第2話 英語の英に不幸の幸

文字数 9,676文字

 G駅から10分強歩くと校歌に歌われているS川が流れている。M橋を渡ると歴史の古い公立校がある。川は歌詞のような清い流れではないが。
 入学式、30年前の卒業生だという来賓の挨拶が印象的だった。 
金縷(きんる)の衣は再び()べし、青春は得べからず」

 年よりずっと若く見えた。スピーチはユニークで聞き入ってしまう。その人が私の方を見た。目が合った。そして微笑んだ。まさか?
 来賓席に戻った三沢英輔を私はずっと見ていた。
 もう1度こっちを見て。私を見てください……

 誓う。あなたのためなら身を粉にして努める。生きていくから叱らないでください……

 太宰の文章が浮かんだ。なんの小説だったか?
 私は見つめた。

 けれどもそれだけのことであった。千万の思いを込めて見つめる私の瞳の色が了解できずに終わったようだ……

 魅惑? 魅了? 恋?
 走っていってすがりたい。髪を撫でてほしい。
 ありえない。高校の入学式、30歳も年上の男性に私は恋をした……

 そのあとのことはよく覚えていない。入学生代表として立ち上がったのは同じクラスの男子生徒だった。背の高い斉田圭。たぶんいちばん成績がいいのだろう。
 クラス委員は先生が決めた。圭と私だった。それも成績で決めたのだろうか?
 隣の席の三沢英幸(えいこう)は冴えないガリ勉タイプの生徒だった。メガネをかけひどく猫背で、自己紹介のときはボソボソと小さな声でよく聞き取れなかった。英語の英に不幸の幸?
 私は、
「水谷幸子です。幸子という名前は古風だけど気に入ってます。趣味は読書。スポーツは、ダメです」
隣の三沢英幸が吹き出した……ような気がした。すぐにポーカーフェイス。
 帰り、私は校内をうろうろした。まだあの人はいるかもしれない。
 諦めひとり帰る。M橋の上であの人はたたずみ川の流れを見ていた。思わず近くに寄るとあの人は振り向いた。
「スピーチ、素敵でした。とても。とても」
間近で見た三沢英輔はもっと素敵だった。見つめられ頬が染まっていくのがわかった。
「D組の水谷幸子です」
と言うと目が合ったことを思い出してくれたようだ。
 金縷の説明をしてくれた。
 詩が好きだと言うと面白いことを教えてくれた。
 帰り際、私を見て言った。
「そんなふうに見つめてはいけない。相手が勘違いしてしまうよ。娘だったら心配だ」
ほかの人を見つめたりはしない……
 しばらく胸がいっぱいで食欲もなかった。夢にも出てきて私を見て笑った。私は涙を流していた。
 かつてこれほど異性を思ったことはない。同じような思いをしたことがある。それは本の中の人物だった。誰にも言えない。それは乱歩の小説の中の、同性愛者だった。私は何度もその本を読み、最後の場面では泣いた。
 おかしいのだろうか? 私の感性は?
 隣の三沢英幸は、休み時間には本を読んでいた。誰にも相手にされなかった。私はクラスに馴染まない隣の彼に何度か話しかけたが、まともな返事はなかった。恥ずかしいのか煩わしいのか、苦手な代数を聞いたとき、彼は聞こえないフリをした。
「教えてやれよ」
圭がきて強い口調で言った。ほとんど脅しだ。彼はノートに書いて教えてくれた。ボソボソと。きれいな字だ。そのあと彼は口を押さえて席を立った。唐突に。気分でも悪くなったのかと、あとを追うと彼は踊り場で笑っていた。私の顔を見て、また笑いがこみ上げてくるようだ。堪えようとしても……
 
