第16話
文字数 3,498文字
アルギュレ地方は、広大な永久凍土を抱える北方の地域だ。
熱砂の砂漠だったタルシス地方とアルギュレ地方の境目、世界で最も大きな湖である『太陽湖』の湖畔の街、カフルイ。
街に近づくにつれ、珍しい背の高い木々が道をふさぎ、ウィルたちの行く手を阻む。
緑の葉が生い茂る森を抜け、やっとカフルイの城壁が見える場所までたどり着いたころには、街はすでに寝静まっていた。
「チッ。まずったな。もう一泊野宿だ」
「うん、仕方ないよ」
街から少し離れた森の中にグランドキャリアを止め、木々で目隠しを作る。
暗い森の中、レーションで質素な食事をとった。
「明日は門が開く時間に合わせて街に入って、温かい朝飯を食おうぜ」
「うん! タルシス地方とは違うものが食べられそうだよね。楽しみだなぁ」
「ああ、確かウサギの肉のシチューなんかが名物のはずだ」
「ウサギ?! ウサギってあの耳が長くてぴょんぴょん跳ぶかわいいウサギ?!」
「そうそう。何度か食ったけど、ありゃあ美味いぜ」
「……やだなぁ。ぼくは可哀そうで食べられそうもないや」
「なんでだよ。別にその場でさばいて喰おうってんじゃねぇし、肉になって出てきたらイノブタもウサギも関係ねぇだろ。そもそもイノブタだって結構かわいいぜ?」
「それはそうかも知れないけどさ」
「特にメスのウサギが美味いんだ。柔らかくてよ……いけね、よだれが出てきた」
「もう! 汚いなぁ」
頭の中でシチューを思い出したのだろう。手の甲で「じゅるり」とよだれを拭くウィルに、クロエは笑って手を上げる。
しかし、その顔は突然何かに気を取られたように真顔に戻った。
「どうした?」
「え? あ、うん。そっか、オスとメスでそんなに違うんだ」
「そりゃあ体のつくりから違うからな。柔らかさが段違いだぜ」
「ふぅ……ん」
会話が途切れる。
しかし、その静けさも二人にとっては嫌な静寂ではない。
ただ静かに薪 のはぜる音を聞きながら、食事を終えた。
黙ったまま、ゆったりとした気持ちで後片付けを済ませ、キャリアへと向かう。
蒼と銀、二つの月が森と湖を照らす中、二人は毛布を体に巻きつけ、短い眠りについた。
◇ ◇ ◇
早朝。
まだ眠りこけるウィルを残してキャリアを出たクロエは、静かに二つの月を映しだす透明な水面の前に立っていた。
周囲を見回し、誰もいないことを確認して衣服をほどく。
持って来たタオルの中にモーターガンを隠すと、クロエは冷たく清浄な湖の中へ足を踏みいれた。
小さく一度、ぶるっと体を震わせ、ゆっくりと湖へと入ってゆく。
腰ほどの深さまでたどり着くと体を沈め、いつもは束ねている濃紺の髪を解放した。
ふぅっと息を吐き、気持ちよさそうに体を流す。
頭まで水につかり、立ち上がったクロエは、肩から流れる髪を手櫛 ですいた。
髪を両手で絞り、頭を振る。
体に張り付いた髪に手を滑らせたクロエの手は、自分の胸の前で止まった。
ほんのわずかばかりだが、その胸は柔らかく膨らみ始めている。
『オスとメスとは体のつくりが違うからな』
食事の時のウィルの言葉が、クロエの頭を埋め尽くしていた。
――カサリ
突然、森の中から小さな音が聞こえる。
クロエはハッと身を固くし、音のした方へと目を凝らした。
音のした薮まで10メートル。
クロエの衣服のある場所まで15メートル。
モーターガンもそこにある。
水音を立てないよう、ゆっくりと湖の中を移動し始めたクロエの見ている前で、立派な角を持った牡鹿 と、優しげな瞳の雌鹿 が、青白い月の光の中へ姿を現した。
それはまるで、寝物語に聞いた神話のような光景だった。
月の光に照らし出された荘厳な姿に、クロエは目を奪われ、ただ立ち尽くす。
やがて、二頭の美しい鹿は、水を飲み、静かに立ち去って行った。
「……っくちっ!」
ぼうっとしたまま鹿の立ち去った森を見つめていたクロエが、小さくくしゃみをする。
