第10話

文字数 2,267文字

 〈それは相関なのでしょうか。〉
 
 目が覚める。仕事が立て込んでとても慌ただしかった三日間が終わり、ずっと続いていた緊張が解けた昨夜は、深くて暗い穴に引きずりこまれる様に眠りに落ちたことを思い出す。東向きの窓にもう朝の光は残っておらず、時計を見て、既に午前十時を過ぎていることを確かめる。仰向けのまま天井を見ると、少しまぶしい様な、ちかちかする様な感じがする。しばらく目を閉じて再び開けてみるが、その感じは変わらない。私はため息をつき、ゆっくりと起き上がる。冷蔵庫に向かって歩き、ありがとうという紙片に一瞬目を遣ってから扉を開けて紙パックに入った飲み物を一つ取り、無造作にストローを挿して飲む。洗面所へ行き、歯を磨き、顔を洗う。私は寝台へ横になる。
 前兆が現れたとき、そこから逃れられたことは一度もない。今日も、抗うことは諦めてじっと待つうちに前兆は過ぎ去り、片頭痛が始まる。
 私は脈打つ様に痛む左側のこめかみに手を当て、目を閉じ、カーテンを閉ざしたままの部屋で静かに横たわる。私にとっての救いは、この痛みには終わりがあるということだ。
 高校生のときに、友達の家で試験勉強をしていた日のことを思い出す。そのときに見ていたのは日本史の副教材で、見開きの中にはたくさんの地図や図版、年表などが載っていた様に思う。史料を見ていた私はふと、年表の文字が左右反転していることに気づいた。何度も瞬きをしてみるが、周りの景色はそのままで、文字だけが向きを変えている。私は友達に向かって、文字が逆さに見えるよと言った。
 「鏡文字?」
 友達はそう言って、いまひとつどういう状況かわからないなりに、とても心配してくれた。文字が読みづらくて勉強に集中できなくなってしまったので、私は荷物をまとめて家へ帰った。
 私は少し胃の辺りがむかむかする様な気がして、母が敷いてくれた布団に横たわった。まもなく、頭の左側だけに、起き上がることができないほどの強い痛みがやってきた。症状を聞いた母は心配し、慌てて主治医に電話をかけに行った。戻ってきた母は「それは、片頭痛っていうんですって」と私に伝えた。
 その日から幾度も片頭痛を起こしてきたが、その前兆として起こる視覚の異常は、何遍体験しても不思議で仕方ない。文字が左右反転するほか、景色が変に白く光ったり少し欠けたり、視界に黒いギザギザとした縁取りが現れたりする。
 映画やアニメの中に大きな時計台が登場し、それを動かす幾つもの大きな歯車が描かれることがある。私はそういう場面を見ると、痛みを予告する不吉な黒いギザギザを思い出す。写真に撮れない、手では触れられない、限られた人間にしか見られないその映像はとても興味深いが、それを鑑賞するためには、相応の痛みを代価としなければならない。
 目覚めたときには痛みが消えていることに望みをかけ、私は考えることをやめ、眠りに落ちていく感覚に身を任せる。
 一瞬目が覚め、はじめて片頭痛を起こしたのは、先ほど思い返したあの日ではないのかもしれないと、唐突に思い出す。あれよりも数年前、中学生の頃に課外授業で宿泊施設に泊まった日、たしか私はその日の朝、突然の頭痛で起き上がれずに午前中の授業を休んだ。そのときは、市販の頭痛薬を持ってきてくれた先生も私の顔をのぞきこむ友達も、その痛みを片頭痛という名で呼ばなかった。私もその名を知らなかった。
 再び目覚め、痛みを探す。濃い霧の向こうから微かに聞こえる足音くらいの痛みは残っているが、もうそれは痛みと呼ぶほどのものではない。私は、ゆっくりと動きだす。
 外は明るいが、時刻は夕方に近い。私は家にあるもので、軽く食事を用意する。いつもならテレビを点けるところだが、頭痛の日はテレビの音や光は少しうるさく感じるのでそれはやめて、ゆっくりと食べながら、およそ一週間前から冷蔵庫に貼りつけてある紙片を見る。
 その紙片に書かれた「ありがとう」に続く言葉が届いたり、なにかこのことに関連するできごとが起きたりということは一切なかった。紙片は私には関係のない落とし物かごみで、落ちていた場所がたまたま私の家の前だったのだろう。
 しかし、この紙片を拾ってから、私はありがとうという言葉に多少敏感になった。およそ一週間の中で、私は幾度となくありがとうという言葉を聞き、また自分からも発していた。礼には及ばない様な些細なことや、延いては謝意を含まないことにまでこの言葉が使われていたが、いずれにしてもすべてのありがとうにはその言葉の周囲にある会話や行動から読み取れるなにかしらの意味が存在した。
 私とこの紙片の間には、それがない。そうである以上、私にとってのこの紙片は、ただの紙きれに等しい。
 私は立ち上がり、冷蔵庫からそれを外してびりびりと裂き、ごみ箱に捨てる。

 ぼんやりと座っていたり本を読んだりして普段よりは少し遅い時間まで起きていたが、照明を消して布団にもぐると、昼間の内にあれだけ眠っていたのにも係わらず眠気はやって来る。
 
 ……小高い丘といっても差し支えないくらいに大きな、紫色の岩がある。私はその前に立つ。そして、左手でその岩に触れる。表面は滑らかで、少し冷たい。
 なにもかもはわたしの中にある。すべての記憶は、既にわたしの中にある。大きな岩をつるはしで削りとっていく様にして記憶はわたしの外へ流れ出し、わたしは目減りしていく。
 私の隣に立っている誰かが、岩に触れながらその様なことを言う。……
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