第12話 思い出

文字数 13,069文字

 ミサオに会った。
 衝撃だ。
 面談のあと母と入った甘味家で。中3の男が母とお汁粉食ってた。俺は許せない。自分を。
 篠田が、大嫌いな篠田が女の子を連れて入ってきた。俺は見つからないよう下を向いた。あいつはすぐに気がついた。含み笑い。マザコンの優等生……
 あいつが、硬派の篠田が女の子を?
「新しい奥さんの連れ子かしら?」
そうではなさそうだ。離れた席でも彼女は光っていた。同じ年か? ミサオ、と呼ぶのが聞こえた。彼女は篠田さん、と呼んでいる。話しているんだろうな。俺のことを。この年でママとお汁粉、呆れるぜ……
 彼女はこっちを見て微笑んだ。 百万ドルの微笑み。無邪気な屈託のない笑い。自分のことを笑われているんだろうに情けない。 
 母は俺の口を拭く。やめろよ、とも言えない。彼女に聞こえるから。立ち上がり横を通る。篠田はなにも言わない。しかし、変わるもんだ。目つきの悪い篠田の目が人のいい優しい目をしていた。恋の魔力か?

 次に会ったのは本屋だった。彼女は篠田と入試問題を見ていた。篠田が本屋に? 高校いくのか? 学校にも来ていないのに。ふたりは楽しそうに話し、何冊か買い出て行った。彼女は俺に気がつかなかったのか? 意識の中にも入らないのか? なぜ篠田なんだ?

 数ヶ月、思っていた。しかし薄れていく。篠田は違うクラスだし、この頃は登校しているようだが話すこともない。感じが変わった。先生もびっくりしていた。彼女のせいだ。真面目に高校に行く気になったらしい。家でもうまくやっているらしい。新しい母親とも義弟とも。

 H高の入学式。大勢の生徒に保護者。同じクラスに操がいた。周りの男子は息を呑む。近寄りがたい雰囲気の女。篠田と一緒のときとは全然違う。彼女は俺の斜め右前。頭もいいらしい。クラス委員は俺と彼女、のはずだったが、先生は言い直した。違う女子に。操は家の事情でバイトの許可をもらっていた。
 操は頭がよかった。俺は勝てない。勝てたのは国語の時間だけだ。詩を暗唱する。俺がミラボー橋を暗唱し終わると先生はフランス語で歌い出した。操の冷ややかな表情。頭にきて俺も歌った。父母が聞いていたシャンソンだ。フランス語で先生と最後まで歌うと拍手喝采。操は無表情。この女には詩も歌も理解できない。頭はいいがバカだ。

 操は婦人服売り場でバイトをしている。品出しや値札付け。8時まで働いている。家庭の事情。篠田は知っているんだろう。水曜日、バイトは休みのようだ。M橋で篠田は待っている。以前のとげとげしさは微塵もない。操を待っている。操は篠田に会うとあの 百万ドルの笑顔。教室では見せないくせに。ふたりは橋を渡っていく。毎週水曜日、M橋で俺はふたりを見送る……

 2年になって篠田がM橋で俺を待っていた。
「操を泣かせるな」
「?」
操の帰りが遅い。俺と会っていることになっていた。篠田が問い詰めると泣いた……
「そうなるとは思ってたよ。操はおまえを好きになると……」
篠田は勝手に誤解をし、
「かわいそうな子なんだよ。大事にしてやってくれ」
わけがわからない。

 翌日操に言うと初めて彼女は俺の目を見て謝った。そしてお願いされた。
「そういうことにしておいて」
みつめられ断れない。断れないからどんどんエスカレートしていく。

 次に篠田とM橋で会ったとき、篠田はいきなり殴りかかってきた。柔道をやっていた俺は手は出せない。
「女を殴るなんて最低だ」
バカな、俺が操を殴ったことになっている。冗談じゃない。本当のことを言おうとして言えなかった。俺は2度と手をあげない、と誓わされた。

