第17話
文字数 2,986文字
床も柱も真っ白な大理石で作られた聖堂には、天井にはめ込まれたステンドグラスを通して、色とりどりの光が差し込んでいた。
大きく開け広げられた入り口を通り、礼拝する人々は皆一様に口を閉ざしている。
二人もその静謐 さに言葉を失い、ただゆっくりと歩みを進めた。
まるで動物の産道の様に急に狭くなった通路を抜け、一番奥へと至る。
突然開けた聖堂の深奥 には、グランドブレイカーほどもある巨大な天使像が、その美しい体を惜しげもなくさらしていた。
「わぁ……」
クロエの口から、思わず感嘆の声が漏れる。
天使像に目を奪われていたウィルが振り返ると、そこに居る相棒の顔は、なんだか天使像と似ているように思われた。
「すごい……」
「ああ」
「きれい……」
「……だな」
そのまま言葉を失い、クロエはただ一心に天使像を見つめ続ける。
さすがのウィルも同じように心を打たれたが、その視線は相棒の顔へと向けられ、まるで初めてその顔を見たとでも言うように、釘づけになっていた。
どれくらいそうしていただろう。
ふと視線を感じたクロエが振り返り、ウィルと目が合う。
何か心にもやもやとした感情が渦巻いたウィルは、気まずそうに視線を外し、踵 を返した。
「まったく、いつまで見てんだよ。俺は腹が減ってんだ、もう行くぜ」
「あ、ごめん。まってよ」
慌てて追いかけたクロエがつまづき、とっさにウィルの腕につかまる。
普段通りの何気ないそんな行動に、なぜか心臓が高鳴ったウィルは、顔を赤く染めた。
「あら、ウィルにクロエ。ひさしぶりね」
二人に声が掛けられたのは、ちょうどその時だった。
声の主はアンジェラ。
以前城塞都市デルリオで出会った男娼である。
「わぁ! アンジェラさん! お久しぶりです!」
天使の像と見まごうような美しい衣服に身を包んだアンジェラへと、クロエは駆け出した。
ウィルは、クロエが自分から離れたのを見てほっと胸をなでおろす。
しかし同時に少し残念な気持ちが沸き起こり、その感覚にまた、もやもやしたものを感じるのだった。
◇ ◇ ◇
朝食には遅く、昼食にはまだ早い。
そんな時間に食堂を使っている客はほとんどなく、ウィルたちは窓に面した暖炉のそばの一等席を確保することが出来た。
昨日はあんなに悩んでいたウサギ肉のシチューを、クロエはおいしそうに頬張る。
負けじと器ごと持ち上げて掻き込むウィルたちを面白そうに見ながら、アンジェラは北方特産の赤黒い果実酒のグラスを傾けた。
「ここで会えるとは思わなかったわ。あなたたちとは縁があるのね」
「ですね!」
「だな。クロエが朝飯の前に天使を見たいって言いださなきゃ、同じ街に居てもすれ違いになってたかもしれねぇしな」
「そう。天使の像を」
「はい。なんかうまく言えないけど、……すごかったです」
「そうね。天使は太古の昔に人間から奪われた半身。居 な い は ず の『人間の女性』の姿だって言われてるわ。例え人が作ったまがい物の像でも、あなたたちは見ておかなくちゃいけないものよ」
「へぇ、あんなキレイなメスが居たら、取り合いになってあちこちでケンカになりそうだな。居なくてよかったぜ」
「もう! ウィルってばメスなんて言い方して!」
「……ふふ、ウィルの言うことも一理あるわね」
「ええ? アンジェラさんまで?」
「もちろん、天使を『メス』なんて呼ぶのは感心しないけど、人間に女性が居たら、争いのもとになっていたかもしれないってことよ」
「そうかなぁ。ぼくは美しい天使さまが居たら、天使を中心に世界はまとまって、もっといい世界になってると思う」
「……そうね。そう考えた方が素敵だとあたしも思うわ」
「クロエの考えはほんと甘いぜ」
自分の考えをウィルには一蹴され、アンジェラには暗に理想論だと言われた気がして、クロエはシチューを口に運ぶ。
もぐもぐと柔らかなウサギの肉を咀嚼していると、今朝の出来事を思い出した。
あわててシチューをごくんと飲み込み、クロエはアンジェラに鹿の夫婦に出会ったことを興奮気味に話して聞かせる。
それを聞いたアンジェラは、クロエの目を見つめながら思案顔になった。
「アンジェラさん?」
「クロエ、鹿と言うのは生命を暗示しているの。天使を見たのもそう。これはあなたに『生命の誕生に関する啓示』が降りる予兆かもしれないわ」
