第15話

文字数 3,013文字

 〈それは誰のために。〉
 
 朝晩の涼しさを心地好く感じ始めると、私の体のどこかに溜まっていた夏の疲れが顔を出す。昼間は火照ったり冷えたりする重い体を動かし、夜は地の底に引きずりこまれる様に眠りに落ちる。
 先週火災があった図書館は建物の損壊が激しく、再開の目途は立たないという。出火の原因は調査中だが、今の段階では電気系統になにかしらの問題が起きたと考えられるという。
 その図書館から借りた本は、市内の別の図書館に返す様にという市からのお知らせがあったので、私は市内に十七ある図書館のうち一つに行先を決めて、バスに乗って出かける。
 はじめて行くその図書館は、役場や運動施設や公会堂などと一緒に、近代的なデザインを施された大きな建物の中に入っている。空港のロビーを思わせる様な広くて明るい一階からエスカレーターで一つ昇ると図書館があり、入口から中へ入ると、そこは灰色や茶色を基調とした落ち着いた雰囲気に変わる。高い天井や広い通路やゆったりと空間を確保してある閲覧席などを柔らかな光が照らし、空調は静かに稼働し、卒なく適温を保っている。
 私は足音が立たない柔らかな床の上を進み、カウンターを探す。
 事情を伝えて借りていた本を差し出すと、係の女の子はそれをじっと見つめる。
 「一冊、救ってくださったということになりますね。」
 女の子は端末を操作して返却の手続きをしながら、「あちらの図書館は、ご自宅ですとかお勤め先の近くだったのですか?」と問いかけてくる。
 私は、家から歩いて行ける距離にあるのだと答える。そして、火災で蔵書はどうなったのかと尋ねてみる。
 「火か、消火の水か雨で、かなりの数が…と聞いてます。」
 女の子は表情を曇らせ、私が返した本を見る。
 「古い貴重な資料も多かったので、とても残念です。特に文学関係は、他の館より充実していたでしょう?」
 私は同意する。そう、私が読みたいと思う本は、あの図書館にあった。もう流通していない本や、個人で揃えるのは困難な全集。
 「今日はご足労頂き、ありがとうございました。」
 手続きを終えた女の子は、そう言ってにこりと笑う。
 私は図書館の中を歩く。快適でとても静かで、古いものの匂いも、床の軋む音も、蛍光灯の唸りもない。文学の棚はきれいに整っているが、今まで通っていた図書館に比べると規模は小さい。
 ここにはほとんど窓がなく、今、私の全身は人が創った光に囲まれている。ふと、私の肌は太陽が放つ熱を思い出し、子供の頃に窓際の閲覧席で浴びていた白く光って文字が見えなくなるほどの強い光を思い出す。
 突然に私は、私に広くて豊かな世界を与えてくれたあの古い図書館が失われることを恐れる気持ちに押しつぶされそうになる。俄かに、あの図書館は存在し続けてこれからもたくさんの人になにかを与え続けて欲しいという願いが頭を擡げる。
 もしあの古い図書館が再開されるために必要ならば、私が所有する本を寄贈することもできるのではないかと考える。本は多くの人に読まれ、次の時代に読み継がれていかなければならない。そのための場として、世界を豊かにする一つの小さな拠点として、あの図書館は失われてはならない。
 私は、本を所有し、私の本棚が充実していくことに心を満たされる。それは、私と私の本の、ひとつの幸せのかたちだ。しかし、それは、最も大切なことではない。
 私が読んだ本が自分の本棚から消えたとしても、地上に存在しなくなったとしても、私と本のあいだにできたつながりが消えることはない。書き手が命を懸けて書き、私が読んだ一冊の本は、私の記憶として、思考として、言葉として、行動として、既に私の一部となっている。物語は、無数の糸を織る様にして私の中で完成し、私と共にあり続ける。
 私は足早に図書館を出て、その大きな建物の中をでたらめに歩き回る。目的なく長い廊下や階段を歩き、行き止まりまで行くと、そこで踵を返してまた歩き続ける。
 どこかの暗い廊下を抜けると、急に白くてまぶしい光にぶつかり、私は目を細めて足を止める。目の前には大きな窓があり、その向こうには太陽の光がある。窓際まで行き外を眺めると、よく晴れた空に秋の雲が浮かび、その下には街があり、樹々があり、車や人が動いている。ふと窓の近くを、なにかの鳥が横切る。
 それから私はゆっくりと階段を降り、三階にある運動施設の様子をガラス越しに少し見る。複数あるスタジオでは、空手の稽古やクラシックバレエのレッスンが行われているようだ。一階の片隅では市の郷土史の展示が行われていたので、そこも見学する。諸説あるという、この市の名前の由来を読む。元々あった名前を台帳に書くときに誰かが書き損じたとか、ある日この地を通った偉人が発した言葉に因んだものだという説は悪くはないが、実際のところは、自然発生的に、大した理由もなくつけられた名前なのではないかなどと、私は想像する。
 地下にある大きな公会堂で行われる催しの予定表を見てみると興味深い公演が幾つかあるが、そうは思っても、私は行かないのだろう。興味を持つこと、興味があるということを口に出すこと、行動を起こすこと、それぞれのあいだには大きな隔たりがある。一見すると単純な、行きたいところに行く、見たいものを見るという行動には、相当の意志と力強さが求められる。
 それから私は建物を出て、市内とはいえあまり行ったことのない街並みを少し散策し、たまたま見つけたイタリア料理店に入って薄い生地のピッツァを食べ、バスに乗って家に帰る。
 夜、寝る前に湯船にぬるめのお湯を張り、そこへゆっくりと浸かる。
 私は浴室内にあるシャンプーの容器に手を伸ばして湯船の縁に置き、その容器に貼られているラベルを読む。ご使用方法、ご注意、かゆみ、ジステアリン酸グリコール、クエン酸、ポリクオタニウム‐7、BG。次は浴室に置いてある洗剤類の一つを手に取り、そこに書かれている文字を読む。※すべての菌を除菌するわけではありません、水道水、直射日光、界面活性剤、中性、万一。
 洗剤などの成分に興味があるわけでもなく、使用法を知りたいわけでもなく、ただただ並んでいる文字を目で追いかける。私が子供の頃からしていることだ。はっきりとは覚えていないが、きっと、湯船にじっと浸かっているだけの手持ち無沙汰な時間を埋めるために始めたのだろう。昔は風呂の時間がそんなに好きではなかったことを思い出すが、いつからそうではなくなったのかは思い出せない。今は、ただ文字を見るために眺める。
 風呂から上がり、冷たい水を飲む。
 そして私は、私の本棚の前に立つ。壁一面を占めるその棚に何冊の本があるのか数えたことはない。人差し指で一冊一冊の背に触れながら、そこに書かれている文字を読む。日焼けで背が色褪せたもの、どこが本当に重要なのかを見失うほどに付箋が挟まっているもの、中学生の頃に夢中で読んだもの、この上なく美しい文体で書かれたものなど、様々な本が並ぶ。
 これらを生みだした芸術家たちの真摯な言葉と、それを読んだ私という人間が混ざり合い、物語は完成する。それはとても豊かで、幸せなこと。
 ふと指を止める。
 埴谷、二葉亭、広津、堀。
 私は広津という苗字の作家の本を棚から出し、埴谷と二葉亭のあいだに入れ直す。
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