 休み時間、屋上に操を呼び出した。目のまわりがうっすら青くなっていた。
「お願い。あなたがやったことにして」
「冗談じゃない。篠田に殺される。言えよ。相手は誰だ?」
次の言葉。俺はなにを言われたのかわからなかった。
「売春」
「?」
「してるの」
「!」
「バイト先に来て、娘に選んでほしいってマフラー選ばせて私にプレゼントしてくれた。父だと思ってたの。私の本当の父親が探してくれたんだって。いろいろプレゼントしてくれて、小遣いもくれ、勉強できる部屋も借りてくれた。名乗れないけど父だと信じていた。抱かれるまで」
声も出ない。
「脅されてるの。学校にバラすって。篠田さんに知られたら……殺すわ。だから言わないで。話を合わせて」
「冗談やめてくれ」
チャイムが鳴りそれから操は俺の顔を見なかった。なぜ俺に告白した? 俺の気持ちを知っているくせに。
 バイトのあと、俺は操を付けた。彼女はタクシーを捕まえた。俺もあとを付け小さなマンションの前で降りた。エレベーターが3階で止まっていた。どうする? 止められない。叩きのめす。窓から放り投げてやる。自分がこんなに激昂するなんて。止められない。父にそっくりだ。
 俺は片端からインターフォンを鳴らし操を呼んだ。端の部屋の男がその男だとわかった。操が見ている前で急所を思いきり蹴って操を連れて逃げた。
「なんてことをしてくれたの? あなたはバカだわ」
言いながら彼女は笑った。いや、泣いたのか?
 俺はバカだ。夜道を操の手を取って歩いた。彼女は覚悟を決めた。夜遅く叔父の家にふたりで行った。
 後始末は弁護士の叔父に頼んだ。俺はどうなってもいいが、操のことは絶対守ってくれと。
 
 なにも起きなかった。両親にも知られなかった。男に俺を訴えることはできなかったし、男の罪のほうが大きすぎる。蹴り足りなかった。まだ怒りが収まらない。

 解放された操は俺に感謝した。
「軽蔑して。私を」
「ああ。軽蔑する」
「篠田さんには言わないで」
ばれてしまえばよかったんだ。篠田に愛想を尽かされ、捨てられればよかったんだ。

 哀れな女だ。操はそのあと結核がみつかり療養した。篠田は見舞いに行かない俺を責める。操は俺を愛しているのだと誤解している。
 行きたいよ。飛んで行きたい。ずっとそばにいてやりたい。操が望んでくれるなら。
「もう無理なんだ。あんな女とは付き合えない」
篠田に殴られてやり、操のことは篠田に任せる。操が愛してるのはおまえなんだ。おまえには死んでも知られたくない。俺は生涯話さない。俺は忘れる。

 操は2年の後半と、3年の前半休んだが戻ってきた。篠田がその間励ましていたのがわかる。戻ってきた彼女はよく笑うようになっていた。療養していた間、たくさん本を読んだらしい。思慮深くなっていた。俺に向けられた目は穏やかだった。俺が愛してるなんてこれっぽっちも思っていないのか? なぜ篠田なんだ?

 卒業間際、彼女に屋上に呼び出された。篠田のことを話す。幸せそうに。
「M橋から飛び降りて死のうと思ってたの。篠田さんがバイクで通りかかり止めてくれた」
操の出生、父親だと思っていた男は酒に酔い話した。母親には他に男がいた……
「母が死んでてくれててよかった。篠田さんは高校進学を諦めていた私にお金を貸してくれた。父にもよくしてくれるの。私には神様みたいな人なの。あなたは恩人だわ。一生忘れない」
 一生忘れない。それだけで充分だ。

 何年かしてふたりが結婚したことを聞いた。そして何年かして篠田は俺を呼び出した。指定された店に行くと篠田は酔っていた。ボロボロだった。
 父親の会社が倒産。
「頼みがある。おまえ、まだひとりだろ? なんで結婚しない? 操をまだ愛してるだろ? 忘れられないんだろ?」
篠田はまだ誤解していた。俺と操は愛し合いながら、操の出自と結核。三沢家の嫁にはできないからと諦めた……
 操の初めての男だと思っている。
「操もおまえを愛している。あいつに貧乏生活はさせられない」
ボロボロの篠田を家の前まで送る。豪華なマンション。篠田は、操に会っていけ、と離さなかった。
 連れて行かれた篠田の部屋。10年近く会わなかった操、子供のいない彼女はまた笑わない女になっていた。
「操、おまえの愛しい三沢を連れてきてやったぞ。会いたかっただろ? 隠れて会ってたか?」
操はひとことも喋らずコーヒーを入れた。
「どうなってるんだ? 君たちは?」
「金の切れ目が縁の切れ目。操は、俺と別れて三沢と一緒になれ」
勝手なことを喋りソファーで眠る篠田に操は毛布をかける。
「贅沢な生活も続かなかったわね。金の切れ目が縁の切れ目」
「本心じゃないだろう?」
「……子供ができないの。天罰かも」
「そんな天罰はない」