「水谷さん」
珍しく彼から声をかけてきた。
「2年の男子が呼んでる」
廊下で部活動の勧誘を受けた。写真部にはモデルになってくれと頼まれた。
「私、スポーツはダメなんです。部はもう決めてあります」
私は文芸部、圭はサッカー部、三沢英幸はどこにも入らなかった。
 音楽の授業、ピアノ曲の鑑賞のあと圭が三沢英幸を見て言った。
「おまえ、弾いてみろよ。こんなような曲弾いてたじゃないか」
 皆の視線が集中する。無視すると圭が皆を扇動する。弾けよ、みさわ、み、さ、わ……
 彼は小さく舌打ちし、ため息をつき時計を見た。まだ時間はたっぷり残っていた。そして弾き始めた。ショパンの葬送行進曲。皮肉な男。『こんなような曲』が葬送行進曲? しかし彼はピアノの前では猫背ではなかった。大勢の前で上がりもしない。きれいな曲なんだ……有名な部分しか知らなかった。素敵だ。ピアノを弾いている彼は素敵だった。皆滅多に聴けない生の演奏に魅了されていた。CDの鑑賞のときには寝ていた生徒が姿勢を正して聴き入っている。
 弾き終わると圭も拍手していた。私は席に戻った彼に話しかけた。
「すごいのね。いつから習っているの? どのくらい練習するの? 好きなの、ピアノ?」
「好きじゃないさ。上達するとね、パパがご褒美をくれるんだ」
 国語の時間、宿題の詩の朗読をした。好きな詩を暗唱していく。圭はリルケの秋。私の好きな詩だ。

 木の葉が落ちる 落ちる 
 遠くからのように
 大空の遠い園生が枯れたように
 木の葉は否定の身ぶりで落ちる
 ーーーーーーーーーーーーーー
 けれども ただひとり この落下を
 限りなくやさしく 
 その両手に支えている者がある
 
  私は、ミラボー橋。

 ミラボー橋の下をセーヌ川が流れる
 僕らの恋も流れていった
 僕は思い出さずにいられないんだ
 苦しみのあとに喜びがあったってことを
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 長い詩をしらけられるかと思ったが、つかえず暗唱し拍手が湧いた。しかしあの人が言っていた面白いことは起きなかった。
 次、三沢。彼は私を見て小さなため息をついてから立ち上がった。教室がざわつく。またミラボー橋。私は隣の彼を見た。ボソボソ声ではあるが抑揚があった。翻訳も違う。間を置いてまるでピアノでも弾きながら歌っているように。
 そう、歌うような詩が終わると国語の教師は歌い出した。フランス語で。

「シャンソンか」
「祖母がよくレコードをかけていました」
「ああ、君は、金縷の衣の息子だったな」
金縷の衣の息子? あの人の?
「来賓の挨拶をした人、あなたのおとうさんなの? すごい素敵な人」
もう下を向き文庫本を読んでいる。なにを読んでいるのか聞いても相手にされず覗き込んだ。
「午後の曳航(えいこう)?」
「読むかい? 父の本だよ。貸してやるよ。君の感想が聞きたいね」
少し黄ばんだ本だ。あの父親の学生時代の? よりによってこの男の父親だなんて。なにひとつ似ていない。顔も背も体格も雰囲気も。ああ、声は似ている。
 語り合いたかった。おそらく詩にも小説にも詳しいのだろう。あの人の学生時代の本……

 後悔した。読まなければよかった 。

 母親の部屋をのぞく息子。母親の裸の描写……あの黒い領域。可哀そうな空家……母と男の行為。そいつがママと一緒に寝るところを見たんだよ。仏塔? 猫を叩きつけて殺し……まだ死なない。もう1度……解剖する。最後は男をーー

  私は無言で返した。
「もう読んだの? 全部読んだ? 感想は? いやらしいとか言うなよ」
初めて顔を見つめられた。本の内容を共有し私は赤くなった。
「あなたは、感情のないことの訓練をしているの?」
ポーカーフェイス。私はしおりをはさんでおいたところを指した。線が引いてある。

 僕らは感情のないことの訓練をしているのだから、怒ったりしちゃ変だ。

 自分たちの生殖器は、銀河系宇宙と性交するためにそなわっているのだ……数本が力強く濃くなって、白い肌の奥深く藍いろの毛根を宿している自分たちの毛も、その強姦の際、恥じらいに満ちた星屑をくすぐるために生えてきたのだ……

「あなたが引いたの?」
「父だよ」
「……」
「頬が真っ赤だよ」
このとき私は彼を異性として意識した。
  圭が本を取り上げた。勝手に借りていった圭は、次の日から休み時間には彼の前に座り、後ろを向いて話していた。
「おまえの家、猫がウヨウヨいたよな。おかあさん、獣医だったんだろ? おまえも部屋をのぞいているんだろ?」
相手にされず、読んでいる本を取り上げ私によこす。パラパラとめくる。細かい字、不条理と自殺、哲学上の自殺ーーこれも父親の?
 しおりがはさんで線が引いてある。

