第3話 先端科学者の悲哀

文字数 2,698文字

 まさに狂乱のバブル期にあって、紅林正孝は〇大理学部で、金になりそうにもない「アルゴリズム研究」を専門にしていた。何であっても研究と称すれば金がかかる。この当時に必然のこと、こんな研究に最高学府の大学で在っても研究費は廻って来ない。
 正孝は大学院で研究を深めたかったが、どう見渡しても居場所がなかった。それで大学での研究を諦め起業する。研究を続けるには他に方法がなかった。現在ではクラウドファンディングなどで資金を募る方法もある。将来に掛けてみようと出資してくれる人も少なからず居る。
 ただこの時代にはムリな発想だ。既存の実業で儲かる。海のものとも山のものとも分からないものに出資するよりは、株式投資をした方が手っ取り早いのだ。いくら「アルゴリズム」はコンピーターの情報処理には欠かせない論理で、未来のIT(インフォメーション・テクノロジー)事業の根幹を成すと説いても誰も理解しない。
 くだらないことをやっているより、新しいゲーム機やソフトを作れ、と既存の大手家電メーカーには言われた。
「やっぱりダメだな。どうするか? 取り敢えずは食べ物を確保しなくちゃな」
 当初、同士6人ではじめた計画も今では正孝とヤッチンと英子を残すのみとなった。みな食えない夢を追いかけるより、好景気で儲かる職に就く道を選ぶ。致し方ないことだ。3人は昼は研究と支援先探しに明け暮れ、夜は大流行のディスコでカウンターボーイのバイトをしていた。
「おれ、悪いけんど故郷(くに)に帰るわ。父ちゃんの航空機部品製造業がとにかく人出が足りないらしい。そろそろ見切りをつけて稼業を継いでくれってさ。
 今のアパートの家賃も半年滞納してて。もう限界だわ」
 ヤッチンがカップラーメンをせわし気に啜りながら言う。
「そうか。つまんないことに付き合わせちゃったな。ごめんな。
 英子はどうする?」
 英子こと後藤英子は紅一点でひそかに正孝が思いを寄せる女子だった。彼女の専門は応用化学で、元素、原子の行き交う半導体製造には欠かせない分野。将来の夢を共有する同志でもある。ただ彼女の正孝への気持ちは計る由もなかった。
「うん、もう少し付き合うわ。お金出してくれる処見つかりそうなの…」
 英子の言う出資先の検討は正孝にもついていた。いま急速に信者数を伸ばしている新興宗教団体「オウム真理教」だ。ここにはすでに多くの研究者が居た。研究の夢を諦めきれない科学分野の専門家たち。
 入信の見返りは研究費。正孝にも大学の友人を介して打診があった。研究だけで食ってゆける。それはいち研究者にとってはすぐにでも飛びつきたくなる条件。教団の中には科学省と称する研究者のグループがあって、そこでの自由研究が保証される。
「『オウム』だろう? だけど信者にならなきゃならない。仏教系らしいけど、教祖が話していることは『オレは釈迦の生れ代わり、霊能力が揮える』などと、あまりに非科学的な内容だぞ。とてもついて行けない。
 大体教祖の入った風呂の水を数10万円で売ってるそうな。呆れるわ」
 科学の最終地点は「宇宙の紀元」「生死」につながる。決して宗教とは無縁ではない。我欲を捨て清貧に生きよとする仏教は、やがて虚無の世界に行きつく。奇妙なことだがそれは科学の基礎となる。0とは1の序数。0には質量も縦横高の値がない。これは存在しないことを意味する。
 ただ、3×0=0 のようにいつまでも虚無であってはならない。3倍にもなって0に戻されてはたまったものではない。科学は傍らに矛盾を抱えながら進んで来たと言える。
「うん、分かってるわ。でも、石井先輩の話しでは、多くの信者は純粋に無欲の世界を求めて修行しているらしい。今の世の中狂ってる。何でも金、金。みんな勝つことのみを追いかけてる。私はこの社会が嫌い…」
 そうか。正孝は理解した。英子は石井先輩が好きなんだ。理系には珍しく均整の取れた体躯と顔形の持ち主。もう3年も前にオウムに入信し、メキメキ頭角を現していると聞く。科学省の化学(ばけがく)分野では幹部らしい。
 正孝は失恋と孤独感を味わうことになる。やがて後藤英子は正式にオウムに入った。聞くところに拠れば、入団申請書なるものに署名を促されるらしい。昨今では、若い入信者を巡って両親と教団との間で争いが勃発している。法廷闘争まで繰り広げている。  
 入団申請書とはこうした際の予防線なのだ。自らの意思で入ったとすれば教団側有利になる。

 独りきりとなった正孝はディスコのボーイの他に、昼には建設現場の作業員も始める。建設ラッシュでどこの現場も人出が足りない。ひと昔前には日雇い労働者のことを「240ニコヨン」と呼んでいた。これは日給が定額240円だったことに由来する。ところが今や需要に供給が全く追い付かず、日当は20000円にまで跳ね上がった。
 アルゴリズムと、英子と共同でしていた半導体の研究は深夜にするしかない。まさに寝る間もない日々。ただ、好景気で生活だけは何とか出来ていた。

※半導体、集積回路 バブル期当時は弁当箱から名刺大の大きさにすることを世界で競っていました。現在では1cm角、中に組み込まれるトランジスタの加工寸法は2ナノ(ナノは髪の毛の1000分の1)です。

 と、ある時、ディスコで見知らぬデイトレーダーから資金を提供してもよいと声が掛かった。まだ30代ながら資産は数百億らしい。数台の高級外車と海ではクルーザーも持っていた。オウムの後藤英子から話しを聞いたと云う。この人物はオウムの資産運用も一部任されていた。
 当然、専門知識を持つ教団の科学省は頼りになる。次世代の技術に明るい。未知の儲かる投資先を見つけるには持って来いのはず。
 正孝は素直に嬉しかった。翌年から年間1億の投資で話しがまとまった。見返りは年商の3%の10年払い。それと筆頭株主の座。
 正孝はこの時の天にも昇る気持ちを覚えていた。すぐに礼を陳べようと公衆電話から後藤英子に電話するものの、教団は取り次いでくれない。仕方ないので連絡を欲しいと伝えた。二週間後にその返信手紙が届いた。
「お礼はいいわ。とにかくあなたの研究を全うして欲しい。私はいま研究よりももっと大切な社会の在り方の変革に気付かされた。今の社会の在り方はおかしい。根本的に誰かが正さなくちゃならない」
 こんなような物騒な内容だった。その年の瀬に、なにやら胸騒ぎがして仕方なかった。ディスコでは恒例の新年カウントダウンイベントが始まる。狂乱のドツボ。だがしかし、物事には始まりが在れば、必ず、終わりがあるものだ。

 その終焉が間直に迫っていた。
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