 できる限りのものを操に残し、ふたりは別れた。豪華なマンションは売られ篠田は再出発した。操を見守ってやってくれと篠田は頭を下げた。力になってやってくれと。
 操は働き始めた。俺は彼女の働いている紳士服店へ行った。スーツを試着する。彼女は1番高いのを持ってくる。愛想笑いでも嬉しい。言われるままにカードを出す。
 操はひとりで生きていく決心をしていた。子供好きな篠田のために操は別れた。まだ篠田は若いからと。

 操が働きすぎで寝込んだ。俺は篠田のために彼女に会う。少しでも俺を見てほしかった。しかしそれは叶わない。彼女は篠田の様子を聞くために俺と会う。
 篠田の事務所を訪れた。
「操は元気か?」
「結核が再発した。もう俺には無理だ。見合いした。結婚するんだ」
 篠田は仕事を放り出して飛び出して行った。



 もうすぐ30歳になる。また見合いだ。いやになる。夏の終わり、久しぶりにジムに行きプールで泳いだ。日曜の3時。子供と年寄りが多い。そこに目を引く若い女がいた。目を引いたのは泳ぎだ。延々と泳いでいる。広い肩幅。クロールと背泳を交互に。俺は同じコースであとを追った。等間隔でずっと泳いだ。彼女は自分のペースを崩さず4時に上がり更衣室へ行った。
 急いでシャワーを浴び着替えた。受付の近くで待つ。帽子とゴーグルで髪型も目もわからない。彼女はなかなか現れなかったが俺より早く帰るはずはない。
 しばらくして彼女は来た。あの肩幅。ダメだ。若すぎる。まだ高校生かもしれない。化粧していない光っている肌。染めていない長い黒髪、目が印象的だ。その下の泣きボクロ。スタイルもいい。肩幅だけ広すぎるが。おしゃれとはいえない服。しかしそのほうが引き立つ。
 彼女は歩き出す。誘うのは……できない。ただあとをつけた。彼女は近くのラーメン屋に入った。時間は5時前。
 俺は少し考え店に入った。まだ客はいない。彼女もいない? 夫婦でやっている店らしかった。彼女はこの店の娘か? ラーメンを注文する。しばらくして運んできたのは彼女だった。営業用の愛想笑い。働いているのか? この店で?
 彼女はサッちゃん。入ってきた常連客がそう呼んだ。幸子か? 繁盛している店だった。幸子目当ての客が多い。近所の若い工員が気安くサッちゃん、と呼ぶ。彼女はきびきび動く。無駄がない。ビールとチャーハンを追加。会計は暗算で素早い。俺は釣りをもらい彼女の手を見て驚いた。若い女の手ではない。大きくて苦労した手だった。傷があった。手のひらに……
 外に出て涙が出そうになった。小1時間いて得た情報。年は18歳。名前は幸子。秋田か青森の出身。中卒で東京に出てきて家に仕送りしている。水泳だけが楽しみ。今日も泳いできたのか? と聞かれていた。店は9時まで。
 9時に店の前で待つ。幸子は俺を見て戸惑い、どんな表情をしようか考えた。笑うか無視するか?
 無視して歩き出した。深呼吸して走り出す。まさか走って逃げるとは……それが速い。追いかけ肩をつかむと……不覚。彼女は腕を振り上げ、振り下ろし一瞬で逃げた。護身術か?
 決めた。笑わせてやる。心の底から。

