第11話 アパートの手記

文字数 8,637文字

 記しておこう。忘れないために。あなたが私にしたこと、私があなたにしたことを。忘れられる? あなたのことを? いつか記憶は薄らいでいくのだろうか? あなたよりいい男に会えた、と言える日がくるだろうか? 創作だから名前は……どうしよう?
 思い出せば体が熱くなる。なんという、自分勝手で怒りっぽく、みだらな男だったろう。長い間の私の思慕を粉々に打ちくだき辱めた。 

 もう最後だ、そう思いながら訪れたアパート。インターフォンがないからドアを叩く。あなたは出てきた。私は小さな玄関に女物の靴がないことを喜んだ。
 女でもいたら諦めるのに、いや、よく女生徒が噂していた、先輩はゲイだって……男でもいたら笑ってやろうと思った。
 私は勝手に中に入った。なぜこんな部屋に? と思うような部屋だった。暑い。エアコンがない。あなたは涼しい顔をしている。
「本当に来たのか? ゴキブリに会いに?」
ゾクっとした。
「どうしてこんな部屋に?」
「こんな部屋で悪かったな。金がないんだ」
 初めからひどい男だった。高校1年のとき、廊下でプレゼントを渡そうとしたら拒絶した。おとうさんによ、と言ったら少し罰が悪そうで面白かった。あれほど無視されなければこれほど惹かれなかったのではないか? 
 そのあとのことは、異常だ。
 私は虫カゴから出したゴキブリ? を手の甲に乗せられ悲鳴を上げた。手を振り落とす。あなたは大声で笑う。それを拾い上げ顔につけようとした。なにをされるよりも嫌だった。私が叫ぶとあなたはそれをカゴに戻した。
「無知だな。クワガタだよ。よく見てごらん。かわいいよ。子供の頃は宝物だった」
「近づけないで。向こうへやって」
「幻滅しただろ? 帰ったら?」
「子供ね。見かけとは大違い」
「よく言われる。ちょっとは涼しくなった?」
 私は部屋を見回した。テレビもない。小さなキッチン、小さな冷蔵庫には牛乳と味噌だけ。おかしくなった。炊飯器には冷やご飯。インスタントコーヒーに粉末ミルクと砂糖……

 そのときノックの音がした。なにが起きたのかわからなかった。あなたが出るまでドアは激しく叩かれた。私はひとりの刑事に表に出された。下に止めてある車の中で聞かれた。あなたのこと。なんなの? なにをしたの? 質問に答えていく。高校の先輩です。ええ、付き合っています。結婚するかって? そんなことわからないわ。親も知ってます。ええ、会ったこともあります。
 部屋に戻るとあなたは礼儀正しく頭を下げふたりの刑事は出て行った。
「通報があったらしい。まわしをしてるって。君が大声出すからだよ」
「……まわしってなに?」
そう聞くとあなたは笑い出した。
「知らなくていい。ひどい経験させたな。もう懲りただろ? もう僕には近づかないほうがいい」
私は首を振った。
「帰ってくれ。今日は疲れた。もう大声出さないでくれ。ここにいられなくなると困るんだ」

