしか見えない教団施設。重い足取りでその分厚い鉄の扉をくぐる彼女を見て、いつも憎らしいほど沈着冷静なシュウさんが声を荒げた。
「これは生き地獄だ。たぶんこの前の毒ガス事件と関係してるんだろう。非道なことをさせられて身柄を押さえられて、死ぬまでこの魔窟から出られない。日航機墜落現場と何も変わらない…」
 教団内で日夜繰り広げられてることを指してるんだと思う。
 灯はこんな切ない気持ちになったのは久しぶりのことだった。社会は、前途有望な若者の人生を滅茶苦茶にした。二人の研究はIT分野で日本を最先端に押し上げるものだった。
 それなのに…
 これはもはや大罪。
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