ぶるっと身を震わせ、慌てて衣服の場所へ戻ると、タオルで体を拭いた。
衣服を身に着け、髪留めの紐を咥えながら髪をまとめる。
紐で髪を結わえながら、先ほどの光景を思い出して小さく笑うと、クロエは、相棒の待つグランドキャリアへと駆け戻った。
◇ ◇ ◇
高らかにモーターの音を響かせながら、ウィルとクロエを乗せたバギーは、森を抜け、街へ向かって走っていた。
昇りはじめた太陽は暖かく辺りを照らし、ウィルは大きく欠伸をする。
そんな中、クロエは小さなくしゃみをした。
「っくちゅっ!」
「なんだよ、風邪でもひいたか? 北へ向かったらもっと寒くなるんだぜ、気をつけろよ」
「う~平気。今朝ちょっと、湖で水浴びしたから」
「うへっ、この寒空に水浴びしたのかよ! クロエってほんと水浴び好きだよな」
ハンドルを器用に操作しながら、ウィルは苦いものでもかじったかのように舌をだし、眉根を寄せる。
人差し指の背中で小さな鼻をこすったクロエも、同じように眉根を寄せて反論した。
「だって、ウィルみたいにずっと体を流さなかったら臭くなっちゃうもん!」
「臭くねぇよ! クロエが匂いを気にしすぎなだけだぜ」
「そうかなぁ」
自分の両腕を持ち上げて匂いを嗅ぎ、そのあと体を伸ばしてウィルの肩の匂いを嗅ぐ。
確かに、ウィルからは嫌な臭いはしなかった。
いや、正確には独特の「ウィルだ」とわかる匂いはするのだが、それはクロエにとって嫌な匂いではないと言うことだ。
どちらかと言えば、好きな匂い。安心できる匂いと言えるだろう。
もう一度くしゃみが出そうになり、そのまま顔をウィルの肩にぐりぐりと押し付けたクロエは、今朝の出来事を思い出し、顔を上げた。
「……あ、それより聞いて! 今朝水浴びしてたら、すっごく大きな鹿の夫婦に会ったんだよ!」
「へぇ、そりゃあ惜しいことしたな。モーターガンで仕留めてくれたら、いい稼ぎになっただろうに」
「もう! ぜんぜんそんな雰囲気じゃなかったんだから。ウィルだって実際に見たらそんな気にならなかったと思うよ。すっごく神秘的なんだもん!」
「神秘的ねぇ。俺は肉が何日分の食料になるかと角がいくらで売れるかしか興味ねぇな」
「むー」
相棒のデリカシーのない言葉に、クロエは唇をとがらせてバギーの外へ顔を向けた。
風が髪をなびかせ、顔にまとわりつくそれをクロエは耳にかける。
ちらりとウィルの顔を横目で眺め、クロエは振り返ると、口を開いた。
「……ねぇ、ウィルは不思議に思ったことない?」
「なにが?」
「動物には全部男と女がいて、それぞれが夫婦になって子供を作るでしょ?」
「当たり前だろ」
「うん、当たり前なのに、どうして人間だけは男しかいないのかな」
「そりゃあ……人間は動物とは違う、選ばれた種族だからだろ」
それだけで説明は終わったとばかりに、ウィルは口を閉ざす。
しかし、クロエが言葉の続きを待っているのに気づき、少し考えた末に言葉を続けた。
「……人間は神に作られた男だけの種族だ。動物みたいに血にまみれた姿で、親を苦しめながら産まれたりしない」
「うん」
「子供は人間と天使との間にできるけど、天使はめったにこの世界には降りてこない。だから人間だけは動物と違って、神からの授かりものであるファウンテンから産まれてくるんだぜ。『神のつくりたもうた三つの宝。人の子、燃料 、清浄なる水』ってな。常識だろ?」
「そう……だよね」
もう一度バギーの外へと視線を向けて、クロエは口をつぐむ。
相棒の顔に何か悩んでいるような表情を認めたものの、それに何も言ってやれないウィルは、ただバギーの速度を上げた。
カフルイの街の大きな門が視界に入る。
ウィルは街の地図を頭に思い浮かべ、思い出したように声を上げた。
「そうだ! たしか今から行くカフルイの街には『聖堂』ってのがあって、そこには昔の人が作った『天使』の像があるってよ。俺は見たことねぇけど、クロエが興味あるなら見に行こうぜ」
「へぇ……うん! 見たい!」