 翌日仕事帰りに寄った。彼女が注文を取りに来た。ビールと高い順に3品頼む。店主の愛想がよくなる。
「顔が引きつってるぞ」
上客の俺に営業用の笑顔。石鹸の香り。
「今日も泳いできたのか?」
「プールでシャワー浴びるほうが銭湯行くより安いの」
彼女は客に言われ領収書を書く。難しいワタナベ、と言われポケットからメモ用紙を出しさらさら書いていく。難しいワタナベを何種類も書けるのか?
 俺も領収書をもらう。
「ツゲ」
「?」
幸子はメモ用紙に書く。
(拓殖)
難しい名前を探す。
「リンタロウ」
(林太郎、麟太郎、凛太郎)
 1週間通い詰めた。営業用の愛想のいい笑顔。店の常連客が幸子のおかげでまた増えた。母は察した。だが、聞いたら驚くだろう。論外だと。
 毎日領収書をもらう。徳川慶喜、諸葛亮。幸子はメモにサラサラ書いて笑う。愛想笑いではない。楽しんでいる。
「今日は誰?」
「スティーブン、キング」
彼女は英語で書いた。
(Stephen King)
中卒だなんて嘘だ。
「君の好きな男の名でいいよ」
「Heathcliff」
ヒースクリフ?
「今、読んでるの」
嵐が丘か? あんな長い難解な小説を。
 日曜日3時のプール。幸子は泳いでいた。あとをつける。彼女は笑った。営業用ではない。その日はラーメン屋まで並んで歩いた。嵐が丘の話をした。
「9時に待ってる」
彼女は頷いた。千万ドルの笑顔。俺に向けられた幸子の笑顔だった。
 久しぶりに家で食事した。見合いは断った。母は彼女がいるなら連れてこいと言う。まだ彼女ではないし、不可能な恋。
 その夜から9時に店の外で待ち彼女を送る。風呂もないアパート。幸子は11歳上の男を恋愛対象とは思っていない。おにいさん、と呼ぶ。言葉に訛りが残る。
「田舎に帰りたい」
愛しくて抱きしめた。
 足を踏まれる前に離し飛びのいた。
「おにいさん、私は男には興味ないの。レズビアンなの。男にさわられると蕁麻疹が出る」
幸子はボリボリ腕をかく。
「たくましい腕だ。若い娘の腕じゃないな」
泣くか? 殴るか? 
「バイバイ、おじさん。若い彼女が待ってるの」
おにいさんが抱き締めてはいけなかった。
「俺がおまえの故郷になってやる」
なぜそんなことを言ったのか?
 立ち去るなら2度とは会わない。諦める。諦めて見合いして結婚する。
 幸子は立ち止まった。心の声が聞こえたのか? ひとりで健気に生きてきた幸子が泣き崩れた。

 初めて部屋に入った。殺風景な部屋。初めてインスタントコーヒーを飲んだ。砂糖と粉末ミルクの微妙なバランス。
「おいしいでしょ?」
「ああ。うまい。毎日飲みたい」
テレビもない。働いてるラーメン屋では常についている。幸子は物知りだった。ニュースにワイドショー、政治、スポーツ、雑学、俺の知らないことを知っていた。中学の成績は良かった。漢字と数学、歴史の本があった。小説はたくさんあった。
 化粧水もつけない幸子に一式プレゼントした。
「こんな高価で面倒くさいものいらない」
「塩素で雪のような肌が荒れるぞ。流れる黒髪もパサついてる」
「ノルマがあるの? 買えないわよ」
「モニター用だから使った感想聞かせてくれ」 
マッサージを教えてやる。ふれる。唇にも。パックしている間に手のマッサージ。苦労して荒れた手……傷の跡……食肉工場でね……なにがあった? パックしているから喋らない。俺の15のときを思い出す。敬意を払う。ひざまずき手にキスの真似を。
「興味ないのか? 化粧もおしゃれも」
「化粧品より本がいい。CDがほしい」
 太宰治がたくさんあった。パラパラとめくると線が引いてある。
 
『誓う。あなたのためには身を粉にして努める。生きてゆくから叱らないで下さい』

『僕は恥ずかしさのために死にそうです』

『いつでもそばにいてくれ。どんな姿でもいい。俺をいっそ狂わせてくれ! おまえの姿の見えない、こんなどん底にだけは残していかないでくれ!』
 (エミリー ブロンテ『嵐が丘』)

『感情のないことの訓練をしているのだから怒ったりしちゃ変だ』
 (三島由紀夫『午後の曳航』)

 ひとりで都会で暮らす若い幸子。どれほど感情をなくさなければならなかったのか? 3度の転職。工場、住み込みの女中、住み込みのホテル。過去は聞きたくない。

 俺は線を引いた。
『自分たちの生殖器は、銀河系宇宙と性交するためにそなわっているのだ……数本が力強く濃くなって、白い肌の奥深く藍いろの毛根を宿している自分たちの毛も、その強姦の際、恥じらいに満ちた星屑をくすぐるために生えてきたのだ……』

