第2話

文字数 3,081文字

 川沿いの堤防をおりてしばらく歩き、熱を溜めこんだ家へ帰る。窓を開け放ち、街で買ってきた食材を冷蔵庫や食品棚の中に片付け、ソファに腰かけてテレビを点けてから水を一杯飲む。
 前掛けを着け、台所に立つ。野菜を適当な大きさに切り、卵を割り、肉に下味をつけ、バットとボウルに入れて狭い台所に並べる。調理台に載りきらないボウル二つは、電子レンジの上に置く。使い終わったまな板と包丁を念入りに洗う。鍋に水を入れ、火にかける。
 台所で音だけを聞いていたテレビの向こうで、誰かが「ノブレス・オブリージュ」と言う。久々に耳にしたその言葉に顔を上げて画面に目を遣ると、上品に仕立てられた背広を着た一人の男が慈善事業を行っているある団体に多額の寄附をしたというニュースを伝えており、その男はどこかの立派な建物の中で彼を取り囲んだ記者たちからの問いかけに「これは当然に私が為すべきことなのです」と答える様子が流れている。
 学生の頃、なにかの小説に出てきた「ノブレス・オブリージュ」という言葉を知らなかった私は、v か bか、l か r かとアルファベットのつづりを推理しながら、英和辞書の中でそのフランス語を探しあてた。私の辞書に鮮やかな黄緑色のマーカーの跡が一つ増えた。
 どの小説に出てきた言葉だったのかが気になって本棚に向かおうとしたが、野菜の下茹でをするためのお湯が沸いたので鍋の方へと向かう。ニュース番組の話題はどこかの国で起きた大規模な洪水のことに変わっており、画面の中では、ヘリコプターに乗ったカメラの目が街に流れこんだ濁った水を見下ろしている。
 何種かの常備菜と今日の晩御飯を作り終え、食事をとり、細々とした家事を終え、入浴も済ませる。そうなるともう今日やるべきことはないので、寝る支度を始める。
 昼間に街で買ってきたカモミールティーのティーバッグの封を切り、マグカップに入れて湯を注ぐ。そのカモミールティーからは、好きとも嫌いともいえない香りが立つ。私はなにかしらのほんのり甘い果実と、新しい畳と、花瓶に生けられた菊の匂いを思い出しながら、白い器の中で煙の様に拡がっていく黄色い色を眺める。
 寝つけなかったり夜中に目覚めたりということはほとんどないが、もしかしたらぐっすりは眠れていないのかもしれないと感じる日はある。その様なことを誰かに話すたび、色々な人が色々なことを教えてくれる。就寝前にカモミールティーを飲むのが好いと誰かが言い、他の誰かは温めた牛乳が好いと言った。また、他の誰かはベルガモットの精油を枕元に垂らすと好いと言った。
 湯を注いでから五分が経ったので私はティーバッグを取り出し、生まれてはじめてカモミールティーを口にする。その味は悪くない。
 横になって、いつもの様に本を読む。十八ページ読み進んだ辺りで、徐々に胃が重く、目の奥が重くなる感じに気がつく。更に七ページ読む。灯りを消して目を閉じ、そのあと、再び灯りを点けて三ページ読む。体が熱いような冷たいような気がする。
 私は体に起きていることについて考える。そして、さっき飲んだカモミールティーが体に合わなかったのだろうと考える。皆が同じものに対して同じ反応を示さないということは、いくらだってある。それは肉体においても、あるいは心と呼ばれるものにおいてもそうだ。仕方のないことだ。明日は、温めた牛乳を飲んでみればいい。
 重たい胃を抱えて、私は右を向き、上を向き、左を向くことを繰り返しながら、誰にでも効く薬というものを想像する。それが至高のものであることは疑いようもない。その薬が完成した日、病に伴う痛みや苦しみは消え、安心が約束され、研究者たちが試行錯誤する日々は終わる。そしてその病は、存在し続けながらも忘れ去られていく。
 私はようやく眠りが始まる地点を見つけ、なるべく逆らわないようにそこに引き寄せられていく。
 