「生命の……誕生?」
「へぇ、アンジェラさんって占いとかもやるんだ」
「まぁ、ね。前にも言った通り、あたしはもともと神聖娼婦 なのよ。聖堂での秘 密 の 儀 式 で天使をこの身に落とし、天使の言葉を世界に告げる。そんなことをね、ずっとやってたの」
アンジェラは悲しげに笑い、果実酒を口に運ぶ。
その言葉と表情に、なにかこれ以上踏み込んではいけない疵 のようなものを感じ、クロエは口を閉ざした。
しかし、そんな言葉の機微などとは無縁のウィルは残りのシチューを飲み込むと、身を乗り出す。
未だ経験のない12歳の少年にとって、噂で聞いたことしかない『男娼 』と言う仕事は、とても興味深いことのようだった。
「それ、聞きたかったんだ。師匠たちに『一人前になってからだ』って止められて、みんなが娼館に行くとき、俺は連れて行ってもらえなかったんだけどよ、神殿とか娼館でやる『秘密の儀式』って、結局どんなことするんだ?」
「ウィル!」
クロエは顔を赤くして周りを見渡す。
幸い、ガラガラの食堂でウィルたちの会話を聞いている者の姿は無かった。
「なんだよ! クロエも知ってるのか? だったら教えてくれよ。天にも昇る気持ちだって言うじゃんか」
「知らないよ! バカ!」
「なんだよバカって!」
二人の言い争いを面白そうに聞いているアンジェラの背後、中央広場の方から、独特の短いメロディが流れたのはその時だった。
往来を行き来する人たちの何人かは立ち止り、帽子を脱いで黙とうする。
しかし、それ以上の何かをするでもなく、人々はすぐに元の生活へ戻って行った。
言い争いから掴み合いに発展しそうになっていたクロエが振り返り、ウィルに向き直る。
「……なぁに、今の?」
「あ? ファウンテンから新しい人間が産まれるんだろ。俺の街のと同じチャイムだぜ」
「え? 人間が産まれるの?!」
「ああ、珍しくもねぇだろ。それより娼館ってよ――」
「見たい! 見に行こうよ! ウィル!」
自分の子供でもないのに、そんなに珍しくもないものを見に行く必要もないと切り捨てるウィルだったが、クロエに何度も頼まれ、アンジェラからも、これが『生命の誕生に関する啓示』かもしれないと諭されると、しぶしぶ席を立った。
食堂に前金を支払い、すぐに戻ると言い置いてファウンテンへと向かう。
クロエは両手でウィルの手を引き、道を急いだ。
その姿は微笑ましく、さっきまで言い争いをしていた二人にはとても見えなかった。
大きく開け広げられた入り口を通り、礼拝する人々は皆一様に口を閉ざしている。
二人もその
まるで動物の産道の様に急に狭くなった通路を抜け、一番奥へと至る。
突然開けた聖堂の
「わぁ……」
クロエの口から、思わず感嘆の声が漏れる。
天使像に目を奪われていたウィルが振り返ると、そこに居る相棒の顔は、なんだか天使像と似ているように思われた。
「すごい……」
「ああ」
「きれい……」
「……だな」
そのまま言葉を失い、クロエはただ一心に天使像を見つめ続ける。
さすがのウィルも同じように心を打たれたが、その視線は相棒の顔へと向けられ、まるで初めてその顔を見たとでも言うように、釘づけになっていた。
どれくらいそうしていただろう。
ふと視線を感じたクロエが振り返り、ウィルと目が合う。
何か心にもやもやとした感情が渦巻いたウィルは、気まずそうに視線を外し、
「まったく、いつまで見てんだよ。俺は腹が減ってんだ、もう行くぜ」
「あ、ごめん。まってよ」
慌てて追いかけたクロエがつまづき、とっさにウィルの腕につかまる。
普段通りの何気ないそんな行動に、なぜか心臓が高鳴ったウィルは、顔を赤く染めた。
「あら、ウィルにクロエ。ひさしぶりね」
二人に声が掛けられたのは、ちょうどその時だった。
声の主はアンジェラ。
以前城塞都市デルリオで出会った男娼である。
「わぁ! アンジェラさん! お久しぶりです!」
天使の像と見まごうような美しい衣服に身を包んだアンジェラへと、クロエは駆け出した。
ウィルは、クロエが自分から離れたのを見てほっと胸をなでおろす。
しかし同時に少し残念な気持ちが沸き起こり、その感覚にまた、もやもやしたものを感じるのだった。
