第6話

文字数 3,050文字

 〈それは記号の集まりだ。〉
 
 一つの雨粒が立てる音は微かなものだろう。ある瞬間、いったい幾つの雨粒が地面に落ち、屋根に当たり、誰かの傘の上で弾んでいるのかはわからないが、それらは一体としての音となり、私はその雨音というものに取り囲まれる。私はその中でピアノを弾く。
 楽譜に書き込まれたある一つの音を出すときには、その音以外はすべて誤った音となる。大学生だった頃、ピアノの練習をしている途中に突然そのことを考え始め、見渡す限りの海に囲まれた座布団くらいの大きさの島に取り残された様な気分を味わった。その孤島は今日もここにあるが、不思議と、雨音が聞こえる世界ではその孤独感が和らぐ。
 なぜピアノを弾くことが好きなのかと問われると、うまく説明できない。心地好い様な、なにか体が内側から温まっていく様な、その言葉にできない感覚を理由として認めてもらえないだろうかと、いつも思う。
 
 前日の雨は上がり、日が昇る。葉先で光る水や黒い水たまりはたちどころに消えていく。
 私たちの友達は、海のそばにある病院に入院している。東の方角へと向かう電車に一時間と少し乗り、その病院のある駅で降りる。先週の日曜日に買っておいた見舞いの品を手に、私たちは病院へ向かう。
 「その中身、とても見たいです。」
 私が持っている百貨店の紙袋を指さして、彼女は笑う。
 まだ海が見えない内から、その存在を予感させる風と日差しが肌に触れる。駅から三分ほど歩くと俄かに景色が開けて、そこから斜面を下った先に、岩場に囲まれて孤立している小さな砂浜と大きく広がる海が見えてくる。そこは夏場に最も混雑する浜からは相当に離れているせいか、海水浴日和の日曜であってもそこまでの人出がある様には見えない。小さな海の家が一軒見え、その周りには円いテーブルと椅子が幾つか置いてあり、テーブルの中央には緑色のパラソルが差しこまれている。
 私たちは海から遠ざかる様に少し斜面を上り、決して新しくはないがきれいに維持管理されている白い大きな建物の前に辿り着く。少し錆びた看板に書かれた病院の名を声に出して読み、鈍い作動音を立てる自動ドアを通って建物へ入る。日曜日で外来患者がいないロビーは静かで少し暗い。私たちはしばらく入口の近くで立ち止まり、目が慣れるのを待ち、額の汗を拭い、冷やされた空気に体をなじませる。それから受付を済ませて面会者のバッジを胸のあたりに留め、病室へと向かう。
 建物の海側にある病室の一つに入ると、友達は寝台の上で笑顔を浮かべ、窓の方へ行く様にと指で指図する。私たちは小さな窓を覗きこみ、海から続く急な上り坂に建物の階数分を加えた高さから、光を反射しながら黒々とうごめく海を見下ろす。
 「夏ね」と友達が言う。
 友達は二週間ほど前に、急に体を壊して入院した。調子はどうかと尋ねると、「来月の初め頃には退院できそう」と言う。「水着は持ってきた?」と尋ねられ、私はビーチサンダルだけは持ってきたと答える。「せっかくここまで来たんだから、泳げばいいのに」と言いながら、友達は寝台から抜けだして窓の外を見る。私は寝ぐせのついた黒い髪と、白い首筋を見る。
 私は手提げ袋の中から包みを取り出し、友達の白い手に見舞いの品を渡す。包みを解いた友達は「いやにセンスがいい」と言って面白そうに笑い、礼を言う。彼女も「さすが先輩」と笑う。悪い気はしない。
 私たちは、いつもの様に他愛もない話をして、八月中に三人でどこかの花火大会を見に行こうと約束する。「多少わざとらしくても、いかにも夏らしいってことをしたいのよ」と友達は笑う。
 外へ出て、何匹かの蝉の声が重なる道に立って病院の建物を見上げる。窓の中は全く見えないが、階数と端から何番目の部屋かということを頼りに友達の部屋とおぼしき方を向いて手を振ると、規則的に並ぶ窓の一つが少しだけ開き、隙間からみかん色のタオルが出てきてゆらゆらと揺れる。
 私と彼女はのらりくらりと坂を下り、海の方へと歩く。砂浜に入る手前でブロック塀に腰かけてビーチサンダルに履きかえ、私はズボンの裾を二度三度折り返す。
 熱い砂を踏みながら波打ち際まで行く。私は、白く砕ける波、波間に点々と見える人の頭、海鳥の影、そして遠くにある海と空の境目を眺める。しばらくそこにいると、常にそこにあるがゆえに存在を忘れられてしまう多くのものの様に、波の音はしだいに聞こえなくなる。
 私たちは海の家へ行き、食べ物と冷たい飲み物を買い、真上にさしかかってきた日差しから逃げる様に、パラソルが作る小さな影の中に潜りこむ。
 「順調に回復している様で、なによりですね」と彼女は言う。私は同意する。
 隣のテーブルには、父と子と思われる二人連れが座っている。小学校低学年くらいに見える水着姿の男の子は、グラスの縁にパイナップルが引っかけてある南国らしい色合いの飲み物をすする。
 「海は青くないね。空は青いのに」と子供は言う。父親は、じゃあ何色に見えるかと子供に問う。
 「黒かな。でも真っ黒じゃない。ねずみ色。でも、タオルには色がついてない。」
 そう言って子供は、肩にかけた白いタオルをじっくり調べる。さっき貝を探していたとき、バケツに入れた海の水はどうだったかと父は問う。
 「ふつうのお水と同じ。色がない、色。」
 透明だったなと父は言う。子供は「とうめい」と言い、うなずく。
 彼女は真剣な顔で私に向かって、何色ですかと問う。濃紺に見えるかなと私は答える。
 「海の色は何色かっていうのは、パパもよくわからないんだ。今日はおまえの言う通り、濃いねずみ色に見える。でも、青いねっていう人もいっぱいいる。パパが前にここへ来たときは、もう少しちがう色に見えたかもしれない。」
 子供は海を見る。
 「海は青くないって、家に帰ったら絵日記に書いておくといい。そうだ、ママにも聞いてごらん。」
 何色のクレヨンを使うのか。母親はなんと答えるのだろうか。私は想像する。
 青い光の反射を見た者たちが、海は青いという。そして皆が歌う様に、海は青い、青いは海といい、海を見たことがない者も、海は青いという。しかし、私の目の前の海は青くはない。
 海の色を決める要因は複雑だということは、かつて、最寄りの図書館で見つけた本に書いてあった。海水に含まれるプランクトンや不純物、海底の状況などによっても色は変わり、なぜその海がその色なのかという説明はとても難しいという様なことが、その本に書いてあった様に思う。
 「緑がかった黒にも見えます」と彼女は言う。私とは少しちがう色だ。そして青ではない色だ。
 彼女はサンダルを脱いで、熱い砂の上に足を下ろす。
 「私は海の近くで生まれたんです。小さい頃に見ていた海は、ずっと同じ色をしていたわけではないけれど、だいたいは明るい青緑色でした。毎日きれいで、きれいだということを忘れてしまうくらいです。」
 十年以上前からの友達である彼女の出身地は前々から知っていたが、その生まれ育った場所についての話を聞いたのははじめての様に思う。
 「うちの娘には、海の色は何色に見えているのでしょう。」
 彼女は呟く。
 隣のテーブルの子供が、海に向かって駆け出す。
 私は海に背を向け、少し遠くにある、白い壁や黒い窓などそのほとんどが大小の四角形でできている病院の建物に目を遣る。みかん色のタオルはない。
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