 障害のある愛以外に永遠の愛はないとーー
 そうした愛は死という究極の矛盾のなかではじめて終わるものだ。
 ウェルテルであるかしからずば無か、そのどちらかだ。
( カミュ『シーシュポスの神話』より引用)

 私は口に出して読んだ。頭に書き留めた。
 ウェルテルであるかしからずば無か。
「君のことだよ、斉田君」
「?」
「初めて会った日から好きだぜ。圭」
そして私に
「水谷さん、圭を取らないでね」
冗談を言って笑う。また止まらなくなる。感情のないことの訓練はまだまだ足りないようだ。
 圭に彼を知っていたのか聞いたがはぐらかされた。

 夏休みに2泊3日のクラス合宿があった。ひとりでいる彼に圭は寄っていく。辛い山登り、体力のない私は遅れた。彼と圭はのんびり話しながら歩いていた。
「おまえ、なんで私立にいかなかったんだ? 金持ちのくせに」
背後から私が息を切らして歩いていくと圭が背中を押した。私に気があるのがわかる。
 共同生活はふたりを近づけた。翌日ふたりは肩を抱き合い歩いていた。飯ごう炊飯にカレー作り、ふたりは楽しそうに器用に作っていた。
 キャンプファイヤーを囲んでクラスごとの出し物。D組男子はダンスだった。皆は白いTシャツに白いパンツ。彼はいない。練習にもきていなかった。音楽がかかる。簡単なセットの棺桶の蓋が開く。風が吹いた。雰囲気は最高だ。悲鳴があがる。指が見え、髪の長い白いドレスの女性が棺桶から出てきた。観客は息を呑んだ。すごい存在感。誰? 亡霊が踊る。聞いたことのある歌だ。女の亡霊が踊る。まさか、三沢君? 髪に花の飾り。耳にイヤリング、爪も塗ってる。
 聞き取れたのはヒースクリフとキャシー。何度も繰り返す。窓を開けて、とパントマイム。彼はキャシーの亡霊!
 周りの男子の踊りはどうでもいい。皆、亡霊に釘づけになった。圭と同時に側転。彼はドレスで側転。何度も。何度も。少しも乱れない。最後は棺桶の中に戻っていった。皆、呆気にとられていた。そのあとの拍手はすごかった。圭が彼の腕をつかみお辞儀をした。彼はカツラを取り圭の頭に被せすぐに逃げた。拍手と大爆笑……
 信じられない。メガネを外し化粧をした彼はぞっとするほどきれいだった。相当練習したのだろうか? あの三沢君が?
 最初、彼は断固拒否したという。圭に頼まれお願いされ拝み倒され引き受けた? 化粧は自分でした? 化粧品会社の息子だからな……それにしても開き直ればすごい度胸。運動神経……
 
 合宿が終わり長い夏休み、暑中見舞いを出したが返事はこなかった。

 2学期が始まると彼と圭はますます親密になっていった。夏休みの間も会っていたらしい。彼はメガネを外し背も伸びていた。言葉もはっきりし体育の時間も目立つようになった。本性を現した彼は女生徒に騒がれるようになった。しかしふたりは女生徒には目もくれない。
 彼は圭を呼ぶ。
「ヒースクリフ」
私が圭と話していると奪っていく。腕をつかんで。

 体育祭でも文化祭でもふたりは活躍した。クラス対抗リレーでは、圭からバトンを受け取った彼はひとり抜いてトップになった。
 少年が来ていた。身が軽くバク転してみせる。頬の傷で思い出した。
「キミはあのテニスのヘタッピな……」
私は真っ赤になった。少年は失言を誤魔化し言った。
「よかったと思ってるだろ? 女だったら嫁にいけないって」
私は三沢英幸を観察した。メガネを外した横顔、あのとき口を押さえて出ていったのは私を笑っていたのだ。彼は私のことをわかっていたのだ。早い時期から。あの運動音痴の不格好な中学生だと。
 去年の夏、彼の背はまだ私とさほど変わらなかった。子供っぽくて年下かと思った。夏なのに日焼けもせず色白の美少年。彼はハッとするほど垢抜けた女と打ち合っていた。それからあの少年とも。受験勉強の息抜きにクラスの仲間に連れ出された。運動の苦手な私は教わっても当たらなかった。隣のコートで少年ふたりが笑った。子供は残酷だ。たしなめた女性が私を教えた。彼と少年は私のために球拾いをさせられた。教え方が上手だった。両手でラケットを持つとボールがネットを超えた。相手をさせられた彼が打ちやすいボールを返す。奇跡的に続いたラリーだった。
「若い時は優勝したこともあるのよ」
お喋りな人だった。
 彼はほとんど喋らなかった。憂のある美少年。もうひとりの少年は頬の傷を隠しもせず笑った。
 3人は似てはいなかった。

