第18話 希望

文字数 4,454文字

 疑惑をそのままにし年を越した翌年の春、
「H高の入学式にいかないか?」
父が僕を誘った。夏生との結婚が決まった年の4月、僕は26歳になっていた。
「来賓?」
「いや、知り合いの娘が新入生代表で挨拶をする。中学のディベートコンクールで優勝した」
 知り合いの娘……詳しいことは言わなかったが予感はあった。娘の入学式にはいかないくせに……父とふたりで出かけたことはない。母校を訪れるのを断る理由もない。 
 近くのパーキングに車を停め歩いた。M橋。回想した。マリーのこと。10年前が蘇る。父も思い出しているのだろうか? 葉月の母親のことを……
 校舎は建て替えられていた。マリーと過ごした教室はもうない。マリーは知っているのだろうか? 3年間、君のことを思い通った校舎はもうない。
 保護者席の後ろの方に座った。知っている教師はいない。式の流れは変わらない。新入生代表の挨拶。僕は圭を思い出す。会場がざわめいたあと静かになった。思わず座り直した。そうする者が多勢いた。正座して聞きたいくらいだ。15歳の娘がライトを浴びた。映し出された異様な……顔。見るからに先天性の奇形だとわかる。何度か整形したのかもしれない。筋肉が未発達なのか、話している表情は凝視に……見ているのが辛い。しかし見なければ失礼だ。

「金縷の衣は再び得べし、青春は得べからず……これは私の恩人が教えてくれました。青春とは無縁だと思っていた私に、顔を上げ前を向け強くなれ、と励まし叱ってくれました……」

 よく通る声、天は魅力的な声を彼女に与えた。
 あとはとてつもない努力のみ……
 父の知り合いの娘……父は言わなかったが。僕の頬に涙が伝わる。悲しみの涙はコントロールできるが……感動した時の涙は抑えが効かない。父にバレないよう汗を拭くふりをした。バレているだろうが。

 彼女、望の挨拶は校長より来賓より、誰よりも素晴らしかった。惜しみない拍手。この高校生活、彼女は明るく過ごしていくだろう。

 生徒達が教室に戻ったあと、父は彼女の母親に僕を紹介した。どういう知り合いなのかは話さない。1度聞いたが答えはなかった。2度聞く習慣は父との間にはない。彼女を強く育てた母親には誰もが敬意を払う。
 父と話せないことを僕は亜紀に話す。どういう知り合いか聞いた。亜紀は珍しく言葉を濁した。
「彩と同じ歳なのに……あの子を見たら彩の悩みなんか吹き飛ぶわね」
 
 夏、眼医者に通った。検査があるからバスで。学生には夏休みだ。そのバスにあの娘が乗っていた。すぐに気付いた。混んだ車内。顔を隠さず堂々としていたが……子供が泣き出した。怖いよー。少女はマスクをし、サングラスをかけた。
「怖い思いさせてごめんね」
マスクには子供が喜ぶキャラクターが描いてあった。子供は泣き止んだが、少女は停留所で降りた。まだ駅ではないのに。僕はあとを追いかけていた。少女は駅までの2停留所を歩いた。マスクを外した気配はない。傷ついているのだろう。生まれてから15年。数え切れないほどひどい扱いを受けたに違いない。彼女を見ればどんな不細工な顔だろうが感謝するだろう。夏生の傷も僕の過去も足元にも及ばない。
 僕はあとをつけ改札口まで見送った。夏休みの部活だろうか? 得意のディベート部か?
 3度、同じことが続いた。彼女も僕の存在に気が付いた。改札口で振り返る。11歳年下の、彩や春樹と同じ年の娘。薄幸とはいうまい。強い女だ。あの母親も。

