第13話 封印

文字数 6,526文字

 母が死んだ。長い闘病生活だった。入退院の繰り返し。葬儀が終わると気が抜けた。数日眠れない日が続いた。風邪気味で薬も飲んでいた。心の中は空虚だ。がらんどう……1カ所だけ封印している場所がある。7年前の恋だ。封印してある。思い出すと辛いから。抑える。思うのを抑える。あんなに好きだった女、いや、まだ少女のままだった。深い悩みを抱えていた……力になると誓ったのに、あの少女の涙が一生を決定したと思ったのに、残酷に残酷に裏切ってしまった。
 どうすることもできなかった。謝ることも。2度と顔を合わせることはできなかった。
 衝撃……自損事故か、よかった。誰も巻き込んでいないならいい。死んでもいい。死んでもいい。あの女が呼んでいる。悲しい女だ。愛した少女の母親。愛した少女の憎んだ母親、あの女が呼んでいる。
「来てくれたのね、大きくなったわね、私に似てきたわね、ね、圭?」
「ママの恋人?」
「責めないで。もうすぐ死ぬのよ。今までこんなに親身になってくれた男はいなかった。手術しろって言うの。どうせ死ぬのよ。きれいまま死にたい」
「よろしくね、圭……さん。ママをよろしく」
 ドリー。許してくれ。幸せでいてくれ。おまえといた時間だけが幸せだった……

 屋上で女はタバコを吸っていた。特別室の女だ。
「なに? 悪い? それとも心配してくれるの?」
「別に」
「坊や、毎日きてるわね。おかあさん? 幸せね」
圭は黙っていた。金のことで頭がいっぱいだ。
「ねえ、買い物頼まれてくれない? 頼める人、誰もいないのよ。天涯孤独なの」
最初は雑誌やCDだった。多すぎる駄賃をくれた。
「取っておきなさい。どうせ死ぬのよ。使いきれないの」
何度目かにある男を探してくれと頼まれた。
「初めての男。反対され見合いさせられ、駆け落ちしたけど連れ戻された。死ぬ前にどうしているか知りたい」
興信所に頼むだけで簡単だった。かつて駆け落ちした男には妻も子もいた。
「私が死んだら、伝えてくれない? お嬢さんが愛したのは1人だけだったと。あ、もしかしたら坊やを好きになるかも」
女は金を貸してくれた。貸したのではない。先生に話をつけ母の手術の段取りをつけていた。圭は断れなかった。
「返すよ。必ず返す」
「無理よ。死ぬほうが早いから。その代わり付き合いなさい。遊びたいの。死ぬ前に」
ボーリングをした。力のない女はうまかった。圭は初めてだった。女に教えられストライクをとった。酒を飲みにいきダンスを教わり歌を歌った。金のため……それだけではない。同情……それもある。だが、初めての男を生涯思い続けた女に感心した。
 その店で幸子に会った。言われたことが引っかかった。女が歌いにいったとき、
「うまいわね。プロ級ね。ねえ、ドリーに似てない? ドリーはどうなったの? あの巨乳のハスキーボイス。男子のセックスシンボル。寝たの? 圭君? あのサッカーに明け暮れていた少年は今は年上の女と、不潔」
圭はもう1度女に聞いた? 身内はいないのか? 女は嘘がうまかった。平気で嘘をつく女なのだ。
 その夜、飲み慣れない酒とひどい疲労で女の部屋で眠ってしまった。ドリーの夢を見た。圭の母親のことを自分のことのように心配して励ましてくれている。ドリーがいるから夜学も卒業できた。辛い境遇も恨まずにすんだ。
 ドリーが、ドリーの声が圭を誘った。決して許さない唇、性的な行為は嫌った。ふれあうのは手と腕、頬、髪……ドリーがしないことなのになぜ? 酔いが判断力を鈍らせた。
 愕然とした。女は、死を覚悟していた女は最後の男にすがりついた。