 翌日私は同じ時間に行った。あなたは予感していたようだった。昨日のお詫びに、とアイスクリームを渡すと中に入れた。
「お詫び?」
ふたりでアイスクリームを食べた。
「僕が怖くない? 気持ち悪くない? 変態だよ。僕は」
「どう変態なの?」
「スカトロ趣味なんだ。父には内緒だよ」
「なにそれ?」
「まったく無知だな……トロの1番おいしいところ」
「どうしておとうさんに内緒なの?」
「父は嫌いなんだ。食べられない」
あなたは笑い出した。しばらく止まらなかった。
 そのあとは静かに音楽を聴いた。それでも思い出し笑う。
「音楽室で生で聴きたかった」
「1度も来なかったくせに」
「行ったわ。いつも廊下で聴いてた。顔を見れば無視をした。不機嫌になった。どんなに悲しかったか、寂しかった、悔しかった」
あなたの隣に足を投げ出し座った。そこで初めてあなたは私のことを聞いた。
「ピアノは習わなかったの?」
「習ったけどすぐやめた。練習してると眠くなって」
あなたはまた吹き出した。
「母は呆れた。自分ができなかったから習わせたかったの」
「……獣医になるの?」
「無理よ。私はバカだから。獣医の助手なんて嘘。雑用と掃除。母に似たらよかった。呆れられたわ。どうしてできないの? って。母はあなたのおとうさんより勉強ができたのよ」
「父の話はやめてくれ」
なにがあったのかは聞けなかった。 
「よくH高に入れたな」
「母の執念。入ってからはいつもぎりぎり」
 私はあなたの肩にもたれた。よせよ、とも言わない。あれほどギラギラした目で私を憎んでいたのに。昨日とは違う。覇気がない。自信がない。
「銭湯行ったの?」
「バイトのあとシャワー浴びた」
「なんのバイト?」
「引っ越し」
「あなたが? 家庭教師とかじゃなくて?」
「力ついたよ」
「ピアノ、教えればいいのに……なんの曲?」
「知らない? ベートーベンのソナタ1番」
「私は無知だから」
「眠くなる?」
あなたは音量を上げた。激しい曲に変わる。
「ぞくぞくしない?」
「好きな曲なの?」
「そうだな」
曲は変わる。
「なんの曲が1番好きなの? 得意なの?」
「ハノン……なに、それ?」
あなたはバカにして笑う。
 そのときテーブルの上の携帯が鳴った。聞いたばかりの激しい曲の着信音。あなたは出なかった。切れて再び鳴る。私は取り上げ出た。
「ユカよ。久しぶり」
あなたは私から取り上げる。ユカは酔っているようだ。声が漏れ聞こえた。
「酔ってるわよ。来てくれなきゃ全部飲んで死んでやる」
あなたのため息。私はテーブルを片付けた。
「圭ちゃんが邪魔したのよ。圭ちゃんが幸子さんに頼んだのよ。圭ちゃんが欲しいのは私の家と財産。来てくれなきゃ飛び降りるわ」
電話は切れたようだ。あなたは考えている。無視するわけにはいかないようだ。私はバッグを持ち部屋を出た。あなたはなにも言わなかった。
 陰から見ていた。あなたは少しすると出てきた。駐車場に停めてある車に乗り去る。私のことなど少しも気にしていない。
 諦めの悪い女。毎日、動物病院の外で待っているのでは? と期待した。いったいなにを好きだというのだろう? よく知りもしないのに。父親から聞いたあなたの生い立ち、幼いあなたがかわいそうで愛しくてならない。