 もう眼医者に通うことはなくなった。仕事の帰り、僕は信じられないものを見た。彼女が停留所に座っていたのだ。僕の乗った停留所を彼女は覚えていたのだろう。夏の夕方、僕は車で通り過ぎもう1度戻った。間違いなく彼女だ。間違うわけがない。目が合った。ごく自然に彼女は乗ってきた。ごく自然に僕は車を走らせた。 
英幸(えいこう)さんでしょ? 三沢さんの息子さんの……幸子さんの息子さん」
「母を知っているの?」
「おかあさんは、私を助けて亡くなったのよ」
驚き声の出ない僕の横で彼女は話す。田舎の海で出会ったふたりの母親。春樹を抱いていた僕の母。同郷の母親は娘と心中しようとしていた。娘が生まれると父親は出ていった。母は身の上話を聞き励ました。しかし母親は娘を連れて海に入った。波がふたりを引き裂くと母親は助けを求めた。水泳の得意な僕の母が助けた。命と引き換えに。

 ずいぶん遠くまで来てしまった。パーキングで休み飲み物を買った。背筋を伸ばし堂々と歩く娘を行き交う人が驚きを隠さない。僕は彼女の手を握った。父もそうしてきたのだろう。
 外のベンチでコーヒーを飲んだ。夜のとばりが彼女を隠した。
「私を憎む?」
「……もう、母が生きていたことのほうが嘘のようだ……」
自然に僕は肩を抱いた。
「無条件で……許す。尊敬する。もっと早く会いたかった。君の力になりたかった」
「亜紀さんが子犬をくれた」
「義母が子犬を?」
「素敵なおかあさんね。おとうさんも」
「……僕は君の兄になるよ」
彼女は涙を流した。
「感情のないことの訓練はできているのに……」
夜のとばりが現実社会を遮断した。僕は母を感じた。
「母が……」
「幸子さん?」
「ああ。喜んでるよ。僕たちを見ている。ホントだよ。僕は霊感が強いんだ」

 彼女を送った。小さな家に母娘は住んでいた。母親が出てきて家に上がった。ヨークシャーテリアが彼女を守っていた。居間の棚に母の写真があった。家には1枚もないはずだ。
「弟さんにもいつか謝りたい」
ポツリと彼女が言った。
「春樹にはずっと会ってない」
父は、会っているのだろうか? 芙美子おばさんにはときどきは会っているはずだ。『幸子』の残した命はどうしているだろう?
 彼女の部屋に、母親が子供を抱いた絵が飾ってあった。別荘の立ち入り禁止の部屋から消えた絵だ。
「おとうさんに貰ったの。あなたのおかあさんが海辺で子供を抱いていた……重なるの。あなたのおかあさんと」
「抱いているのは僕ではない。弟でもない。女の子だ。君だよ。君を抱いてる」
記憶の最初から父はいた。父親だと思っていた。甘えさせてくれた。絶望して死にたいと言ったときに父は真実を語った。最愛の女がおまえを助けて死んだのだ、と。助けなければよかったのに、そうしたらこんなに苦しむことはなかった……望が言うと父は怒って首を絞めた……
  父は最初親子を憎んだ。だが、娘の顔を見ると言葉を失った。想像した。『幸子』はこの娘を見てどんな反応をしたのだろう? 『幸子』は強い女だった。逆境には立ち向かっていった。『幸子』なら娘を隠すことなく希望を与え、強く育てただろう。父は『幸子』の遺志を継いだ。自分の子供は亜紀に任せ、愛した女が命に変えて助けた娘を強く育てたのだ。並大抵ではなかっただろう。おそらく『幸子』と心の中で話していたのだろう。自分の息子には向き合わなかったくせに……僕はあなたの愛した女の息子だから、強い女の息子だから大丈夫だとでも思っていたのか? 

