第1話

文字数 1,375文字

 〈それは言葉だ。〉

 私は堤防の上にある歩道を歩きながら、右手を黒く流れる川に目を遣り、中州にいるシラサギの細い脚に目を遣る。視線をゆっくりと動かし、舗装された道を横切り、左手に建ち並ぶ茶色や白色に塗られた小さな家々を眺める。それらすべての奥、あるいは上には、その色は青いといわれている空があり、そこには直視できないほどのまぶしい太陽も、なにもかもがなにかの形に似ている白い雲もある。私は買いこんできた食料品の袋を右手から左手に持ちかえ、ポケットからハンカチを取り出して首筋を伝う汗を拭い、大きく息を吸い、そして吸った以上の大きさで吐く。
 犬どうしはすれちがいざまに吠え、子供たちは河川敷ではしゃぐが、どんな音もここに留まらずに跡形もなく消え、結局この場所には静かな土曜日の午後というものだけが残る。
  幼かった頃から数えきれないほど歩いてきた道であっても、すべての景色をつぶさに記憶しているわけではない。しかし、このままあと十数歩進めば左手の家並みの中に、鮮やかなエメラルドグリーンのペンキを塗った外壁と、それより深くて濃い緑色の屋根でできた一軒の家が見えてくるということは覚えている。その緑の家に誰が住んでいるのか、あるいは誰も住んでいないのかは知らないし、今までにこの道を外れて近くまで様子を見に行ったこともない。私とその家の接点は、周りと調和しないその色だけだった。
 どういったわけか私はその緑の家を見ると、決まって十代の頃に通っていた中学校の音楽室のことを思い出す。本校舎から少し離れた場所にあった小屋の様な音楽室は、緑色をしていたわけではなかった。だから、どうして緑の家とその記憶とが結びつくのかはよくわからない。
 その音楽室からは合唱の声が漏れ、ピアノの伴奏が漏れ、ギター部のアンサンブルがこぼれ、ときに吹奏楽部の勇壮なエルガーが溢れだしていた。部屋の中の壁には規則的に並ぶ小さな穴が開いており、その穴に入った音は防音のために埋め込まれた建材などに行く手を阻まれたのだろうが、残りの音は開いている窓から、薄い扉から、難なく外へと逃げていった。
  緑の家を過ぎれば、景色はどの家の区別もない一体としての家並みに戻る。それは知らない景色ではないが、なにを知っているかと問われても答えられない景色で、よくある様に、この中の一軒がある日取り壊されたとしても、私はそこにどの様な家が建っていたかを思い出せないのだろう。
 私はいつもこの道を通って街へ行き、図書館へ行き、友達と会い、食料品を買い、書店を回り、必要があるときには洗剤や衣服を買い足し、この道を通って家へ帰る。
 川の対岸には別の小さな街が見えるが、この近くには橋がないので、私はそこに行ったことがない。どうしてもその街へ行きたいならば三キロ上流の橋まで行き、あるいは四キロ下流の橋まで行き、それを渡ればいいことはわかっている。
 しかし近い様で遠いその街は、私が本当にそこに行かないことで、謎めいた美しさを保ち続けている。夜祭の提灯や狐のお面、見たことのない様な物を売っている古道具屋、木でできたぼろぼろの掲示板。今も昔も、夜になるとぼんやりと光る川の向こうを眺めては、そんな街並みを想像している。
 川面の黒い水と白い光は、絶えず変化する。いつもの様に、私は歩く。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み