 ひと月が過ぎた。あなたから会いに来ることはない。偶然も滅多にありはしない。
 9月の彼岸、私はあなたのアパートの周りを歩いた。駐車場に車はなかった。出かけているのか? 実家に帰っているのか? そこだけ時代に取り残されたような古い建物。ああ、そういうことか。近くを散策したがラーメン屋はなかった。花屋があった。
 バラのアレンジメントを買って再び訪れた。車は駐車してあった。あなたはひと月前と同じようにドアを開け私は勝手に入った。玄関に女物の靴はなかった。
「男のところへバラの花か?」
「お彼岸だから、おかあさんに」
ふれられたくない話題だろう。かまわず私は買ってきた花を飾った。アレンジメントだからそのまま置くだけでいい。
「おかあさん、バラが好きだったんでしょ? お墓参りにも行ってないんでしょ?」
「君はそんなに詳しいのか? そんなに父と話したのか?」
「おかあさんが住んでた部屋でしょ?」
図星だ。やはり。
「あなたのことはなんでも聞きたかった。おとうさんも来たことがあるのね」
「君のが詳しそうだね。父は僕とは話さない。この15年、ほんの少ししか話してない。何ページも、何行も話してないよ。君は父の愛した人の娘か。それも愛した人そっくりの娘。嬉しかっただろうね。父は。僕も女だったら愛したんだろうか? 母そっくりだから」
「おとうさんはあなたのこと愛してる。よく聞かれたわ。学校での様子。音楽室でピアノを弾いて女生徒が何人も聴いてるって教えたら嬉しそうだった。真希さんのことも話した。意外そうだった。あなたが優しい息子で喜んでたわ。おとうさんはあなたを愛してる。とても」
不覚、不覚にもあなたは涙を流した。ぬぐうとバレるからぬぐわない。私は思わず抱きしめた。あなたの頭を抱き私の胸に寄せた。
 しばらくそうしていた。私はあなたの髪を撫でた。そうしていればいいのに、子供じみた男はまた言った。
「そこにゴキブリが……」
驚いて離れる。あなたは泣いたことを恥じ笑う。
「いいね。その表情」
それからあなたは復讐をしようとした。あなたの涙を見た復讐。恥ずかしい思いをさせた復讐を。そう思ったのに……
 待ち望んでいたこと。あなたのために誰にもふれさせなかった唇を……
 途中でやめた。理性が勝ったのか? 私に魅力がないのか? 
 今日が最後……私は誘惑した。服を脱いで誘惑した。奮発した下着なのに……
「僕は目で発情しない」
意地悪な言葉。そんな場面は何度も経験してきたのだろう。
「こんなことは日常茶飯事なの?」
「当然だろ。このあいだもユカが……女ってすごく変わるんだな。田舎から出てきた素朴な子が1年で別人になってた。ぽっちゃりした子だったのにボクシングなんかやって、スタイルよくなってた。化粧がうまくなって、好きだった訛りはなくなってた。おまけに強くなってた」
あなたは笑い出した。
「弱々しかった子が強くなってた。僕は押し倒され逃げ出したよ。トイレに入って鍵かけた。襲われないように」
あなたは堪えきれずに笑う。口を押さえて吹き出す。
「下痢してるって、1時間もトイレにこもってた。出たらユカはソファで眠ってた」
「どういう人なの?」
「好きな男の婚約者」
「……」
「好きだったな。かっこよかった」
「男のほうを好きだったの? だから……勃たないの?」
あなたは答えず少し笑った。
「……ホントに……食べたりするの? トロの1番おいしいところ」
「君は無知なのか、それとも僕の上をいってる?」
私は下着をはずそうとした。あなたは止める。
「ED なんだ」
「なにそれ?」
「まったく」
あなたは窓辺に立ちうしろを向いて話した。
「春に年上の女と付き合ってた。いや、もてあそばれたんだ。子供の頃よく家に来てた亜紀の従姉妹。ひとまわりも年上。
 父の部下と婚約してた。結納までして破談。原因は父だよ。ずっと父を愛してた。父は相手にしなかった。1度家庭をこわしてるからな。
 彼女はずっとひとり暮らしで仕事に生きていた。父親が病気で郷里に帰ることになって、10年ぶりに僕の家に滞在した。父の書斎で父の本を開いて父の好きな曲を聴いてた。目を閉じて。声をかけると驚いて僕を見た。
 わかるか? 僕は父にそっくりなんだ。声も話し方も。
 僕は父の代わりだった。彼女は誘惑した。ずっと目を閉じていた。
 誘惑されたんだ。父の代わりに。
 君は僕の知られたくないこと知ってるから憎かった。放っておいてほしいのにズカズカと」
 私はくしゃみをした。あなたは振り向き下着姿で携帯をいじっている私を見て呆れた。
「寒気がするの。休ませて」
 仮病なのに信じたようだ。額に手を当て自分のTシャツを出してきて着せた。
「あなたが帰ってくるまで外を歩いてたの。薄着だから寒かった。めまいがする……」

 私は薄い布団に寝かされた。あなたは何度か私の額に手を当て、家に電話しようか? と言ったが結局様子を見た。父親の愛した女に連絡するのは躊躇した。
 夜中にあなたは布団の横で眠っていた。今はレム睡眠か、ノンレム睡眠か? 私は時間が過ぎるのを待った。
 明け方、薄いカーテン越しに部屋は薄明るくなってきた。あなたの寝顔を見た。ため息が出るほどきれいな男だ。高1の夏、余興で女装させられたという。演劇指導の先生さえ驚いたという。
 私は調べた通りにした。明け方のレム睡眠時の生理的な早朝勃起……
 あなたの悩みを克服するために私は行動した。
 あなたは大胆な私に驚き、自分の変化を喜んだ。手の中で息を吹き返してゆく。口の中で……あなたは私の髪を撫で頭を押し付け離した。
 Tシャツが脱がされる。下着も……シャワー浴びてないのに、トイレも我慢しているのに……
 あわただしく避妊具を付け私の上にかぶさる。
「明るすぎるわ」
唇が塞がれそれ以上の文句は言えなかった。優しくふれたあと舌が絡む。朝日が眩しい。
「眩しいわ」
眩しすぎるなかで全裸のふたりが絡み合う。やがて、終わる。喘ぎ声は曖昧だ。痛いのか快感なのか? 耐えて耐えて耐えた。瞬間出た言葉は、ママ、だった。
 あなたは体を離し朝日にくらっとして突っ伏した。呼吸が荒い。
「大丈夫? 英幸……」
なぜ私が心配を? こんなときに?
「ママ、なんて言ったの?」
「?」
「ママって言ったろ? こんなときに?」
「……安心して。責任とれなんて言わないから。花開き折るに堪へなば 直ちに 須く 折るべし」
「……君は? バカなふりをしている? 君の話は嘘だと思ったけど、まさか……virginなんて。今まで、あげようって思った男はいなかったのか?」
私はしがみつく。
「あなたこそ、EDなんて嘘ついて」
「その話は終わり。最初からやり直しだ」
 夜明けのコーヒー。あなたが入れてくれたコーヒーはおいしかった。あなたは自慢した。
「うまいだろ? 粉末ミルクと砂糖の微妙なバランス」

