第7話

文字数 1,951文字

 〈それは水を嫌う。〉
 
 所有したいと願う本があり、大きな街にある書店へと出かける。
 本はその内容を伝える媒体だとすれば、読みさえすれば物理的に所有する必要はない。その本を読みたいという欲求は、いつも通っている図書館に行きさえすれば、何度でも満たすことができる。実際、その本は図書館で借りて読み終えている。
 しかし、私は図書館に行くたびに棚の前に立ち、その背を眺め、おずおずと触れてみたりもする。そして、欲しいと思う。
 一冊の本を読み終えたときに私は、私だけの読み方でこの世に二つとない物語を所有する。世界中に同じ本が何万部刊行されていようとも、それは特別なものだ。そのあかしとして、私は形ある本を手元に置くのかもしれない。
 今日買おうとしている本は印刷物としての面白さがあり、文字を読まず、そのインクを眺めるだけでも十分な価値がある。そのフォント、図版、訳註、奥付、資料、抹消線、誤植などは紙の上に迷宮を作りだし、言語による虚構をより深く、広くする。
 多少効きすぎるくらいに冷房の効いた書店の中で、目当ての本があってしかるべき棚の前に立ち、胸を高鳴らせながら端から端へと目を走らせる。こういうときはなぜか必死に探している一方で、見つけてしまったらどうしようという倒錯した気持ちになる。しかし私は探しているわけだから、やがて探していたものを見つけてしまう。
 厚くて重みのあるその書籍を手に取る。英語で書かれた小説を日本語に訳したその本は、縦書きの体裁をとっている。私は右手でページを次々とめくって全体を眺めたあとにその本を小脇に抱え、相応の代価を払って自分のものにする。
 目的を果たしてみると、私は喉の渇きに気がつく。書店を出て、近くで見つけたカフェに入ってグァテマラ産のコーヒーを注文する。しばらくすると店の奥から、アコースティックギターを持った二人の男性が出てきて、マイクスタンドと譜面台が用意されている椅子に腰かけて、手慣れた様子で調弦を始める。黒い前掛けを着けたカフェの店員が出てきて二人の演奏家を紹介し、今日はカヴァー曲を演奏するという旨を説明し、「ではお楽しみください」と告げる。
 「ワン・ツー・スリー・フォー」というカウントから、私が聴いたことのない曲が始まる。私はつま先でリズムを刻みながら歌声に耳を傾け、反復される明るく美しい旋律を徐々に覚えていく。拍手のあと、二曲目が始まる。私は右の腿の上でピアノを弾いているかの様に指を動かし、聴き覚えのある主旋律を追いかける。
 三十分の演奏が終わる。「ありがとうございました」と深々と頭を下げ、拍手に見送られて二人の演奏家は退場する。
 音楽を聴くと緊張が解けたり、逆に緊張が高まったり、血の廻りがよくなった様な感じがしたり、泣きそうになったり、思わず両手を突き上げたりと、私の体は様々な反応を示す。私はいつも、それに身を任せることにしている。
 そういった反応のひとつかもしれないが、私は空腹感を覚えたのでコーヒーのおかわりとパンケーキを注文する。
 さっき買った本をテーブルの上に置く。カヴァーに書かれた表題や本文に入る前の奥付から虚構の世界が始まる。
 二、三か月以内に読んだ本なので、物語内の時系列もある程度覚えているし結末もわかっている。私は、もうこの本においては一度目とまったく同じ読み方をすることはできない。その代わり、一度目にはできなかった読み方が可能になっている。自分の単純な読みまちがいに気がついたり、はじめは憎たらしいと思った人物に好感を抱く様になったり、恐ろしい場面を平常心で読める様になったり、二周目でできることは、驚くほどに多い。
 店内の誰かの大きな笑い声で我に返り、本に没頭していた自分に少し驚き、少し冷めたコーヒーを飲み干す。店を出て、書店の手提げ袋を上下に動かしてずっしりとした紙の本の重みを確かめ、これから数週間、そしてその先も、この本とともに過ごす日々を思う。
 
 ……銃を構えた男が、狙いを定める。銃口を向けられた男は、逃げようとするが足がもつれてうまく立ち上がれない。私は銃を持つ男の方へ近づき、やめる様に言う。更に近づき、男の腕を押して銃口を横へ逸らすが、男は抵抗する。後ろから抱きつく様にしてみるが、やはり男は抵抗する。狙われた男がふらふらと立ち上がり、私に加勢しようと寄って来る。私は来るな、逃げろとか言いながら、寄ってきた男を蹴とばすが、それでもまだこちらに来ようとする。銃を持った男の動きを抑えながら、私は狙われた男とももみあう。叫ぶ様に逃げろと言うと、狙われた男はやっとその場を離れようとする。銃弾が放たれる。標的は倒れる。……
 
 汗をかいて目覚める。
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