第12話
文字数 1,519文字
〈それは、書き直すことだってできる。〉
「では、負傷者を運びだしてください。」
拡声器の指示に従って、担架を持った大人たちがせわしく行き来する。私は辺りを見回し、そこはかとなく秋らしい雲を散らした空を見上げ、小学校の校庭に座りこむ。子供たちは倉庫に集まっていて、非常用の物資の整理を手伝っている。消火を担当している人たちは、慣れない手つきでバケツリレーをしている。
私の胸にある負傷者というゼッケンを見て、近所に住む顔見知りの男性二人が症状を聞きにやって来る。私は足を負傷していて、折れている可能性があるので歩けないという旨を伝える。少し迷った末、左足を負傷したことに決める。彼らは私を担架にのせる。
「どうも。久しぶりだね。」
私ははいと答え、皆様お変わりないですかとあいさつを返す。男性二人は息を合わせて、私がのった担架を持ち上げる。
「軽いな。」
「俺は太るばっかりだよ。」
私たちはその様な言葉を交わしながらゆっくりと校庭を横切り、救護所と書かれたテントに到着する。
今日の防災訓練の催しは小学校の校庭を借りて行われており、子供も大人も、地域の住民がたくさん集まっている。私たちは見えない炎を消し、見えない瓦礫をかきわけ、折れていない骨を添え木で支える。そして、いつか来るその日に、ここで想像したことが役立つことを願う。
正午を過ぎた頃には、備蓄している物資の整理も終わり、賞味期限が迫っているために処分しなければならない非常食を使った昼食会が始まる。湯を注いだり湯煎で温めたりして手際よく準備された白米や炊きこみご飯は、炊きたての様に白い湯気を立てており、およそ三年前に袋に詰められたものとは信じがたい。私は、同様に何年も前にボトルに閉じこめられた水を飲み、今日もまださくさくと乾いた音を立てるクラッカーをかじる。
「檻から逃げちゃった虎はどうしていますか?」
私の近くで非常食のチョコレートを食べていた小学生の女の子たちが、会に参加している警察官の女性に問いかける。
「ちゃんと、前と同じ様に、動物園にいますよ。」
警察官は優しく答える。
「檻の中が退屈で、ちょっと外に出ただけと思うから、怒られていないといいな。」
「前に動物園で見たとき、元気なかったものね。」
女の子たちは口々に言う。子供たちは、檻の中で生きる虎には自由がないと考え、それに同情する。自由とは貴く、幸福なもので、子供は自由を恐れない。
好きな様に使いなさいと言って一枚の白紙を渡されたとき、絵を描くか、文章を書くか、折り紙にして蛙を折るか、器の形に変えて物を入れるか、私はとても迷うだろう。なにをしなさいとも、なにをしてはいけないとも言われないことに、私は慣れていないのかもしれない。自分の望むものに気づけないでいるのかもしれない。
私がそれを細かく裂いて紙吹雪にしたいと望むならそうすればいいが、ひとたび裂いてしまえば、その紙で鶴を折ることはできなくなる。自由とは有り余る選択肢の中から一つを選び、それ以外の可能性を捨てる決断のことなのだろう。そこに、恐れを感じるのかもしれない。しかし、一度の選択がすべてではないことも多いだろう。二枚目の紙が配られたら、今度は鶴を折ればいい。
……二十分ほど斜面を歩いて小さな山の頂上に着く。そこには誰もいない。頂上を取り囲む様に木が生え、その内側には草地が広がっている。私の視界の隅で、なにかが動く。そちらに目を遣ると、雌のキジがいる。私がそちらに体を向けると、キジはその気配を察し、草地を横切って一直線に走る。翼は使わない。飛べばいいのにと、私は思う。……
「では、負傷者を運びだしてください。」
拡声器の指示に従って、担架を持った大人たちがせわしく行き来する。私は辺りを見回し、そこはかとなく秋らしい雲を散らした空を見上げ、小学校の校庭に座りこむ。子供たちは倉庫に集まっていて、非常用の物資の整理を手伝っている。消火を担当している人たちは、慣れない手つきでバケツリレーをしている。
私の胸にある負傷者というゼッケンを見て、近所に住む顔見知りの男性二人が症状を聞きにやって来る。私は足を負傷していて、折れている可能性があるので歩けないという旨を伝える。少し迷った末、左足を負傷したことに決める。彼らは私を担架にのせる。
「どうも。久しぶりだね。」
私ははいと答え、皆様お変わりないですかとあいさつを返す。男性二人は息を合わせて、私がのった担架を持ち上げる。
「軽いな。」
「俺は太るばっかりだよ。」
私たちはその様な言葉を交わしながらゆっくりと校庭を横切り、救護所と書かれたテントに到着する。
今日の防災訓練の催しは小学校の校庭を借りて行われており、子供も大人も、地域の住民がたくさん集まっている。私たちは見えない炎を消し、見えない瓦礫をかきわけ、折れていない骨を添え木で支える。そして、いつか来るその日に、ここで想像したことが役立つことを願う。
正午を過ぎた頃には、備蓄している物資の整理も終わり、賞味期限が迫っているために処分しなければならない非常食を使った昼食会が始まる。湯を注いだり湯煎で温めたりして手際よく準備された白米や炊きこみご飯は、炊きたての様に白い湯気を立てており、およそ三年前に袋に詰められたものとは信じがたい。私は、同様に何年も前にボトルに閉じこめられた水を飲み、今日もまださくさくと乾いた音を立てるクラッカーをかじる。
「檻から逃げちゃった虎はどうしていますか?」
私の近くで非常食のチョコレートを食べていた小学生の女の子たちが、会に参加している警察官の女性に問いかける。
「ちゃんと、前と同じ様に、動物園にいますよ。」
警察官は優しく答える。
「檻の中が退屈で、ちょっと外に出ただけと思うから、怒られていないといいな。」
「前に動物園で見たとき、元気なかったものね。」
女の子たちは口々に言う。子供たちは、檻の中で生きる虎には自由がないと考え、それに同情する。自由とは貴く、幸福なもので、子供は自由を恐れない。
好きな様に使いなさいと言って一枚の白紙を渡されたとき、絵を描くか、文章を書くか、折り紙にして蛙を折るか、器の形に変えて物を入れるか、私はとても迷うだろう。なにをしなさいとも、なにをしてはいけないとも言われないことに、私は慣れていないのかもしれない。自分の望むものに気づけないでいるのかもしれない。
私がそれを細かく裂いて紙吹雪にしたいと望むならそうすればいいが、ひとたび裂いてしまえば、その紙で鶴を折ることはできなくなる。自由とは有り余る選択肢の中から一つを選び、それ以外の可能性を捨てる決断のことなのだろう。そこに、恐れを感じるのかもしれない。しかし、一度の選択がすべてではないことも多いだろう。二枚目の紙が配られたら、今度は鶴を折ればいい。
……二十分ほど斜面を歩いて小さな山の頂上に着く。そこには誰もいない。頂上を取り囲む様に木が生え、その内側には草地が広がっている。私の視界の隅で、なにかが動く。そちらに目を遣ると、雌のキジがいる。私がそちらに体を向けると、キジはその気配を察し、草地を横切って一直線に走る。翼は使わない。飛べばいいのにと、私は思う。……