 デートからやり直し。映画を見て食事する。私は誘惑する。シャーロック ホームズを見ながら腿にさわる。
 初めてふたりでテニスをした。いつかあなたと打ち合いたかった。そのために私はテニスをしていた。でも全然かなわなかった。私はコート中走らされ汗だくに。ベンチで息も絶え絶え。意地悪なあなたの手を取り胸に当てた。
 海を見に行った。誰もいない海で私はあなたを誘惑した。青空の下、あなたは私を……
 お行儀のいいデートは終わった。海辺のホテル。BGMは波の音。2度目も痛かった。あなたは別人のように優しい。
「まだ痛い?」
「また出血したかも……」
あなたの顔が引きつる。
「トラウマ?」
あなたは話さない。
「愛してるから大丈夫」
あなたは返せない。僕も……と言わない。愛していないから。嘘もつけない。誤魔化しもしない。私の額に感謝のキス。
 あなたはベランダに出て真下の海を眺める。寒いのに戻らない。私を置き去りにして波の音を聞いている。私はあなたの肩にコートをかけた。
「母は海で溺れている子供を助けて死んだ。どうしているだろうな? 助けられた子は? 彩と同じ歳の女の子だ」
「知っているのかしら? 自分のために亡くなったって」
「……重荷だろうな」
あなたは部屋に戻った。冷え切った体を私は温めた。
「冷え切ってるわ。心も」

 古いアパートにこもる。BGMはベートーベンのソナタ。1番から流れる。
 指が……痛い。我慢する。愛しているから。愛していなければ耐えられない。愛がなければ暴力……ママ……かわいそうなママ……喘ぎ声は曖昧だが……あなたは私の涙に驚き謝った。
「乱暴にしてごめん」
「幻想……」
「よく知ってるね。13番だよ」
「レディースコミックよ。嘘と幻想……私が不感症なの?」
「ごめん。期待はずれ? 僕の知識も幻想。ひとつだけ勉強になった。アポリネール。喜びのあとには……」
「ミラボー橋? ミラボー橋、歌って。音楽室で聴いてた」
あなたは口ずさむ。フランス語で。指が奏でる。おなかの上を。流れるように……
「アポリネールは金のために猥褻な小説も書いた。姉や叔母、召使達と手当たり次第……。喜びのあとには、妊娠させる。亜紀にしつこく言われた。外出するたび……喜びのあとには? 合言葉のように」
「うちはタブーだった。だからすごく無知だった」
「アポリネールはスペイン風邪で死んだ。30代で。僕も早死にかな。母が早かったから」
「あなたは長生きするわ。私たちの子供がH高で出会うまで」
「なに言ってるの?」
「あなたの子と私の子が恋をするの。ありえるわよ」
「男同士だったりして……突拍子もないこと言うなよ。どう? ダイヤモンドポイント、前の洞窟。指の逍遥、散策……僕は下手だ。経験も少ないし。眠られたことがある」
あなたは思い出したのか、吹き出した。
「一生懸命……したのに……眠られた」
「……愛してたの?」
「そうだな。ふられた」
「下手だからふられたの?  痛い」
「どうしたらいい? 言うとおりにしてやる」
「……そばにいるだけでいいの。声を聞いてるだけで。女は声に発情する」
あなたはまた吹き出した。
「男は目で、女は耳で恋をする……だろ?」

 ふたりだけの世界。建て替えの決まったアパートから住人は消えていく。
「年内で引っ越すの?」
「ああ、一緒に探そう。風呂のある部屋」
年内か。ちょうどいい。それまであなたは私のもの。
「隣も下もいなくなった。このアパートには僕たちだけ。大声出しても聞こえない」
あなたは歌う。音楽の時間に習った、
Catari Catari……
イタリア語でつれない心を情感込めて。
「歌も上手なのね」
「父はもっとうまいよ。聞き惚れる」
私を抱きしめ歌う。今度は英語で。私は夢見心地。はっきり聞き取れるのは、
Don't give up.