 文化祭では彼の伴奏で『ミラボー橋』を歌った。日本語の朗読のあとフランス語で歌った。また少年が来ていた。ピアノのミスタッチを指摘しフランス語で歌う。苦労したフランス語を。
「いい声だな、歌手になれるよ。きれいなボーイソプラノだ」
圭が言った。

 私は見ているだけだった。私に気があると思っていた圭は見向きもしない。皮肉な隣の男は相変わらず無視をする。
 2学期も終わりに近づいたころ圭の父親が急死した。通夜には先生と私と数人が行った。彼はすでに知らされていたようで先に来ていた。少年が彼に寄り添って泣いていた。そしてあの女性が、まるで圭の身内のように焼香客の世話をしていた。
 圭はそのまま休み、3学期になると夜学に移った。病弱な母親の代わりに働くことになったのだ。私は部活のあと圭が登校してくるのを待った。何日か待ってようやく会えた。ひと月もたたない間に圭は変わっていた。疲れが顔に出ていた。
「三沢君、せっかく明るくなったのにまた孤立している」
「人の心配している余裕はないね」
それから圭は私に会っても無視した。住む世界が違うのだというように。

 2年になってもクラスはそのままだった。席は離れたので話しかけることもできなかった。入学式ではまた彼の父親が来賓で挨拶した。去年は父親だとは知らなかった。よく見ると似ている。声はそっくりだ。金縷の詩は2、3年生は復唱した。
 あの思いはなんだったのだろう? 確かに私は恋をした。涙が出るほど好きだった。あれは恋に恋をしたのだろうか?
 息子がこんなに孤立していることを父親は知っているのだろうか?
 1年生の名前が呼ばれる。そのあとハプニングがあった。1年の女子が倒れたのだ。近くの来賓席の三沢英輔は立ち上がり抱き起こした。素早かった。少女は抱き上げられ保健室に連れて行かれた。息子のほうは無表情だった。
 帰り、私はM橋にたたずみ川を眺めた。彼の父親は現れなかった。

 あなたの息子に恋をしています。変人の息子に。

 倒れた篠田葉月はテニス部に入り男子のアイドル的存在になった。昼休みに葉月は来た。私は頼まれた。三沢さんを呼んでくださいと。彼は喜びもせずに葉月と話していた。私は聞き耳を立てた。葉月は小さな包みを出し渡そうとした。
「いらないよ」
「あなたにじゃないわ。おとうさんに」
無視とは違い絶句。
「父は受け取らないよ」
 この美少女も年上の彼の父親に恋をしてしまったようだ。葉月が彼に会いにきたのはそのときだけだった。そのあと何人かの下級生が大胆に告白したようだが彼は興味を示さなかった。
 昼休みに彼は音楽室でピアノを弾いている。数人の女生徒が聴いている。激しい曲だ。引きずり込まれ魂を持っていかれそうな……
 葉月は廊下で聴いていた。ひとりで。恋をしているの? 三沢君に? 私と目が合うと下を向いた。不思議な少女だ。明るいのか、陰があるのか? 無邪気なのか大人びているのか? 私は音楽室に入り離れた席で聴いた。彼の後ろ姿を見ながら。