 部屋の隅にフラフープが置いてあった。
「おとうさんが買ってきてくれた。おとうさんは上手なのよ」
本もCDもたくさんあった。母が読んでいた小説、母が好きだった曲。
「柔道を教えてくれた。強くなれって。カラオケに連れていってくれた。思いきり歌うの。おとうさんは上手。それでも絶望したときは別荘に連れていってくれた。誰にも会わない。遮断するの。おとうさんと私だけ。それに……幸子さんの亡霊と」
「立ち入り禁止の部屋か?」
「おとうさんは、とことん付き合ってくれた。先に帰りたくなるのはいつも私の方だった」
海外出張は手術のためだった。毎年のように行われた手術に父は同行した。急な出張も何度もあった。瑤子が来た時も、あれは瑤子を避けたのではなかったのか? 当時、望は小学校高学年のはずだ。その前後も、何度も父は絶望する望に付き合った。望を強くするために。10年以上の父と望の物語が目に浮かぶ。
「学校にもしょっちゅう来てくれた。だから辛い思いはしなかったのよ。先生も保護者も生徒も、皆優しくしてくれた」
「母の話をした?」
「強い人だったと。たくましい人だったと。望は絶望の望じゃない。希望だって。同じ境遇の人に希望を与えろって。絶対、生まれてきてよかったと思わせてやるって。おとうさんに会えてよかった」
「もうすぐ母の命日だ。忘れていたが……」
「毎年お墓参りに行くの。おとうさんに引きずっていかれたわ。1年間なにをしたか、報告しろって」
僕を連れて行こうとはしなかったくせに……
 怒りは湧いてこなかった。僕の顔を見なかった父、話をしなかった父。教えてもらったことはなにもない。勉強も柔道も歌も。想像する。望との出会いから今までを。歳とともに増していったであろう苦悩と絶望。
 絶望か希望か? 想像する。望を抱き上げた父を。手術の間、待っている父を。母の墓前でのふたりを。海を。柔道を教える父、歌うふたり、子犬を世話するふたり、学校でのふたり、実の父娘よりも深く強い絆だ。

 家に戻ると父は帰っていた。僕の口から次々に言葉が出た。
「望さんに偶然会って家まで送ってきた……ママの写真があった。絵もあった。フラフープも本もCDも」
亜紀がキッチンに消え父と息子をふたりだけにしてくれた。
「ひどいよ。パパは。僕と彩を放っておいて。あの子のためにどれだけのことをしたの? 僕も柔道を習いたかった。カラオケだって? 僕とはいったこともない。別荘も、立ち入り禁止はあの子のためだったんだね? あの子のためにいくら使ったの?」
責めはしない。恨み言を言いたかった。今まで話さなかった分、言葉が出てきた。パパは答えられない。
「あの子の学校には行ったって? 彩の行事には行かないくせに。それがママの遺志? 彩には辛く当たれって? パパを捨てた女だよ。忘れたの? 僕たちを救ってくれたのは誰か?」
パパは答えられない。
「ママは喜んでいると思う? ママを死なせた親子だよ。ひどいよ。ひどすぎる。僕はいいよ。僕は一生分の愛を貰ってる。彩とおかあさんがかわいそうだ」
亜紀が割って入る。
「おかあさんは悔しくないの? パパはママと育ててたんだ。あの子を。彩ではなくあの子を育てたんだ」
「私も協力したのよ」
「パパが留守の言い訳作りにか?」
「もうふたりで土下座するしかないわね」
「やめてよ、おかあさん」
「パパの介護はあの子がやってくれるわよ。幸子さんがおじいさんをみたように。私も、彩もパパの下の世話なんてまっぴら」
「……そんなの、僕がやるよ。決まってるだろう? パパの面倒は僕が見る。ママがおじいちゃんを介護するのを僕は手伝ったんだ」
パパが僕を抱きしめた。何年ぶりだろう? 20年……ようやく僕はパパの息子に戻った。
「パパはすごいよ。僕は……誇りに思う」
「彼女、獣医志望よ。継いでほしいわ。父の動物病院を」
「パパ、墓参りに行こうよ。夏生を連れて行く。望も一緒に。おかあさんは?」
「私の面倒もみてくれるんでしょうね?」


  
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