第5話

文字数 2,235文字

 私たちは駅から五分ほど歩き、彼女が選んだ南国の避暑地といった雰囲気のサンドイッチ店へ入る。席に着き、彼女はサーモンのサンドイッチ、私はローストポークのサンドイッチを注文する。彼女は大きな白い鞄から、一冊の本を取り出して「お借りしてた本、ありがとうございました」と言って差し出す。
 「私には少し難しいところもあったんですけど、とても面白かったです。うちの娘はこのカバーイラストが気に入った様で、真似してお絵かきしてました。」
 彼女は微笑む。本を受け取りながら、それは好かったと私は言う。私がその意味を理解できずにいる四一三ページについてはどう思ったか聞いてみようかとも思ったが、やはり聞かないことに決める。
 私の本棚にある本を誰かに貸すときには、少し、自分の中を覗かれる様な落ち着かない気持ちがする。しかし実際のところは、同じ本の同じ文字を辿ったとしても、彼女と私は同じ本に全く同じ物語を見ることはなく、私という人間の秘密などは漏れないのだろう。私には私の、彼女には彼女の物語がある。
 運ばれてきた二つの皿を見て、「一切れ交換しましょうよ」と彼女が言うので、私はサーモンのサンドイッチを受け取り、ローストポークのサンドイッチを渡す。使われているパンはしっかりしているけれどナイフや歯で力を加えると簡単に切れてとても食べやすく、具材もソースも申しぶんない。
 私たちは、現在入院している共通の友達への見舞いの品について話し合う。彼女はメモ帳とボールペンを取り出して、首を傾げながら、ときにおかしそうに笑いながら、両者から出た案を一つ一つ書いていく。爪やすり、オーガニックシャンプー、靴下、カーディガン。紙の上には、彼女の柔らかな物腰とは少し印象のちがう力強い文字が並ぶ。私がヒルアロン酸の入った化粧品と言うと、彼女は「ヒアルロン酸」と正す。そして笑う。私は頭の中で、ヒアルロン酸と復唱する。
 話はまとまり、私たちは店を出る。駅に向かう途中で菓子店を見つけ、彼女は娘への土産にとプリンを買う。
 帰宅した私は、彼女から返ってきた本を開く。途中、一枚の紙片がはらりと落ちたので床から拾い上げてみると、この本の章立てや登場する人物の名、引用、意味調べをした言葉などが、先ほど見た彼女の筆跡で書き留められている。ところどころに、疑問符が付されていたり、複数の項目が線でつながれていたりする。私は、彼女が本と向き合った痕跡を眺め、それをまた本に挟み、本棚の「P」の場所に収める。
 
 前日に話し合って決めた見舞いの品を探しに私は一人で百貨店を訪れ、エスカレーターで上へ上へと昇っていく。彼女の休日は四歳になった娘との予定が詰まっているため、買い出しは私が引き受けた。彼女は申し訳なさそうにしていたが、私の場合は概ね、買い物というものは一人で行く方が結果が好い。
 私は真っ先に向かった五階と六階の売り場をゆっくりと歩き回り、目的に適う幾つかの商品に目星をつけ、それらを手に取って吟味してから、考えをまとめるために百貨店の四階にある喫茶室に入って腰を下ろす。「先輩のお眼鏡に適う品物ならまちがいないはずです」と彼女に言われた手前、私はその選択に少なからず慎重になる。ケニア産のコーヒーとレモンパイを注文し、じっくり検討する。
 やがて、名窯のカップに注がれたコーヒーが運ばれてくる。機能性と高い芸術性が調和するその器は、とても美しい。私はその直線や曲線、質感、繊細な絵柄や文様を味わう。
 色を眺め、香りを吸いこみ、すっと目立たない音を立てて空気と一緒にコーヒーをすする。みかんくらいの酸味、煎った大豆の様な味、フサスグリの様な果実の味、少しびりっとする様な渋み。私が持つ記憶と結びつけながら、感じとった味や香りを言葉に換える。
 昔はコーヒーの味などは、おいしいか苦いか酸っぱいかという程度にしか区別していなかった。しかし数年前にある店で飲んだ一杯のコーヒーが、その見方を変えた。私はその日、お店の人が言うカシス、チョコレート、はちみつなどの風味をコーヒーの中に見つけ出し、その瑞々しさからは、コーヒーが果実であることを思い知らされた。
 その日の味は、私の一つの規準となっている。それと比較しながら、他のコーヒーの味や香りを知る。私の記憶は蓄積していく。
 舌の上でコーヒーを味わいながら、品物の選定に頭をはたらかせ、贈る者と贈られる者の思いが合致する座標を探る。思いは多すぎず少なすぎずが好い。
 目的の買い物を済ませ、私は百貨店の中をぶらぶらと歩く。家具の売り場の片隅に、大きなペルシャ絨毯が積み重ねられており、そのすぐ横で民族衣装をまとった一人の女性が絨毯を織っている。私は立ち止まって、その手元を見る。
 女性は手を動かしながら「イチニチ 三ミリ デス」と言う。
 
 ……私は和室にいる。そこには空中を泳ぐサメがいる。体は私より小さいが、近づいてくるとそれなりに恐怖感を覚える。サメは私を追ってくるわけでも襲おうとするわけでもなく、まるで私の存在などは気にかけずに水のない空間をあてもなく泳ぎ回る。私はこの部屋にサメを閉じこめようと考え、二十畳ほどある和室の襖を一つずつ閉めていく。私は最後に残った襖からその部屋の外に出て、そっと閉める。ときおり、サメが襖にぶつかる鈍い音が聞こえる。どん。どん。どん。……
 
 目覚めた私は、そんな夢を書き留める。
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