 圭は帽子を被りマスクとサングラスをしてドリーの部屋を見上げた。電気がついている。とてつもない悲しみを与えてしまった。ドリーは心の病気になった。1年留年した。情報は母親が教えた。聞き出させた。母親を断ち切ることはできなかった。金を借りている。もうすぐ死んでいく女だ。憎んでいてもドリーの母親だ。ドリーに対しては、もうどうすることもできない。窓を見上げて、電気が消えるまで見守る。そんな日々が続いた。
 遠目で痩せすぎたドリーがやがて元気を取り戻した。下ばかり向いていたドリーが前を向くようになった。同じクラスの橘夏生と親しくなり、彼女の家で勉強しているという。夏生のそばにはあいつがいる。あいつがドリーを送ってきた。ドリーの隣に三沢がいた。かつて圭の親友だった男。ドリーに似た境遇の、すねていた男。ドリーは笑っている。三沢がドリーを立ち直らせている。三沢なら安心だ。安心して任せられる……



 三沢英幸(えいこう)と別れたあと、部屋を借りにきた男がいた。最初日本人だとは思わなかった。日焼けして髪と髭もボサボサだった。汚すぎてありえない……アジアの各地を旅してきた男は1銭も値切らず決めてくれたのだ。
 いい間借り人だった。朝晩店で弁当や飲み物、雑貨や下着まで買ってくれた。家賃も遅れたことはない。毎日1度は顔を見る。レジで話をする。気さくな男だ。入居した時は大学生だった。美登利に興味を持ったようだ。口が悪い。キャバクラなら稼げるだろうに、と。
 毎日朝はおにぎりとサンドイッチ。夜は弁当。
「野菜不足ね」
「たまになにか作ってくれよ。サービス悪いと出ていくぞ」
出ていかれたら困る。美登利はスープを差し入れした。丸ごとの鶏肉、ジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、カブ、大きく刻んだキャベツ。
「ハサミで切って食べてね」
それがうまいと絶賛された。1度で食べてしまうほどうまかった。お礼に……抱いてやろうか、と軽口。
 翌年は就職した。髪も髭もさっぱりしたら別人のように見えた。就職先は株式会社ミサワ。えっ? 知っているの? ええ、いいえ……
 この男のために何度か料理した。今度のリクエストはきんぴらごぼうだった。太くて硬いのが食べたいと。君も食べたいだろ? 美登利は作って持っていった。部屋には入らない。玄関で味見させた。
「いい歯ごたえだけど少し味が薄いな」
「自分で作れば?」
なんだろう? この男は? なぜこの男のために得意でもない料理をしたのだろう? 褒め上手だ。軽口も楽しい。

 信也はすねる美登利がかわいかった。知り合って2年か……偶然ではない。失恋してから3年以上経つのか……失恋して自殺をあいつに止められ旅に出た。ベナレスで夜明けのガンジス川を見た。素晴らしかった。あいつの言った通り。貧しい村でかわいそうな子供を見た。悩みなどちっぽけなものだ。苦しかった恋は終わった。もう未練はない。熱病にかかっていたのだ。もう完全に治った。
 半開きのドアが開けられた。恋の後遺症が残っていた。
「マサル……」
恋した女の息子は14か? 13か? ひとつの違いで全然違う。勝はナイフを握りしめていた。
「先生、久しぶり。もう新しい女か? オレの家をめちゃめちゃにしておいて」
美登利は……この女は落ち着いていた。
「新しい女じゃないわ。家賃の取り立てに来ただけよ」
「勝、いくつになった?」
「13だよ。ぎりぎり」
「そうか、では、やれよ。おまえの家をめちゃめちゃにしてやる」
勝の家庭教師をしていた。あの女はよく苦情を言った。ドア越しに聞いていたのだろう。国語や算数ではなく社会に熱が入ってしまった。受験とは関係ないことを質問され……時間の無駄ではないのに。そのうちあの女は信也の熱弁を楽しむようになった。自分も勉強したいと言い出した。とりあえず英会話。海外ドラマを字幕なしで観れるように……教える場所が変わっていった。あの女は、近くまで来たからと信也の部屋に来た。
 