 幸子はノートを付けていた。わからないことを書き出している。それが10冊以上。丁寧な字だ。辞書で調べるのか? 
 夭折の天才、揮毫……わからない言葉は調べて、済になっている。
 ベナレスで夜明けのガンジス川を見た。素晴らしかった……
「これは?」
「新聞の投書欄。自分の悩みのなんとちっぽけなことか……絶望してたときだったから……見てみたいわ」
(連れて行ってやる)
詩もあった。断片だけ。ラジオやテレビから聞こえてきた断片だけ。
(おまえはなにをしてきたのだと吹きくる風が私に問う)
「中原中也」
「おにいさんはなんでも知っているのね」
(ブドウの花は形も色もすぐれざれどその実熟しては人と神とを酔わすものを)
「?」
(ウェルテルであるかしからずば無か)
「?」
「おにいさんでもわからないの?」
「調べとくよ」
 ウイスキーのコマーシャルのピアノの曲?
 コーヒーのコマーシャルの雄大な曲?
 ラジオでクラシックを聴くのが好きだ。気に入った曲はCDが欲しい……買ったのは1枚だけ。エルガーのチェロ協奏曲、ジャクリーヌ・デュ・プレの演奏。悲劇の天才チェリスト。ラジオで聴いたの……
「バラがあるよ。ジャクリーヌ・デュ・プレ。白いつるバラ」
庭にある。見せてやりたい。
 あと、欲しいのは、バッハのバイオリン、なんとか……無伴奏??
「どういう曲」
「正座して聴く感じ」
「シャコンヌか」
「そうそう。シャコンヌ」
彼女の謎を解明していく。何年か前のコマーシャルの曲を口ずさむ。俺も思い出し口ずさむ。 
「チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番第1楽章」
幸子はノートに書く。
「おにいさんはなんでも知っているのね?」
「有名な曲を知らないんだな」
「私は無知だから……」
「無知じゃない。話していてこんなに楽しい」
「ウイスキーのほうは?」
「モルダウだよ」
この会話、クラシック好きの母が喜ぶだろう……いや、無理だ。
 幸子の数年来の疑問が解けていく。次に来る時はCDを持ってきてやろう。幸子からも教わる。彼女の心をとらえたジャズ、ロック、演歌、歌謡曲も。
 数学は好きだったから独学で勉強していた。高校数学の分厚い本。数列が面白いか? ラジオで英会話を聞いていた。
「もっと勉強したかった。友達の家にピアノがあって、素敵な応接セットがあって、私よりできないのに高校行った……ピアノ、習いたかった」
(今からでも習わせてやる)
「妹の芙美子には高校行かせたい」
バラエティに富んだ疑問。大半を解明してやる。
「駅弁の蓋についたごはん粒を食べ昨夜のことを思い出した? なんだ、これ?」
「週刊誌に。いくら考えてもわからない」
「なるほどね。わからなくていい。誰にも聞くなよ。そのうち……教えてやる」
キスは我慢する。この年下の娘の兄貴でいいじゃないか。やがて郷里に帰るまで見守ってやるだけで……

 幸子は貪欲に曲を聞く。貸したCDが頭の中で鳴っている。俺の好きな曲に共鳴する。
「あなたは弾けないの? テンペスト」
「妹たちも続かなかった」
ピアノは宝の持ち腐れ。
「子供に習わせたいわ。男の子に。テンペストを弾いてもらうの」
「俺の子に?」
幸子は肯定も否定もしなかった。
「指揮者がいいな」
 持ってきたCDをかける。俺の好きな女性歌手。
「初めて聞いたときは鳥肌が立った」
幸子は喜ぶ。英語の歌詞を必死になって聞き取ろうとする。
「ぜんぜん聞き取れない」
そして訳す。楽しんでいるやつにはかなわない。

 ヒースクリフ
 私よ、キャシーよ
 戻ってきたわ
 寒いわ!
 窓から中に入れてよ
(ケイト ブッシュ 『嵐が丘』から)
 窓を開けて、と、パントマイムをすると幸子は声を出して笑い真似た。発音を教えふたりで歌う。思いきり笑った。10代の娘は笑い転げた。
「君はなんでもできるようになる」
「ならないわ。なにひとつ、うまくいかない」
夜間高校に行けるはずだった。就職してみると話は違った。食肉加工工場で男の課長にひいきされ嫉妬された。袋詰めしている肉の中に包丁が紛れ込んでいた。
「美貌の罪ね。誰がやったかわかった。怖気付いてかわいそうだった。かばってやったの。自分の不注意だって」
幸子は笑う……抱きしめた。幸子は泣きもしない。
「あなたはどこかのお嬢さんと結婚して。私は田舎へ帰る。先に死んだほうが亡霊になって会いに来るの。何10年たっても」
 そうだな。それがいい。そうするしかないんだ。

