第8話

文字数 2,098文字

 〈それには意味がある。〉
 
 真夜中に目覚める。暗い天井で、赤い光が明滅している。外から、なにか声が聞こえる。声はゆっくりと移動している。車に積んだ拡声器から流しているのだろう。少し窓を開けて、耳をそばだてる。
 「…ですので、窓や扉を閉めて、絶対に開けないでください。指示があるまで、絶対に家から出ないでください。なお、目撃情報は…」
 そう言われたので私は窓を閉め、忠告を与えながらゆっくりと走る警察の車輛を見る。
 枕元に置いておいた手拭いで汗を拭き、部屋の灯りを点けておぼつかない足取りで台所へ行き、冷たい水を一杯飲み、窓際に立っての外の様子を眺める。周りの家々も、夜中にも係わらず灯りを点けており、私と同じ様に窓際に立つ人の影も少なからず見える。また赤い光が近づき、声が聞こえてくる。
 「…市営動物園の虎が行方不明との通報があり、現在捜索中です…」
 いつ起きたことなのだろうか。一頭なのだろうか。複数なのだろうか。本当に起きていることなのだろうか。私は、目覚めていない頭で考える。
 私は、その市営の動物園で、虎と女の子とその家族の写真を撮った日のことを考える。女の子に虎はひとところにいて退屈しないかと問われたことを思い返しながら、私は棚からデジタルカメラを持ってきて起動し、あの日撮った写真を見る。厚いガラスの向こうにいる虎の毛並みは美しく、その筋肉はしなやかで、私の存在など意に介さない様子で地面に伏せている。
 虎の展示全体が収まる様に少し離れた位置から撮った一枚の中に、左手にちりとりを持ち、右手にほうきを持った飼育員の男の子が写っている。私は、あの日清掃作業をしていた鋭い眼差しをしたその男の子のことを思い出す。この写真には下を向く彼の横顔が小さく写っているだけでその印象的な目は帽子が作る影に隠れているが、ここに写るその立ち姿にはファッションモデルや俳優の様な雰囲気があり、絵になっている。今の状況がよくわからず気持ちの置きどころがない私は、抜き差しならない現実を放置して、あの男の子が手引きをして虎を逃がしたという空想を膨らませ、その物語の結末を考える。
 いよいよ追い詰められて警察やハンターに包囲されたその中心で、男の子は虎に覆いかぶさる様にして、銃や麻酔の吹き矢から虎を守ろうとする。そして男の子は声高に、自由を奪われて暮らす虎に対する思い、もしくは彼自身が抱く息苦しい社会に対する主張を繰りひろげる。これが映画であるならば、男の子が投降する素振りを見せた瞬間、無音になったスクリーンの中で、彼か虎のどちらかが撃たれてしまうのだろう。そういうものだ。
 あるいはその虎は、なにかの事情で虎の姿に変えられてしまった人間だったという場合もあるだろう。男の子の深い愛情によって虎は本当の姿を取りもどし、二人は喜びの涙を流すかもしれない。しかし結局、最後はどちらかが撃たれてしまう。そういうものだ。
 私は男の子も虎も生き続けて、なおかつ幸せになって欲しいと思うが、物語の結末というものは、いつも私に優しいわけではない。
 しばらくは外を見ていたが、状況の変化はない。巡回するパトカーは、同じ言葉を繰り返す。家の外へ出る自由は失われたが、外で起きる危険や災難は、壁や扉で守られたこの家の中へは入ってこられないはずだ。私は電気を消して、展示室の虎の様に堂々と眠ることにする。
 
 ……祖父の家。古くて広い日本家屋。真夏の昼間、家中の窓は開け放たれている。幼少の私は走って移動しながら、一つ一つ窓を閉め、一つ一つ捻締り錠で施錠していく。木製の窓枠はぎこちなくレールの上を走る。最後に応接間の窓を閉める。私は汗を拭いながら、来客用の大きなソファに沈みこみ、自分の鼓動を感じる。顔を上げると、正面にある窓の外に虎の顔がある。虎は少しこちらを見るものの無関心な様子で歩み去る。……
 
 目覚める。波打つ様に、光の網が部屋の隅々にまで行きわたる。カーテンを開けて、周囲の家々の開け放たれた窓や、道を歩く人々を見る。それらの風景が示しているものが日常であるならば、虎は見つかったということだろうか。
 朝食をとり、部屋の掃除をしてから、私は近くに住む友達に電話をかけ、一頭の虎が檻から逃げたが、数時間後に園内で発見されたという顛末を聞く。しかし、二件、園外で虎らしきものを見たという証言があったことから、騒動が大きくなったのだという。私は礼を言って電話を切る。
 園外での虎らしきものの目撃情報は事実ではなかったということになるが、きっとそれは、茂みで動く猫や狸か、工事現場の虎縞のバリケードか、車庫に転がっている黄色いサッカーボールかなにかを見て、虎と思いこんでしまったのだろう。あるいは、虎を見たという嘘を吐いた者がいたのかもしれない。虎が存在するという可能性のある中で発せられる即座に肯定も否定もできないその様な言葉は、ときに、虎がそこには存在しないという現実を追い越す。
 そうなれば、虎はいなくとも、虎に噛まれたといって腕から血を流す人だって現れるのだろう。
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