第4話 新興教団とは

文字数 2,796文字

 後藤英子は宗教には無関心に育つ。家には仏壇は在ったが、何のために人は死ぬと位牌になり、小さな仏壇に収められるのか、正確には知らなかった。学業にしても理系だったせいもあり、宗教学は履修しなかった。つまり宗教については全くの無知だった。
 それが大学卒業後、社会での行き場を失い、「オウム真理教」に入信し人生観が変わった。既存の仏教集団だったら、抹香臭い、相も変らぬ道徳観の押し付け、と切り捨てていたやもしれない。だが違った。この教団は社会の在り方自体を正そうとしていた。
 お金だけに価値観が集中する世情。勝つことのみに明け暮れる人生。実利のみを優先、未来を見通さない経済界に政治家たち。教団の中には、無造作に棄てられる化学物質やプラゴミはやがて地球規模の汚染公害を招く、と熱心に説く者もいた。また因果律から、この狂乱の天国の裏返しとして、必ず阿鼻叫喚の地獄がやって来る、と冷静に歴史分析する者もいる。
 正直、英子には教団の思想なんかどうでもよかった。教祖の言葉もどこか胡散臭い。ただ、現社会を憂うる集団で在ることに誇りを感じていた。収入が増えれば誰でも嬉しい。けれど国民が等しく豊かさを享受している訳ではない。一極に富が集中し、格差がますます拡がってゆく、そんな印象だった。
「Japan as No1」との言葉に酔いしれ、企業戦士との名誉号に踊らされ、一割程度の給与アップに満足させられている。甘い汁を吸う者は土地を転がし、株式投資を生業とするほんの少数の輩。こいつらは余りに余った金を惜しみなく、政治屋に注ぎこみ規制改革を急がせる。
 規制改革とは、まずはライフラインを民営化させることを指す。最近では国鉄をJRに、電電公社をNTTに替えた。その際の株式を大量に不正取得し、最高額で売り払い差益を我がものとする。次は郵便、電気、ガスとまだまだ野心は果てしない。
 つまり額に汗して働くことを彼らは嘲笑う。また、英子は、この輩が金で何でも買おうとすることを知っている。最初は研究費名目に近づくものの、実はお妾にしようとする。女性を性の玩具としか思っていない。
 こんな輩をのさばらせている社会を許せない。現実には取り締まる法律も機関もない。やりたい放題だ。また日本社会は旧態然とした年功序列社会。幾ら仕事が出来ても評価されない。歳を経て順番を待つしか手はない。
 また、日本は未来への投資をしない。現状を終着点と捉えている。例えば、半導体(集積回路)は未来の電機、通信、自動車産業には必須の技術。どんな分野にしても製品を電気化・自動化させるためには半導体が必要なのだ。しかも複数の搭載を考えれば小さければ小さいほどよい。
 だが、日本はそれらをまともに理解しようとしない。集積回路技術はバブル前までは欧米としのぎを削っていた。今や、有力な若き研究者は海外渡航(特にアメリカ)し、研究を続けるしかなかった。ただ、自分をアピールするポジティブな表現力と英語力を持ち合わせない英子のような者には残る道は少ない。
 先の衆議院議員選挙で惨敗した「オウム」は大きくシフトチェンジした。国民の賛同を問うたものの大衆は大きな変革を望まない。そこで日本政府と同じ組織を教団内に作り、いつでも成り替わって社会運営が出来るように下準備を開始する。そのためには多くの有能な人材が欲しい。
 法務省には法の専門家を内務省には行政の専門家を、また科学省にはあらゆる科学分野のスペシャリストを配するよう計画された。英子もそのひとり。科学省で応用化学の専門家として職に就いた。収入も研究費の名目で潤沢に提供された。
 英子はこれには驚いた。一般信者はお世辞にも綺麗とは言えない教団施設内で集団生活をする。宗教の信者なのだから当たり前と言えば当たり前。信者とは布施をする人を指す。私財を投じて入信する者も多い。ただ食い扶持はあてがわれるが、給与は出ない。
 一般信者と違い、技術・科学者の教団への出入りは自由だった。今までの住居にいたければそれでも良しとされた。つまり研究者は、持ち出されるモノより持ってくるモノの方が遥かに多い、そう判断されたのだ。研究室とは云っても十坪ほどのプレハブの家屋。そこに数人が机を並べる。科学省のトップからは、いずれ最先端の設備機材を整えた五階建ての省舎を造ると約された。
 さて、英子を「オウム」に入団させる端緒を作った大学の二つ先輩の石井雄一は、科学省のNO.3の座に居た。英子のことを気にかけ、たびたびプレハブ研究室を訪ねて来る。必ずスイーツも持参してくれる。本日はサツマイモのタルト。三時のおやつにする。
「何か問題はあるかい?」
 石井先輩の瞳はいつだって優しい。
「いいえ、研究費まで戴けて大満足です。卒業後の三年間は食べるのにも困ってしまって。カップラーメンの種類は何でも云えるくらいになりました(笑)」
 英子はいつも隣でせわしなく働く紅林正孝のことをふと思い浮かべた。想いを寄せてくれる彼の気持ちまでも知っていた。
「そうそう紅林のやつ。何度も声を掛けたんだけど首を縦にふらない。この前実際に会ったが、かなり痩せて顔色も悪かった。後藤君からも誘ってくれ。彼の『アルコリズム』理論は必ず教団には必要になる」
 相変わらずディスコのウェイターのバイトもしてるんだ。あれは特に心に堪える。札束をかざすた俄か長者に罵倒される日々。すっかり売春婦扱いされて、胸元に数万円をねじ込もうとする客相手に紅林は必死に守ってくれた。
 はい、とは答えたものの、一端は彼の元を去った身だ。もう気安く接する訳には行かない。今更近づいても、むしろ彼を傷つけることになりかねない。
「シリコンバーレーに行った友人から手紙を貰ったんですが、紅林さんのIT研究(演算機器だったコンピューターに通信システムを搭載し世界を繋げる)が小さな幾つもの集団によって実用化されようとしているみたいです。くだらないお金至上主義に毒されてしまって日本は。彼はエポックメーカーになってたのに…このままでいいんでしょうか?」
英子の言葉尻はついキツクなってしまう。自分の半導体技術もその中に入っている。それも悔しかった。
「いいワケないさ。今に転覆して見せる」
 石井雄一は断言した。
「はい? テンプクとはなんです?」
 英子はなにやらただ事ではない石井の意思を感じた。
「いや、忘れてくれたまえ。今はまだ初期の準備段階だ」
「そうだ、この成分組織図をみてくれ。この製造を君に任せられるかな?」

 英子にははじめて見る代物だった。
「はい、お預かりしてもいいですか。ちょっと調べてみます」
 後藤英子はその晩にそれがVXガスであることを知る。一体これをどうするの?
 そう言えば、「オウム」の組織の中には警察・軍事省まであった。
 化学兵器でしか使用されない物質を前に呆然自失となる。
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