第6話 騙された先端科学者

文字数 2,644文字

 社会に行き場を失って「オウム」に集められた研究者たちは、ここに来て立ち止まらざるを得ない事態に遭遇していた。VXガスの製造を託された後藤英子もそのひとり。何故にVXガスなのか、理解に苦しむ。
 そこで教団は、科学省のトップに加えて教団の幹部列席の説明会を開いた。60名近くの物理、化学、機械工学、医学の科学者たちが一堂に会す。登壇する教団幹部の背後には、人相のよろしくない図体のデカい警察・軍事部門の猛者たちが居並ぶ。
「諸君はこの国の未来のために集められた。日本国政府は好景気に浮かれ、未来図を描こうとしない。技術などは金で買えると思っている。研究者たちの不断の努力の結果であることを認識していない。
 もちろん、諸君にはそれぞれの分野で研究に勤しんで貰いたい。だが、ここに来てのっぴきならない事態が巻き起こった。公安警察が動き始めた。この公安とは、今の政府を護るためにある。金満政府は現状を続けたい。なので、我々のような社会改革思想を持つ者を排除したがる。
 我々の組織は盤石な状態にある。今や社会革命を起こしうる団体に育ちつつある。たが、不足しているのが自衛のための手段。法律で武器を持つことを禁止されている。対抗する手段がない。当初は銃を始めてする武器の製造も考えた。だが、必要な物資が容易に手に入らない。
 そこで最後の手段に出る。まずは化学兵器に頼る。公安警察を殲滅してからは、彼らの持つ通常兵器を奪い自衛の手段としたいと思っている。
 諸君たちが抱いている懸念は判る。当然、誰かを殺傷しなくてはならない。しかし、歴史から本当の革命は無血で成し得た試しはない。どこかで一戦、交えざるを得ない時が必ずやって来る。今がその時なのだ。諸君たちだって今の政府に将来を託せないから、ここにこうして集っている。
 まずは、教団殲滅にやって来る公安の連中を向かい討とうではないか!」
 演説は巧妙に計画されたものだった。確かに反社のヤクザでさえ、ハジキ一丁を入手するのに苦労している。機関銃なんててとも無理だ。それに比べれば化学兵器は容易く作れる。またこれを保有することは抑止にもつながる。核抑止理論と同じことだ。
「我々は仏教教団。慈悲の心を中心に据えている。化学兵器の使用法に関しては教団幹部たちに一任して貰えないだろうか。諸君は製造のみで、どう使用するかは公安の出方による。武力鎮圧を目論めば、当然、彼らも報復は浴びせられるだろう」
 公然と異議を唱える研究者は居なかった。英子も公安を抑止する武器としての「VXガス」と認識するようにした。そうでもしなければ、殺人兵器などは造れない。広島、長崎に落とされた原爆を作った科学者たちの気分がした。何処かで心の折り合いをつけるしかない。
翌日に、念を押すように石井先輩に尋ねた。
「本当に抑止のみを目的としたものでしょうね。間違っても世間の人達を殺傷することはないでですよね」
 化学兵器は相手を即死させるものではない。むしろ手傷を負わせて治療などに忙殺させることを目的としている。その意味では地雷と似ている。社会を混乱させる悪魔の武器。持ち運びも容易で、大型の機材も必要としない。農薬のように散布して、風で自然拡散させれば済む。
「変な使い方をすれば国民を敵に回してしまう。それは革命の意図に反する。大丈夫だよ。幹部連中に任せておけば。みな博識な知識人たちだよ」
 この時くらいからは石井先輩とは、身体の関係も出来ていた。プレハブの簡易ベッドの上で行為を済ませる。英子には蜜の味がした。不安など吹き飛んでしまう。
「教団が天下を取ったら一緒になろう。英子が産んだ子供たちが何不自由なく勉学に励める、そんな社会を造ろうじゃないか」
 そんな戯言を耳元で囁かれながら、彼の嗜好のオーラルセックスをやらされる。後でこの先輩には3人の情婦がいることを知った。それも同じ研究員の女性たち。とんだ噴飯ものだ。
 やがて、手がけたVXガスが使われたのでは、と疑わせる事件が世間を賑わす。それまで元気だった教団と敵対していた一般市民が、急に苦しみ出して倒れる。救急搬送される罪なき人々。病院も原因不明では措置のしようがない。
 数日後に法医学研究所より猛毒「VXガス」と特定された。被害者は死亡を免れたが後遺症は必ず残る。これは間違いなくガスの効力を実験したものだった。
 マウスでの実験は可能だが、人間への効果的な量のデータがまるでない。なので、こうなることは予想出来た。そのことで石井先輩に文句をつけるものの、
「データ収集だよ。死刑囚でも居れば簡単だけど。どうしようもない。ある程度の犠牲は止むを得ない」
 あっさりと肯定された。
「そんな。それが私とあなたの子だったらどうするの?」
「そんなことにはならない。我々は選ばれた『オウムの民』だよ。死ぬのはそこら辺のタダの人たち。いいじゃないか。金狂いの世の中が少しでもよくなれば…それにガスに後藤英子なんて名前はついてない。誰がやったなんて永久に分からないさ、ハハ」
 後藤英子は震撼した。これが「オウム真理教」の考え方なのか。いつものオーラルセックスを拒否すると、
「別にいいさ。他の子にやってもらうから」
 英子は何とかしたかった。このままでは教団は数多くの実験事例を作る。申し訳ない話だけど、紅林正孝に連絡を取りたかった。もはや娑婆に気がおける人は彼しか居ない。聡明な彼ならば、対処の仕方を一緒に考えてくれるはず。
 だが、まるでつかまらない。彼のアパートに速達ハガキを出しても転居先不明で戻って来てしまう。折しも、かなり痩せて顔色も悪かった、との石井の言葉がよぎる。身の上に何かあったのか? 英子はこの時はじめて、かけがえのない存在が誰なのかを識ることになる。
 彼に贖罪の言葉を聞いて貰いたかった。優しい彼ならば、励ましの言葉をかけてもらえたのに。もうあと戻りは出来ない。天下の大罪人がここに居る。教団を秘かに抜け出して、近くの交番に駆け込むことも考えた。
 けれど化学の知識のない、いち警察官に、私がVXガスを作りました、と名乗り出ても、失恋で頭が狂った女子としか思われないだろう。それでも何とかはしたい。施設内にひとつだけある赤電話(10円を入れて通話する)の前で、混乱状態にいる処を教団警察に捕まった。
 たぶん、石井がマークすべき人物と警察に報告していたのだろう。
 後藤英子は教団の薄暗い一室に閉じ込められた。警察はここを「監獄」と呼ぶ。

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