 勝は信也が誘導した心臓の場所めがけ、ナイフを突き刺した……
 美登利の腕から血が流れた。勝は怖気ずく。信也が手当てをした。ガーゼで押さえ止血した。
「たいしたことないわ」
「縫わなきゃだめだ。オレがやったことにしてくれ。オレのせいなんだ」
信也は勝を逃がそうとした。
「最低の男ね。あなた、帰りなさい。こんな男のためにつまらない……」
「どうしてそんな男をかばうんだ?」
「家賃が入らなくなると困るの」
信也がタクシーを呼んだ。
「勝、オレを刺すのはあとにしてくれ。離れろ。警察沙汰になるかもしれない」
「帰りなさい。私があなたのことは守るから」
美登利は腕を見せた。ほかにも傷つけた跡が何か所かあった。
「自傷行為の常習者だから大丈夫よ」
 勝を置いてふたりはタクシーで病院へ行った。美登利はひとことも喋らない。信也も言い訳はしない。家庭をめちゃくちゃにしたのは……元々めちゃくちゃだった。中学受験が終われば離婚すると、そんな話を信じた……
 病院で美登利は見事に演技した。この人が離れていくから引き止めようとした……捨てないで、と。

 電話をしたときあいつは、勝手にしろ、と言った。どうやって死ぬんだ? 電話してきてオレに後始末をさせる気か? 手首切るのはやめてくれ。オレは血は苦手なんだ。首吊りも嫌だ。感電死はどうだ? 電線巻きつけて。待て。義母に薬もらってやる。安楽死させてやる……
 あいつはずっと喋りながら車を走らせてきた。死ぬ気なんてないくせに……たかが1度の失恋で死んでたらオレなんて10回は死んでる。おまえは失恋なんか経験ないだろ? あるよ……あいつは長々と自分の失恋話を1度目……高校の同級生。出会いから初体験まで、こまごまと。2度目、小学校の同級生……時間稼ぎに……
 ベナレスで夜明けのガンジス川を見たんだ……おまえもそうしろ。おまえの悩みなんてどんなにちっぽけなものか……
 信也は聞くだけになった。あいつは部屋に着くまで喋り続けた。顔を見るとホッとしたようだ。あいつの言う通りにした。あいつの言う通りだった。傷を癒し帰るとあいつは最新の失恋話をした……

 病院から戻ると勝が店の外で待っていた。タクシーから美登利が降りると駆け寄った。信也のことは無視した。美登利は勝を自分の部屋に連れていった。信也には口もきかず。小1時間、勝は美登利の部屋にいた。信也は何度もドアの前まで行った。なにを話している? 勝と美登利と、あいつは同じ境遇になった。母親が不倫した。子を捨てた。勝の母親は子ではなく信也を捨てた。父親も不倫していた。修復できないはずなのになぜ別れない? 
 ようやく勝が出てきた。ドアの外の信也を見ると床に唾を吐いた。怒りが沸いた。
「美登利が止めなければ今頃は……犯罪者だ。おまえの家庭は……」
「美登利さんがかばってくれたのは僕だ。おまえじゃない」
 美登利は無視して勝を駅まで送り戻った。腕をつかみ問い詰める。
「なにを話していたんだ?」
「身の上話よ」
「君の、そのリストカットのわけか?」
「あんた、知ってたの? 傷跡見ても驚かなかった。冷静だった。止血するの上手だった。まるで私が切るのわかってるみたいに」
「……」
「あんた、三沢さんの知り合い?」
「……鋭いな」
「三沢さんの会社に就職した。あの人がいなくなったらあんたが現れた」
「頼まれたんだ。君が心配だから様子を知らせてくれって。君が自分を傷つけないか心配で」
「なんであんたみたいな男に? 敵じゃないの。私たちの」
「本気だった。純情だったんだ。振られて死のうとした。三沢に助けられた」
「助けることないのに」
「お節介なんだ」
「……あの人はどうしてる?」
「どうして別れた? あんな条件のいい男」
「あの人は?」
「元気だよ。幼馴染みの子と結婚するだろうよ」
「やっぱりね」
「愛してたんじゃないのか?」
「……」
「もっと愛してる男がいるんじゃないのか?」
「……どうして、そう思うの?」
「2年も観察してた」
「勝君と結婚する。あの子が18歳になったら」
「……バカなことを」
「約束したのよ」
 次の日の夜、勝は店で品出しをしていた。
「15歳にならないとバイトはできないぞ」
「手伝ってるだけだよ。彼女、腕痛いから」
「彼女か?」
「高校生になったら家を出てここでバイトしながら高校へ行く。卒業したら彼女と結婚する」
「バカなことを。そのとき美登利は26歳だ」
「あんただって10も上の女と……」
「結婚するつもりだった。おまえも引き取るつもりだった」
勝の目に涙が浮かぶ。
 そのあと勝は店先の花の手入れをした。花がらを摘み丁寧に水やりをしている。あの女も、勝の母親も園芸が趣味だった。洒落た家、センスのいい庭。幸せに見えた家庭……