クロエに笑顔が戻る。
相棒につられるように笑ったウィルは更にアクセルを踏み込み、バギーは背の高い木々を従えたカフルイの街へと向かった。
熱砂の砂漠だったタルシス地方とアルギュレ地方の境目、世界で最も大きな湖である『太陽湖』の湖畔の街、カフルイ。
街に近づくにつれ、珍しい背の高い木々が道をふさぎ、ウィルたちの行く手を阻む。
緑の葉が生い茂る森を抜け、やっとカフルイの城壁が見える場所までたどり着いたころには、街はすでに寝静まっていた。
「チッ。まずったな。もう一泊野宿だ」
「うん、仕方ないよ」
街から少し離れた森の中にグランドキャリアを止め、木々で目隠しを作る。
暗い森の中、レーションで質素な食事をとった。
「明日は門が開く時間に合わせて街に入って、温かい朝飯を食おうぜ」
「うん! タルシス地方とは違うものが食べられそうだよね。楽しみだなぁ」
「ああ、確かウサギの肉のシチューなんかが名物のはずだ」
「ウサギ?! ウサギってあの耳が長くてぴょんぴょん跳ぶかわいいウサギ?!」
「そうそう。何度か食ったけど、ありゃあ美味いぜ」
「……やだなぁ。ぼくは可哀そうで食べられそうもないや」
「なんでだよ。別にその場でさばいて喰おうってんじゃねぇし、肉になって出てきたらイノブタもウサギも関係ねぇだろ。そもそもイノブタだって結構かわいいぜ?」
「それはそうかも知れないけどさ」
「特にメスのウサギが美味いんだ。柔らかくてよ……いけね、よだれが出てきた」
「もう! 汚いなぁ」
頭の中でシチューを思い出したのだろう。手の甲で「じゅるり」とよだれを拭くウィルに、クロエは笑って手を上げる。
しかし、その顔は突然何かに気を取られたように真顔に戻った。
「どうした?」
「え? あ、うん。そっか、オスとメスでそんなに違うんだ」
「そりゃあ体のつくりから違うからな。柔らかさが段違いだぜ」
「ふぅ……ん」
会話が途切れる。
しかし、その静けさも二人にとっては嫌な静寂ではない。
ただ静かに
黙ったまま、ゆったりとした気持ちで後片付けを済ませ、キャリアへと向かう。
蒼と銀、二つの月が森と湖を照らす中、二人は毛布を体に巻きつけ、短い眠りについた。
◇ ◇ ◇
早朝。
まだ眠りこけるウィルを残してキャリアを出たクロエは、静かに二つの月を映しだす透明な水面の前に立っていた。
周囲を見回し、誰もいないことを確認して衣服をほどく。
持って来たタオルの中にモーターガンを隠すと、クロエは冷たく清浄な湖の中へ足を踏みいれた。
小さく一度、ぶるっと体を震わせ、ゆっくりと湖へと入ってゆく。
腰ほどの深さまでたどり着くと体を沈め、いつもは束ねている濃紺の髪を解放した。
ふぅっと息を吐き、気持ちよさそうに体を流す。
頭まで水につかり、立ち上がったクロエは、肩から流れる髪を
髪を両手で絞り、頭を振る。
体に張り付いた髪に手を滑らせたクロエの手は、自分の胸の前で止まった。
ほんのわずかばかりだが、その胸は柔らかく膨らみ始めている。
『オスとメスとは体のつくりが違うからな』
食事の時のウィルの言葉が、クロエの頭を埋め尽くしていた。
――カサリ
突然、森の中から小さな音が聞こえる。
クロエはハッと身を固くし、音のした方へと目を凝らした。
音のした薮まで10メートル。
クロエの衣服のある場所まで15メートル。
モーターガンもそこにある。
水音を立てないよう、ゆっくりと湖の中を移動し始めたクロエの見ている前で、立派な角を持った
それはまるで、寝物語に聞いた神話のような光景だった。
月の光に照らし出された荘厳な姿に、クロエは目を奪われ、ただ立ち尽くす。
やがて、二頭の美しい鹿は、水を飲み、静かに立ち去って行った。
「……っくちっ!」
ぼうっとしたまま鹿の立ち去った森を見つめていたクロエが、小さくくしゃみをする。
ぶるっと身を震わせ、慌てて衣服の場所へ戻ると、タオルで体を拭いた。
衣服を身に着け、髪留めの紐を咥えながら髪をまとめる。
