第4話

文字数 2,167文字

 〈それは、繊維とインクだ。〉
 
 身だしなみは、周りの人たちのためにする。誰かと並んで歩くためにする。
 私は美容室の椅子に案内され、「担当の者が来るまでしばらくお待ちください」と言われる。サイドテーブルの上に用意されている数冊の雑誌を手に取って一通り見出しを眺めてから、自分が持ってきた文庫本を読み始める。五ページほど読んだところで「大変お待たせいたしました」と言う声に顔を上げ、いつも私を担当してくれる美容師と鏡越しに挨拶を交わす。彼に「なにを読まれているのですか」と問われたので、ヘルマン・ヘッセの小説だと答える。
 「ああ、ヘッセ。学生の頃に『車輪の下』を読みました。」
 美容師は言う。
 同じように私も中学校の頃に『車輪の下』を読んだが、それ以来ヘッセの小説は読んでいなかった。ある作家に対する第一印象というものを完全に無視することはできないが、結局のところは、たとえ長い時間を要したとしても二冊目以降を繙く日が訪れさえすれば、それは大した問題ではない。
 私は小気味よいはさみの音に耳を傾けながら、本のことを少し話す。美容師は澱みなくはさみを動かしながら、質問を私に投げかけ、その答えに対して興味深そうに耳を傾け、また次の質問を投げかける。
 「音楽ですとか、スポーツですとか、本ですとか、色々ある中で、なにがいちばん好きですか。」
 本だな。
 美容師の問いかけに、私はそう答える。
 会話の合間に、黙ってはさみの動きを眺めたり、目を閉じてはさみの音を聞いたりする。職人の仕事に触れる時間はとても心地好い。思えば小さな頃から、飴細工をしている菓子職人や、ヒバの剪定をする植木屋の仕事を見るのは楽しかった。私は無駄のない洗練された動作と律動に、可能性と美しさを見ているのだろう。
 「ありがとうございました。」
 美容師に見送られて、私は歩きだす。一度家に帰ってもよかったが、すっきりと髪を整えたことで軽やかになったその足で電車に乗りこみ、扉の近くに立って外を眺めながら移動する。窓に映った自分を見て、飛び散った髪を頬や額に見つけて指で掃う。
 四十分ほど電車に乗り、まだ一度も降りたことのない駅で降りる。改札を出てからまっすぐに二十歩ほど進んで立ち止まり、ぐるりと景色を見渡し、はじめてここに立った瞬間にしか体験することができない、右も左もわからないという状況を味わう。どうしたって、一度知ってしまったあとには、もう知らなかった頃には戻れない。
 私は徐々にその街の姿を理解していく。友達との待ち合わせの時間はまだまだ先なので、まずは人も店も最も多い道を選んで、そこをぶらぶらと歩く。広くはないその道に沿って、個性ある小さな店が並んでいる。私は気になった店を覗きながら道を行き、徐々に商店がまばらになってきた辺りまで来たところで、そろそろ駅の方へと引き返して別の道も散策してみようと考える。
 しかしその矢先、外壁に「café noblesse oblige」という箱文字が取り付けられている建物が目に入る。記憶に新しいそのノブレス・オブリージュという言葉を見て、私は足を止める。そのカフェは駅からここに来るまでに見てきた店に比べると大きな店構えをしていて、白い壁と幾何学的に配置された木材による外観からは洗練された印象を受ける。時間を持て余している私はその店に入る。
 店の中央には十五人ほどが着席できる大きさの円卓が置かれており、その周りに幾つかの二人掛けや四人掛けのテーブル席がある。店内はすっきりとしていて明るく、居心地の好さを疑う余地はない。
 私はルワンダ産のコーヒーとミルフィーユを注文する。ほどなく運ばれてきたミルフィーユは上からパイ生地、クリーム、パイ生地、クリーム、パイ生地という五つの層を成している。私はケーキを横に倒してから、五つの層の比率を崩さない様にして口に入る大きさに切り取る。口に運んだ瞬間、私は驚く。よく焼いた生地の食感も、軽く仕上げたクリームの口当たりも、それらの比率も非の打ち所がない。そして、丁寧に抽出されたコーヒーからは、豊かな香りが立ち上っている。
 食べ終わったケーキの皿を下げに来た女の子が、「お口に合いましたか」と問いかけてきたので、私は驚くほどおいしかったと言う。女の子は嬉しそうに「ありがとうございます」と言う。話すきっかけを得られたので、私は店の名の由来を尋ねてみる。
 「オーナーがお金持ちなんです。」
 女の子はそう言って笑う。もう少し詳しく聞くと、実際のところこの店のオーナーはお金持ちで、生産者と志ある従業員、地元の住民とすべての客の幸いのためにこの店を開いたという。女の子の話を聞いた私は、概ねしっくりいく店名であると考える。
 「もちろん、オーナー自身のためのお店でもあるんです。オーナーは無類のコーヒー好き、ケーキ好きで、味には妥協がないです。次いらしたときには、他のケーキも召し上がってみてくださいね。」
 私は、おいしいものと面白い話をありがとうと礼を言う。
 カフェを出てさっきとは別の道を選び、ようやく近づいてきた待ち合わせ時間に合わせて散策する。
 見知った人の姿がある駅前に着く。「前髪、短めも似合いますね」と彼女は言う。
 
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