 5月の体力測定の日、1年生の真希が用紙を落とすと彼が拾った。杖をついている少女は返されるのを待った。彼は用紙の数字を見て驚いていた。
「覚えてない? スイミングクラブで一緒だったろ?」
噂はすぐにたった。三沢英幸(えいこう)が1年の足の悪い女生徒に興味を持った。え? 同情でしょ? なんで? どうしてあんな子に? 
 興味を持った彼は猛烈にアタックした。最初真希は戸惑った。
 音楽室で真希は彼のピアノを聴いている。リクエストできるのは真希だけだ。
 聞いたことのない作曲家。作品番号を言ってリクエストできるほど、真希は詳しくなっていた。部活に入っていないふたりは一緒に帰っていく。
 プールがはじまると真希はもちろん見学だ。前の時間に終わった彼が真希に言った。
「また見学か? 泳いでみろよ」
「私に傷だらけの足をさらせって言うの?」
真希の語気に彼はたじろぎ謝った。
「ごめん、そういう意味で言ったんじゃない。君なら泳げると思ったんだ」
 多勢が見ていた。真希は涙を堪え早足でよろける。彼は支え、拒否されながらまた謝った。
 真希は翌週から水着を着て授業に出た。傷だらけの足をさらして。プールに入るとすぐに気にならなくなったようだ。腕だけで真希は軽々と泳ぎ切った。腕の力は並ではない。先生も生徒も拍手した。彼はプールサイドで見ていた。真希と目が合うと笑って教室に戻っていった。それはすぐ噂になった。
 体育祭で真希は走った。スタートはずっと前方だったしゴールしたのも最下位で時間はかかったが皆が応援した。彼は1年の男子に混じって応援していた。
 
 私は寂しかった。彼は真希に夢中だ。先生公認、三沢の彼女か、たいした子だな。大事にしてやれ。手を出すんじゃないぞ、と冗談を言った。
 私がふたりを見ていると1年の男子も同じように見ていた。徒競走を彼と応援していた生徒だ。真希とは違うクラスだがいつも真希を見守っている。後輩に聞くと靖はクラス委員で頼りにされていた。
 やがて私は3人から目を離すことができなくなった。食堂で彼は靖の隣に座りうどんを食べていた。熱い汁が靖の腕にかかった。
「気を付けろよ。火傷するぜ」
彼は靖を保健室に連れていった。故意だ。火傷はたいしたことはなかった。彼は真希に笑って話している。
「仇は取ってやるよ。学校に来られなくしてやるからね」
 休み時間、彼のあとをつける。靖は階段を降りている。彼は背中を押そうとした。
「三沢君」
大声を出したが彼はそのまま押した。転げ落ちていく靖。彼は気を付けろよ、と助け起こす。
「いつか大怪我するぜ。真希みたいに」
彼は私の前を通り過ぎる。何事もなかったように。
「三沢君、なにやってるの? やめなさいよ」
彼は聞く耳を持たない。昼休みに彼は屋上に登っていった。呼び出されたのか靖も来ていた。
「飛び降りろよ。死にはしないって。償うんだろ? 真希に。おまえのやったこと」
「やめなさいよ、三沢君、死ぬわよ。なにしてるのよ、あなた」
「観客ができたな、靖。真希のやつ遅いな。ああ、やっと来た。本番だぜ、マリー、おまえも合わせろ」
マリー? おまえ?
 彼は深呼吸してからはじめた。靖、飛び降りろよ、ともう1度言い、靖は柵を越えようとした。真希が早足で駆けてくる。
「転ぶわ。危ない」
私の声で支えに行ったのは靖だった。かつて真希をいじめ足を不自由にした男。
「もうやめて」
真希は叫んだ。
「許すのか? 真希、こいつを許すのか?」
真希は答えずにもうやめて、と繰り返した。これは演技なの?
「行けよ。靖」
彼のひとことで靖は去った。残った私を観客にして彼は泣きじゃくる真希を抱いた。目が合った。邪魔者は消えろ、と。ひどい人、私の前でラブシーンなんて。
 しかし大きな音がした。彼は頬を叩かれた。叩かれながらよろける真希を支えた。真希が私の隣を泣きながら通っていく。彼はため息をつき鼻を押さえた。
「なんだよ、笑うなよ」
「頬に手の跡がついてるわ」
「ああ、すごい力だ」
恥ずかしいのか彼は饒舌になった。
「僕たちは同じスイミングクラブだった。靖はずっと苦しんでた。最初は靖が始めたんだ。あいつは父親が厳しく成績も水泳も真希には勝てなかった。皆を扇動して真希をいじめたのは靖だ。しかし真希は負けなかった。母親が必死に働き好きな水泳をやらせてくれていた。靖は負けたんだ。真希の強さに圧倒されて。だが、まわりの男子が面白がってやめなかった。いじめは暴走して真希を追いかけた。靖は止めようとした。真希はオレたちとは次元の違う女なんだ……真希は逃げて車に轢かれた。皆は関わってない靖のせいにした。靖は責任を被って転校した。両親は離婚、靖は母親の姓になり、真希は同じ学校になっても気づかなかった。靖は変わっていた。真希が気づかず好意を寄せるほど」
「だからあなたが悪者になったのね? そして真希ちゃんにキスしようとして殴られた」