 ……いつも行くあの街でパレードがある。それは、友達の父親がなにかの職を退任した記念だという。その日、私も堤防の道を歩いて街に行ってみる。街頭には派手な横断幕が掲げられている。沿道には人が集まっており、私はところどころで出会う顔見知りと言葉を交わしながらパレードの始まりを待つ。
 定刻になった様で、街路灯に取り付けられたスピーカーから音楽が流れる。その「ラデツキー行進曲」を聴くと私は正月のことを思い出し、冬休みに旅先で見た小さくて美しい湖のことを思い出す。刹那、目の前を赤いオープンカーが走り去る。とてつもない速度で走り去る。パレードは終わる。ものすごく速かったねと誰かが笑う。……
 
 私は明るい光を感じながら目覚め、部屋にあるデジタル表示の時計を見て、掌に爪の跡が残るほどに握られている拳を解き、今のおかしな夢を振り返り、忘れてしまわないうちに枕元の紙に書きつける。
 夢は奇妙で、ときに苦しくて悲しくて歯がゆくて、なぜその様な物語が私の中にあるのかが不思議で仕方がない。私は五年ほど前から、印象に残った夢を帳面に書き残すことにしている。本棚の端に置いてあるその帳面は私にとってはただの読み物だが、夢を読み解く手法を持つ者にとっては、私の意識や無意識を知る資料となるのかもしれない。
 重たい体を少しだけ起こしてカーテンを少し開けると、そこにはまぶしすぎてなにも見えなくなるくらいの鋭い日差しがある。人間がこれほど強い光に晒されれば、それは、太陽のせいで人を殺すことだってあるだろうと私は考える。
 凶暴な太陽に背を向け、私はもう一度目を閉じて眠ることにする。
 
 ……私は、誰かの家の白くて清潔で広々した台所にいる。居間からは、客と思われる人たちの楽しげな話し声が聞こえる。前掛けを着けた数人の友達と私は、まもなく始まるパーティーに向けて料理の準備を進める。
 一人の友達が、大量の炊いた米をボウルに入れて、甘い香りがするすし酢を回しかける。そして熱を逃がすんだと言いながら団扇で米をあおぎ、私はしゃもじで米を混ぜる。こねるなよ、切る様にだぞと友達が言う。……
 
 一瞬の目覚め。
 
 ……私はもう一度酢飯を仕込む。……
 
 再び目覚めて時計を見るが、大した時間は経っていない。私はもう眠りを欲してはいないが、起き上がろうという気持ちには至らない。
 枕元にある本を手に取り、そこに並ぶ文字という記号を解読する。その行為、すなわち本を読むことは、集中力を要する学びであり、戦いであり、この上なく楽しい遊びであり、緊張であり、安らぎであり、苦しさであり、幸福だと考える。
 私は数ある書物の中で、小説を好む。魂を削って作品を生みだす書き手に対して、最大の敬意を表する。
 生も死も、希望も絶望も、その重みは等しい。小説の中で誰かが死ねば、私は虚構の中で表現されている死の意味を考える。涙は流さない。虚構の中の死は、私の生きる現実で否応なしに訪れる死とは同じではない。
 寝台の上に横たわったまま、この部屋の壁の一面を占める私の本棚を眺める。棚の中は、まずは大きくは小説と小説ではないものに分けられている。そして、本棚の大半を占める小説については作家の姓の順に「A」から「Z」へ、続いて「あ」から「わをん」となる様に並べられている。さまざまな版型の書籍や文庫本が混在しており背の色もまとまりがない様だが、それでも、私が所有しているかけがえのない一冊一冊を組み上げた一つの世界は一体として美しい。
 私はゆっくりと体を起こす。
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