第9話 反逆

文字数 2,779文字

 3日後、後藤英子は監獄から解放され、元のプレハブ研究部屋に連れ戻された。そこにはあの石井が不敵な笑顔を浮かべて待っていた。
 たぶん教団は多数の研究者にVXガスを作らせたいはず。この工程は次のようなもの。
 三塩化リンをメチル化することで亜ホスホン二塩化物とし、これにエタノールを作用させメチル亜ホスホン酸ジエチルとする。更にN.N-ジイソプロピルアミノエタノールを作用させることでエステル交換反応によりイソプロピルアミノエチルメチル亜ホスホン酸エステルとする。最後にこの前駆体を硫黄と反応させて40℃以上で加熱すると、チオホスホン酸から異性化が起きてVXガスとなる。
 化学をかじった者なら、素材さえあれば誰にでも出来そうだが、ただ手順にはちょっとしたコツが要る。原子元素配列に詳しい英子には自信があった。哀しいことだけど、おそらくは自分の作ったものが一番効力を発揮する。教団は自分を必要とする。
「どうだった監獄は、楽しかったかい。僕の特別のはからいで出してあげた。君の役目は製品をただひたすら作りあげること。分かったかな。また監獄に行きたくなかったら僕に従うことだよ」
 英子は逆らうことを止めた。秘めた計画を実行するためだ。そのためには研究室に居る必要があった。
「分かったわ。あなたに従う。ただよりよい製品に仕上げるために苛性ソーダ、漂白剤、硫酸、過酸化水素を用意して頂戴」
 素人に言ってもたぶん理解出来ない。従者にメモさせている。
「ほほ、いい心がけだな。そのうち科学省の部長に推薦してあげる。一生懸命、教団のために尽くすことだな」
 よし、引っかかった。英子はほくそ笑む。
 紅林から届いた手紙を思い浮かべていた。

 君の半導体技術は世界一だよ。化学物質や元素を扱わせれば右に出る者は居ない。毒物を作らされているなら秘かに反物質(解毒剤)を作ればいい。君には造作もないことだ。必ずや誰かがそれに援けられる。君は強い女性だ。逆境に負けないで欲しい。一緒に長い間耐えて来たじゃないか。また一緒に未来の研究が出来るさ。

 英子は、それからVXガス製造のかたわら解毒薬の製造も開始した。『×β』と命名し、ひとり用のアンプル剤に仕上げた。さらにもうひとつ、とある物質の製造も開始する。これは紅林にも秘密。ために手元にあるものに追加して、もう2種類の物質が欲しい。圧倒的な破壊力を持たすためだ。
 だが、これを石井に頼むにはムリがある。誰にでも何に使うのか、類推出来てしまう。なので自分で教団内を捜して回るしかない。お目当てのガソリンは、停めてある自動車から容易く手に入った。だが、もうひとつ、ニトログリセリンはそこらに落ちているはずもない。
 英子は深夜、人気のない時間にあちこちを探索する。すると、驚くべきことが分かった。オウムと言えば、教祖を模したものや像さんの被り物での歌やダンス、また、針山のような帽子で宇宙の気を取り込むなどとバカげたことを装っているが、内実はそうではない。
 施設内で一番大きな、真っ黒なトタンで囲われた建物に侵入すると、そこは明らかに兵器工場だった。ライフル銃、機関銃(砲)、多目的誘導弾、それを搭載する装甲車を建造していた。もちろん使用する弾薬も用意している。つまりニトログリセリンの他、火薬があることを意味する。

 あれこれと物色していると、不意に電気が点いた。驚き慌てる英子。
「君は何をしているのかい?」
 見知らぬ青年、歳は二十歳前後、大学生に見えた。
「あ、わたしは後藤英子と言いまして、科学省・石井さんの元でVXガスを作っています。その素材に適当なものはないかと尋ねて来ました」
 言い繕う英子。
「ほう、あの悪魔の兵器を君みたいな女子が作っていたのか? これは驚いた。石井はまるで自分が作ったと胸を張ってたが。やはりアイツは信用ならない。粛清の対象だな」
 随分と歳が若いのに偉そうな物言い。のちに教祖のお気に入り(秘蔵っ子)だと分かった。
「君のVXガスはスゴイ威力だ。一度に大量の人間をポア出来る。ポアとは死ぬことによって魂を一段と浄化させるとことをいう、オウム流殺人の屁理屈だ。しかも安上がりに出来る。ここにあるどの兵器よりも殺傷力が高い。君はそれを承知で作っているのかい?」
「はい、〇事件には、いっ時戸惑いましたが、今は覚悟が出来てます」
 本音をもらす英子。それで相手も打ち解けた。
「そうか。僕も理屈では分かっていたが、いざ人を殺めてみるとその悍(おぞ)ましさにたじろいたよ。立ち直るの何日もかかったもんだ。君も最初は戸惑ったんだな。それは人間らしい…」
 この若者は何を言おうとしているのか理解に苦しむ。
「僕は情報処理学を専攻する学生だった。けれど現社会では全く相手にしてくれない。そんなことよりは売れるゲームソフトを開発してくれ、その方がよほど社会の役に立つと真顔で言われた。コンピーターが創る未来を想像だに出来ない。まったく呆れた」
「私も貴方よりは年上だけど、〇大で半導体の研究をしていた。それが専門。でもなかなか研究開発費の出資元が見つからなかった…」
「そう、じゃ、紅林さんを知ってますか?」
「はい、一緒に起業しました。そして投資してくれる会社を探していた。でもどこもダメ…」
「僕は紅林さんの科学雑誌への論文に触発されたひとりです。この道の偉大な先駆者です。だからオウムによる革命の後には、コンピューター世界を創り上げたいと思ってるんです。そこにはあなたの半導体は欠かせない技術です。やはり将来を夢見ているんですか?」
「はい、そのために教団に来ました」
 英子は白々しい嘘を吐いた。ホントは石井へのバカげた乙女心が端緒だった。浮わついた理由で教団に入り、絡めとられたひとりだった。
「そうだったんですか…」

 ここで若者は一度考えるそぶりを見せる。
「それは殺人を犯したあなたの覚悟ですか?」
 若者の眼は英子が持つ火薬とニトログリセリンに注がれている。「意味深」な発言に思い迷う英子。ただ、なぜか嘘は止めようと思った。また捕らえられるのならばそれはそれで運命だ。
「はい、そうです、わたしなりの覚悟です」
 英子の眼は若者をしっかり見据えた。
「正直ですね。僕も教団には疑問を感じています。さっき殺人の話しをしましたが、あれを正当化なんか出来ない。なら教祖も自分でやってみればいい。どんな気持ちになるのか。ホントにポアなんて言えるのか…」
 若者の物言いには(反骨の熱量)が感じられた。やはりいち科学に携わる者として、教団の在り方に疑問を感じているのだろう。それに、殺人に手を染めた者同士、どこか通じるものが存在した。
「好きなだけ、もって行きなさい。途中誰かに見つかったら、参謀副部長の許可がある、と言って下さい」
 若者はそう言うと部屋をあとにした。
 
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