◇ ◇ ◇
朝食には遅く、昼食にはまだ早い。
そんな時間に食堂を使っている客はほとんどなく、ウィルたちは窓に面した暖炉のそばの一等席を確保することが出来た。
昨日はあんなに悩んでいたウサギ肉のシチューを、クロエはおいしそうに頬張る。
負けじと器ごと持ち上げて掻き込むウィルたちを面白そうに見ながら、アンジェラは北方特産の赤黒い果実酒のグラスを傾けた。
「ここで会えるとは思わなかったわ。あなたたちとは縁があるのね」
「ですね!」
「だな。クロエが朝飯の前に天使を見たいって言いださなきゃ、同じ街に居てもすれ違いになってたかもしれねぇしな」
「そう。天使の像を」
「はい。なんかうまく言えないけど、……すごかったです」
「そうね。天使は太古の昔に人間から奪われた半身。
「へぇ、あんなキレイなメスが居たら、取り合いになってあちこちでケンカになりそうだな。居なくてよかったぜ」
「もう! ウィルってばメスなんて言い方して!」
「……ふふ、ウィルの言うことも一理あるわね」
「ええ? アンジェラさんまで?」
「もちろん、天使を『メス』なんて呼ぶのは感心しないけど、人間に女性が居たら、争いのもとになっていたかもしれないってことよ」
「そうかなぁ。ぼくは美しい天使さまが居たら、天使を中心に世界はまとまって、もっといい世界になってると思う」
「……そうね。そう考えた方が素敵だとあたしも思うわ」
「クロエの考えはほんと甘いぜ」
自分の考えをウィルには一蹴され、アンジェラには暗に理想論だと言われた気がして、クロエはシチューを口に運ぶ。
もぐもぐと柔らかなウサギの肉を咀嚼していると、今朝の出来事を思い出した。
あわててシチューをごくんと飲み込み、クロエはアンジェラに鹿の夫婦に出会ったことを興奮気味に話して聞かせる。
それを聞いたアンジェラは、クロエの目を見つめながら思案顔になった。
「アンジェラさん?」
「クロエ、鹿と言うのは生命を暗示しているの。天使を見たのもそう。これはあなたに『生命の誕生に関する啓示』が降りる予兆かもしれないわ」
「生命の……誕生?」
「へぇ、アンジェラさんって占いとかもやるんだ」
「まぁ、ね。前にも言った通り、あたしはもともと
アンジェラは悲しげに笑い、果実酒を口に運ぶ。
その言葉と表情に、なにかこれ以上踏み込んではいけない
しかし、そんな言葉の機微などとは無縁のウィルは残りのシチューを飲み込むと、身を乗り出す。
未だ経験のない12歳の少年にとって、噂で聞いたことしかない『
「それ、聞きたかったんだ。師匠たちに『一人前になってからだ』って止められて、みんなが娼館に行くとき、俺は連れて行ってもらえなかったんだけどよ、神殿とか娼館でやる『秘密の儀式』って、結局どんなことするんだ?」
「ウィル!」
クロエは顔を赤くして周りを見渡す。
幸い、ガラガラの食堂でウィルたちの会話を聞いている者の姿は無かった。
「なんだよ! クロエも知ってるのか? だったら教えてくれよ。天にも昇る気持ちだって言うじゃんか」
「知らないよ! バカ!」
「なんだよバカって!」
二人の言い争いを面白そうに聞いているアンジェラの背後、中央広場の方から、独特の短いメロディが流れたのはその時だった。
往来を行き来する人たちの何人かは立ち止り、帽子を脱いで黙とうする。
しかし、それ以上の何かをするでもなく、人々はすぐに元の生活へ戻って行った。
言い争いから掴み合いに発展しそうになっていたクロエが振り返り、ウィルに向き直る。
「……なぁに、今の?」
「あ? ファウンテンから新しい人間が産まれるんだろ。俺の街のと同じチャイムだぜ」
「え? 人間が産まれるの?!」
「ああ、珍しくもねぇだろ。それより娼館ってよ――」
「見たい! 見に行こうよ! ウィル!」
自分の子供でもないのに、そんなに珍しくもないものを見に行く必要もないと切り捨てるウィルだったが、クロエに何度も頼まれ、アンジェラからも、これが『生命の誕生に関する啓示』かもしれないと諭されると、しぶしぶ席を立った。
食堂に前金を支払い、すぐに戻ると言い置いてファウンテンへと向かう。
クロエは両手でウィルの手を引き、道を急いだ。
その姿は微笑ましく、さっきまで言い争いをしていた二人にはとても見えなかった。