「勝、駅まで送るわ」
犬を散歩させながら美登利は勝を送っていく。
 戻るとまた口論になる。
「18になるまで、やらせるなよ。淫行になるぞ」
美登利はにらむ。
「あの子はママが大好きだった」
信也はなにも言えない。10歳の勝は幸せだった。
 何回か勝は来た。店を手伝い美登利が送っていく。土日は朝から来て花壇の手入れを手伝っていた。信也を見てもなにも言わなくなった。

 勝も信也もいるときだった。弘美が訪ねてきた。圭が事故を起こした。重体……よろける美登利を勝が支えた。
「お願いです。うわ言でドリーって。お願い。付いててあげて」
 美登利は部屋にこもった。部屋には圭に借りたままの本がある。DVDもある。返す日などこないのに捨てることはできなかった。あの残酷な出来事から4年経つ。もう立ち直っていた。圭の親友だった三沢が立ち直らせた。そのあとは信也が……
 美登利は部屋から出てこない。信也は三沢に電話した。しばらくぶりだ。ここ数日の出来事は知らせていない。圭の名を出すと衝撃を受けているのが伝わってきた。
 30分もしないうちに三沢は来た。美登利の父親に部屋の鍵を借り強引に美登利を連れ出した。三沢に抱えられ美登利は車に乗せられ去った。残された伸也と勝はタクシーで追いかけた。後部座席にふたりで座った。
「あの人は誰? ケイって美登利さんの彼氏?」
「彼氏ならすっ飛んでいくだろ?」

 病室で美登利は圭の手を握った。握れた。怖かった。拒否してしまうのではないかと。
「圭、目を開けて。大好きな圭」
圭は目を開けない。美登利はなにも飲まず食べない……
「圭、辛かったね。ごめんね。そばにいてあげられなくて……」
美登利はずっと圭の手を握っていた。三沢が水を飲ませようとしたが美登利には聞こえない。
「口移しで飲ませるぞ」
大声で言われようやく我に返った。
「圭、死ぬの?」
「死なないよ。再手術する。必ずうまくいく」
三沢が美登利の、世話をした。病室を離れない美登利の着替えを取りに行き、近くの銭湯に連れていった。食事を差し入れし目の前で食べさせた。手術の朝、三沢と美登利は輸血した。

 手術の間、三沢と美登利と弘美がロビーで待った。長い時間待たされた。三沢が弘美を励ましている。弘美……まだ小学生だった。海に行った。弘美の両親と、圭と。あたたかな家族。圭を慕い美登利に嫉妬していた。ずっとそばにいてくれたのだろう。圭の辛い時期、家族は圭のことを親身に心配して面倒をみてくれていたのだろう。
 集中治療室にはふたりしか入れない。弘美は三沢と美登利に譲った。ずっと身近にいたのに。1番会いたいだろうに。

 手術はうまくいった。うまくいくと回復は早かった。体から管が次々に外れていく。
 圭の意識が戻ったとき、そばにいたのは弘美だった。夢を見ていたのか? ドリーの声が聞こえた。懐かしい声だった。

(血をあげたからね。私の血が圭の中に入ったのよ。やっとひとつになれたね)

「輸血してくれた。ドリーと三沢さん。ずっとついててくれたわ」

(弘美ちゃん、ずっと圭のこと好きなのね。ずっとそばにいてくれたのね。弘美ちゃんならいいよ。
 圭、弘美ちゃん、大事にしてあげてね……)

 信也は部屋を出ようと片付けた。美登利が止めた。
「家賃入らないと困るの」
「なぜ圭とはだめなんだ? 障害はない」
「譲ったの。弘美に。自己犠牲。快感だった。それに他に好きな人がいる」
「三沢か?」
「三沢さんは夏生に譲った」
「バカか?」
「あんたは誰にも譲らない。ずっとここにいて店で買って私の料理を食べるの」
「勝はどうする?」
「……いつか誰かに譲る」
「そうか、そうなるだろうな。勝は、もう来ない。圭さんを看病するおまえを見て諦めた。悲しむのは嫌だって。おまえが悲しむのは嫌だ……」   
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