 それから彼は少し私に心を開いたようだった。真希の友達になってくれと頼まれた。自分はもう、いやらしい男に成り下がったから。

 1度だけ彼は弱みを見せた。昼休み、予鈴が鳴っても彼は気づかず弾いていた。観客は出て行った。彼は思いきり鍵盤を叩きつけた。
「努力に勝る天才はなし。嘘だな」
立ち上がるとフラッとし私は支えた。背が高くなっていた。体重も。ダメ、支えきれない。
「三沢君、しっかりして」
私は床に倒れた。彼も倒れた。私の上で。
 本鈴が鳴った。音楽の授業はないようだ。
「三沢君……」
気がついている? 彼は顔を起こし私を見た。
「ごめん」
立ち上がり、私の手を取り起こした。
「あなた、練習のしすぎじゃないの? ちゃんと寝てるの?」
楽譜を持ち出ていく。
「あなたの感情……表現、すごいと思う。魂を持っていかれそう」
 
 秋の文化祭では彼の演奏で『わが子よ』という歌を歌った。世界中でヒットした歌だ。日本語の歌詞と映像を流すと親も生徒も涙ぐんでいた。演目の最後に三沢英幸がピアノコンクールで最年少で3位入賞したことが発表された。観客の拍手で彼は弾かざるをえなかった。ずっと練習していた曲だ。ショパンのピアノソナタ第2番第1楽章。花束を渡す役を真希が引き受けた。彼の優しさを再認識させたのは私だ。

 試験が終わりもうすぐ2学期も終わる。M橋で他の学校の生徒が彼を待っていた。ふたりは私の前を歩いていく。彼より小柄な他校生はチラチラと私の方を振り返る。ファミレスに入った。
「君も来いよ」
と言われ彼について行った。しかし、嬉しかったのにひどい。彼は他校生を幼稚園からの付き合いの治だと紹介した。
「こいつが君に一目惚れしたよ。付き合ってみないか? 人間的には僕よりずっと上だよ。ずっとずっと」
よせよ、三沢、と治が照れる。彼の長年の親友。人のよさそうな頼りなさそうな、かわいいという表現が似合う少年。私は憤慨したが治と話した。聞き上手で気がきく。飲み物を取ってきてくれる。
「甘いもの食べない? 三沢、お汁粉好きだろう? 水谷さんも。おごるよ。介護施設でバイトしてるんだ。雑用だけどね」
「バイトしてる場合じゃないだろ? 落第するぞ」
「だから頼む。この通り」
治は手を合わせる。
 翌日、M橋の上で治は彼を待っていた。私もあとを追う。彼はできの悪い治に勉強を教えてやるのだ。中学でもそうだった。三沢のヤマカンは当たる。私に会えて治は嬉しそうだ。電車に乗る。彼らは先に降りる。
「君も来るかい?」
彼に言われ私は降りてしまう。
「来るのか? 男ふたりの部屋へ」
治が安心させる。
「大丈夫だよ。おばあちゃんもいるから」
「それがこいつの常套手段」
 治の家、優しそうな祖母に猫がいた。彼になついている猫だった。私は安心し国語を見てやる。薄い教科書。レベルの違う高校。漢字を書かせる。私がみていると治は必死で覚えた。数学は彼が教える。確かにわかりやすい。
 提出物の大量のプリントに追試。
「受かったら映画観に行ってくれる?」
治は彼と違って話しやすかった。祖母がチャーハンを作ってくれた。
 翌日も私は治の家に行っていいか聞いた。
「今日はおばあちゃんいないよ」
「平気よ」
「僕はゲイだから大丈夫だけどね。治は男なんだよ」
3日続けて治の家に行き勉強をみてあげた。
「おばあちゃん、いるじゃない、嘘つき」
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