紐で髪を結わえながら、先ほどの光景を思い出して小さく笑うと、クロエは、相棒の待つグランドキャリアへと駆け戻った。
◇ ◇ ◇
高らかにモーターの音を響かせながら、ウィルとクロエを乗せたバギーは、森を抜け、街へ向かって走っていた。
昇りはじめた太陽は暖かく辺りを照らし、ウィルは大きく欠伸をする。
そんな中、クロエは小さなくしゃみをした。
「っくちゅっ!」
「なんだよ、風邪でもひいたか? 北へ向かったらもっと寒くなるんだぜ、気をつけろよ」
「う~平気。今朝ちょっと、湖で水浴びしたから」
「うへっ、この寒空に水浴びしたのかよ! クロエってほんと水浴び好きだよな」
ハンドルを器用に操作しながら、ウィルは苦いものでもかじったかのように舌をだし、眉根を寄せる。
人差し指の背中で小さな鼻をこすったクロエも、同じように眉根を寄せて反論した。
「だって、ウィルみたいにずっと体を流さなかったら臭くなっちゃうもん!」
「臭くねぇよ! クロエが匂いを気にしすぎなだけだぜ」
「そうかなぁ」
自分の両腕を持ち上げて匂いを嗅ぎ、そのあと体を伸ばしてウィルの肩の匂いを嗅ぐ。
確かに、ウィルからは嫌な臭いはしなかった。
いや、正確には独特の「ウィルだ」とわかる匂いはするのだが、それはクロエにとって嫌な匂いではないと言うことだ。
どちらかと言えば、好きな匂い。安心できる匂いと言えるだろう。
もう一度くしゃみが出そうになり、そのまま顔をウィルの肩にぐりぐりと押し付けたクロエは、今朝の出来事を思い出し、顔を上げた。
「……あ、それより聞いて! 今朝水浴びしてたら、すっごく大きな鹿の夫婦に会ったんだよ!」
「へぇ、そりゃあ惜しいことしたな。モーターガンで仕留めてくれたら、いい稼ぎになっただろうに」
「もう! ぜんぜんそんな雰囲気じゃなかったんだから。ウィルだって実際に見たらそんな気にならなかったと思うよ。すっごく神秘的なんだもん!」
「神秘的ねぇ。俺は肉が何日分の食料になるかと角がいくらで売れるかしか興味ねぇな」
「むー」
相棒のデリカシーのない言葉に、クロエは唇をとがらせてバギーの外へ顔を向けた。
風が髪をなびかせ、顔にまとわりつくそれをクロエは耳にかける。
ちらりとウィルの顔を横目で眺め、クロエは振り返ると、口を開いた。
「……ねぇ、ウィルは不思議に思ったことない?」
「なにが?」
「動物には全部男と女がいて、それぞれが夫婦になって子供を作るでしょ?」
「当たり前だろ」
「うん、当たり前なのに、どうして人間だけは男しかいないのかな」
「そりゃあ……人間は動物とは違う、選ばれた種族だからだろ」
それだけで説明は終わったとばかりに、ウィルは口を閉ざす。
しかし、クロエが言葉の続きを待っているのに気づき、少し考えた末に言葉を続けた。
「……人間は神に作られた男だけの種族だ。動物みたいに血にまみれた姿で、親を苦しめながら産まれたりしない」
「うん」
「子供は人間と天使との間にできるけど、天使はめったにこの世界には降りてこない。だから人間だけは動物と違って、神からの授かりものであるファウンテンから産まれてくるんだぜ。『神のつくりたもうた三つの宝。人の子、
「そう……だよね」
もう一度バギーの外へと視線を向けて、クロエは口をつぐむ。
相棒の顔に何か悩んでいるような表情を認めたものの、それに何も言ってやれないウィルは、ただバギーの速度を上げた。
カフルイの街の大きな門が視界に入る。
ウィルは街の地図を頭に思い浮かべ、思い出したように声を上げた。
「そうだ! たしか今から行くカフルイの街には『聖堂』ってのがあって、そこには昔の人が作った『天使』の像があるってよ。俺は見たことねぇけど、クロエが興味あるなら見に行こうぜ」
「へぇ……うん! 見たい!」
クロエに笑顔が戻る。
相棒につられるように笑ったウィルは更にアクセルを踏み込み、バギーは背の高い木々を従えたカフルイの街へと向かった。