第13話

文字数 2,431文字

 〈それは記憶だ。〉
 
 風が木々を大きく揺らす。渦の中心へと向かう雲は流され、ちぎられ、ときにその隙間からぎらりと光る日差しをこぼす。台風はゆっくりと北上しており、今晩にはここに近づくかもしれないし、もう少し離れたところを通るかもしれない。
 私は街で買わなければならないものを書きだし、図書館に返す本を鞄に入れ、雨に備えて傘を持って家を出る。生温かい風が顔や腕を触り、櫛を通したばかりの髪を乱し、遠い海の上で渦巻く台風の存在を主張する。
 川沿いの道を歩いていると、少しの雨粒が落ちてくるが、傘を開く前にはやむ。川面は風の姿を映し、川辺に繁る草は駆け抜ける風の道筋を追う。
 この川の水が極端に増えたことは、私が覚えている限りでも二回や三回はあった。河川敷は水に沈み、茶色く濁った流れは少しの容赦もなく高い所から低い所へ向かい、そこで私が見たのは、逆らうことなどできない大きな力だった。嵐の次の日に水が引いた河川敷を歩くとたくさんの流木や草がそこら中に引っかかっており、足下では、流れから取り残された小さな魚が死んでいたことをよく覚えている。「あまり川の近くに行っちゃだめ」と母は言った。
 遠くにサイレンの音が聞こえ、そして消えていく。思えばさっきから何度も鳴っていた様な気もする。河川敷の土を巻き上げる強風を感じながら、近くで火事でも起きたのだろうかと考える。私は薄暗い曇り空の下でも鮮やかな色を放つ緑の家を一瞥し、街の方へと歩く。
 商店街を歩いていると、サイレンを鳴らす一台の消防車に追い越される。付近はまだ開店の時間を迎えていない店が多いが、何人かの人が街頭に立って消防車の行った方向を見ながらなにか言葉を交わしている。私は図書館に向かって歩き続ける。やがて行く先に細い黄色い線が現れ、私は、急拵えで立ち入り禁止と定められた区域の手前で止まる。そこで図書館の方角を遠巻きにして眺め、微かに、物が燃える匂いを嗅ぐ。
 五十メートルほど先にある公園の辺りに消防車が何台も止まっている様子は、ここからでも見える。黄色い線の向こう側で手元の書類になにかを書きこんでいる警察官が立っているので、火元は図書館なのかと大きな声で尋ねると、その警察官は一瞬顔を上げて「そうです」と答える。
 私は佇む。俄かに強い雨が降り始めたので傘を開き、強い風に備えて柄を握りしめ、鞄が濡れないように傾ける。この鞄には、図書館から借りた本が入っている。それは濡らしてはいけないものだ。
 急に強まった雨をよける様に頭に手をかざしたおじさんがこちらに歩いて来て、「まだ消えてないのか?」と私に話しかける。様子を見に来た、近所の人なのだろう。私は歩み寄って、おじさんを傘の下に入れる。おじさんは「ありがとうな」と言い、腕の時計に視線を落として、三時間ほど前に最初の消防車が来たことなどを教えてくれる。雨脚が弱まる気配がないので、私はその人を家まで送り届ける。案の定、すぐ近くに住む人だった。
 「雨が、救いになるといいけどな。」
 おじさんは礼を言って、小走りで家の中へと入っていく。
 私はその足で商店街へ向かうが、買い物をしようと思っている店が開くまで、あと三十分ほど待たなければならない。何事もなければ、図書館で本を返し、それから少し本棚を見て、公園の中を歩いてから買い物に行くつもりだった。さっきから雨と風は強弱を繰り返している。私はこの時間でも開いているコーヒーショップを見つけて、カウンターで温かいコーヒーを買って席に座る。雨に濡れたズボンの裾が肌に触れ、天井から吹きだす空調の風がそれを冷やす。
 ふと目を向けると鞄も少し濡れている様なので、私は中に入っている本を取り出してテーブルの上に置き、その表紙や裏表紙を手で触れ、濡れていないことを確かめる。これは濡れてもいけないし、燃えてもいけない。
 裏見返しに貼られているラベルには、図書館の名とバーコードと二十五年前の日付が印刷してある。その日からずっと、この本はあの図書館に置かれていたということなのだろう。私は、じっと棚に収まっているあいだに日焼けした背表紙や、誰かに持ち出されるたびに増えた傷や汚れを見る。
 紙は強くもあり、脆くもある。本が灰となり風に飛ばされ、言葉とその向こうにある意味が消失していく。今起きている火災でどれだけの本を焼失してしまうことになるのかは、想像もつかない。
 雨脚の弱まったときを見計らって、私はコーヒーショップを出る。歯磨き粉、絆創膏、目薬、台所用洗剤と、メモを確かめながら商品を買い物かごに入れる。メモがなければ、大概私は一つや二つの買い忘れをしてしまう。店を移動して、牛乳ときゅうりと挽肉とオレンジと木綿豆腐とチョコレートを買う。チョコレートはメモにはないが、そのことは問題ない。
 買い物を終え、私はもう一度図書館の方に向かう。ほどなく、二台の消防車とすれちがう。立入禁止の境界のところまで行ってみるが、雨や風のせいもあって煙の有無などはよく見えず、火災の様子はわからない。私は傘をしっかり支えて、足早に家へと歩く。
 「これから台風の通過が予想されている地域の方は、最大限の警戒をお願いいたします。」
 繰り返し、テレビの中から呼びかけられる。私は牛乳と卵と砂糖をバットに入れてその中にパンを浸しながら、台風のニュースを見る。どこかの離島の映像では、棕櫚の木が大きく揺れ、荒々しい波が岩に当たって砕けている。
 フライパンにバターを入れて火にかけ、浸しておいたパンを焼き、同時にもう一つのフライパンでホウレンソウとベーコンを炒める。バターとオレンジの果汁とすりおろしたオレンジの皮を混ぜ、フレンチトーストに添える。家の周りの片づけは終え、戸締りも済ませたのでこれ以上私にできることはなく、まずはこの昼食を平らげ、きっちりと窓を閉ざし、嵐が過ぎるのをじっと待つしかない。
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