 あなたの舌の逍遥。もう電気も消さない。恥ずかしがるとさらに明るくした。リモコンを奪おうとする私をうつ伏せにした。
「和樹が悔しがるだろうな」
「……」
「和樹の愛した女を僕が……」
憎んでいるの? 和樹を? 夏生はあなたを愛しているのに。あなたも夏生を愛している……私とは……なりゆきと責任、性欲処理……
「卒業前に和樹に告白された。好きな人がいるって言ったわ。H高の先輩の……」
「だから和樹は同じクラスになった夏生に近づいた。僕がどんな男か見たかったんだろうな」
「そして、夏生に夢中になった」
「惚れっぽい男だ」
あなたは私を憎んでいる。私のせいで幼なじみを奪われたと思い込んでいる。
「うしろの洞窟」
暴れるとあなたは面白がった。
「大声出すとまた通報されるよ」
「アポリネールは嫌い。嫌い。大嫌い」
ふたたび仰向けにし謝った。
「和樹はもてただろ? 君は女子に恨まれなかった?」
「そうね。歌もうまかったし、ピアノも弾けたし」
「和樹がピアノを?」
「文化祭では伴奏してた。あなたに言えるわけないわ。レベルが違うもの」
「ピアノにテニス、夏生と話が合うな」
「テニス部は私がいたから入ったのよ」
「あいつは目で恋をする」
「そうよ。和樹が好きになったのは外見だけ。褒められるのは顔だけ。なんの取り柄もない。バカだし無知だし、詩も音楽も理解できない」
あなたは驚いたようだ。
「しかたなく付き合ってる。つきまとわれて……和樹への腹いせに……」
終わりにするチャンスだ。喧嘩をふっかけて別れる。
「退屈でしょ? セックスも? 私が欲しいのはあなたの心よ。でもそれは叶わない。一生無理……」
「一生、そばにいろよ」
ひとことで私は泣き崩れた。電流が走った。あなたは私を抱き寄せもう1編サービスした。

「木の葉が落ちる 落ちる 
 遠くからのように
 大空の遠い園生が枯れたように
 木の葉は否定の身ぶりで落ちる

 そして夜々には 重たい地球が
 あらゆる星の群れから寂寥のなかへ落ちる

 われわれはみんな落ちる この手も落ちる
 ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ

 けれども ただひとり この落下を
 限りなくやさしく 
 その両手に支えている者がある」

「知らない。無知だもの」
「リルケの秋。葉月は旧暦では秋だ。限りなく優しく君に支えられている」
「あなたの声と言葉に……」
「発情した?」

 私は覚えた文章を披露する。
「情熱恋愛の専門家たちが口をそろえて僕らに教えてくれる。障害のある愛以外に永遠の愛はないと。闘争のない情熱はほとんどない、と」
あなたは驚いて私を見た。
「君はカミュを読むのか?」
「家にあったの……」
「おかあさんの本? 父と語り合ったんだろうな。続きは?」
「忘れちゃった」
あなたは笑って続きを言う。
「そうした愛は死という究極の矛盾のなかではじめて終わるものだ。ウェルテルであるかしからずば無か、そのどちらかだ」
「あなたはなんでも知ってるのね」
「障害のある愛か。たいした障害ではない」

 しだいにカーテンの薄さも気にならなくなる。シャワーを浴びていないことも。
「嫌いだ。ミサワのボディーシャンプーの香り。最初の動物の匂い、ムラムラした」
「変態」
「香水にはうんちを薄めて入れるんだよ」
「うそ」
布団からはみ出し私たちは絡み合う。あなたの汗が私の頬に落ちる。呼吸が乱れる。愛されたら……素敵だけれど……あなたにはテニスと同じ……
「僕たち。もう、離れられない……」
「……」
「私もって、言えよ」
「……バイブで充分」
あなたは憤慨し笑った。
「この口からそんな言葉が出るとはね。なんの漫画?」
「映画よ。ねえ、駅弁てなに?」
「駅弁?」
「駅弁の蓋に付いたご飯粒を食べ昨夜のことを思い出した……」

 あなたのおかあさんが好き。
 あなたのおとうさんも好き。

「一緒に住もう。結婚しよう。おかあさんは反対するだろうな」
あなたは私を抱き抱えた。私は腕を首に回した。32番が終わる。4回目だ。アパートで過ごした40時間。
 離れなきゃ、もう。
 亜紀さんにみつかる前に。
 私は覚えてきた詩を暗唱した。

退屈な女よりもっと哀れなのは悲しい女です
悲しい女よりもっと哀れなのは不幸な女です
不幸な女よりもっと哀れなのは病気の女です

 あなたは衝撃を受けた。私を離すと携帯を取った。
「どうしたの?」
「バカな、そんなことって……」
あなたは震えた。同時に携帯が震えた。

 死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女です

(マリー ローランサン 『鎮静剤』より)
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