 連日書斎で詩を探した。ようやく巡り合えたときの嬉しさ。ゲーテだ。

 恋人よ。おん身は幼い時は人にうとまれ、
 母にもすげなくされ、
 大きくなりても日かげ者なりきと。
 さもありなん。
 われもおん身を常に変われる子と思いき。
 ブトウの花は形も色もすぐれざれど、
 その実、熟しては、
 人と神とを酔わすものを
 
 幸子は夜食を作る。冷やご飯に味噌をつけただけのおにぎり。こんなものがなぜこんなにうまいのか?
 フラフープが置いてあった。
「捨ててあったから拾ってきた。卑しいでしょ?」
あなたとは住む世界が違うのよ、と目で言った。俺の感情などおかまいなしに彼女は回してみせる。永遠に回っていそうだ。
 マリー。俺はアポリネールの詩を思い出した。

 ここはきみが少女みたいに踊っていた場所
 マクロットダンスで、跳んだり回ったり
 きみはおばあさんになっても
 踊るのだろうね
 マリー、きみはいつ帰ってくるの

 人々は仮面をつけたように黙っている
 いつも聴こえていた音楽だってかすかで
 遠い空から流れているみたいだ
 そう、ぼくはきみを愛したかったんだ、
 でも、うまくは愛せなかった
 今でも、きみを思うと甘く切ない

 俺もやってみたがフラフープはすぐに落ちた。
「あのダンベルも拾ってきたのか?」
「そうよ。私は育ちが悪いの」
文句ある? そう言った。心の中で。3キロのダンベルを両手にそれぞれ持って腕を上げる。軽々と上げる。ひとりで生きていくの、と言うように。

 休日は合わない。彼女は休まない。俺が休むから出かけようと言っても。
「勉強したいことがたくさんあるの。それにね」
俺に嫌われようとする。
「たくさん遊んだから」

 19歳の誕生日に外に連れ出した。買ったばかりの車で迎えにいく。自慢した。バカだった。彼女は車にも詳しかった。高級車ばかり。服をプレゼントした。幸子が入ったこともない店で? 1桁違う金額の服。それを着て食事に行く。車の中で化粧してやる。淡い口紅だけで充分きれいだ。エレベーターから降り、彼女は堂々としていた。場慣れしていた。テーブルマナーは教える必要がなかった。ホテルで働いていたからだ……
「誘われるの、日常茶飯事だったんだろ?」
「当然でしょ。 百万出すって気持ち悪いのがいたわ。できないから添い寝するだけだって」
若くて美しい娘の過去になにがあったか? なぜ清貧に甘んじているのか?
 宝石店で指輪を選ぶ。幸子は意味がわからない。
「時間がないんだ。また見合させられる」
「私を……選ぶの?」
「ああ、そうだよ」
「もう、働かなくていいの?」
「1桁違う生活をさせてやる」
幸子は指輪を選ぶ。正面に陳列してある、車より高いダイヤ……店員が説明する。小娘に……幸子の質問に……店員がたじたじになった。
「これがいい。傷もないし」
無理だよ。それは……
「これが欲しい。1桁じゃいや。ほかのならいらない」
幸子は指輪を置いて出て行った。
「すみません、また来ます」
この女のためなら車なんか手放す……本当に欲しいのなら……
 しかし、幸子は笑っていた。笑い転げていた。ダイヤはただの光った石。
「驚いた。宝石にも詳しいんだな」
「原価も掛け率もね。ホテルで働いてたときに展示会のたびに手伝わされた……安く買えるわよ。紹介しようか? 私なら原価でいいって」
「……」
「金を払ってもいいって」
「百万で添い寝するだけか?」
幸子は俺の耳元で囁いた。
「な、め、る、だけよ。悪い? 大学いきたかった。大倹受けて……」
「……いかなかった」
「軽蔑してやるの。あなたみたいな高学歴の金持ち。バカばかり。1桁くらいじゃ……」
「……僕は恥ずかしさのために死にそうです」
「3月で都会とはお別れ。田舎にできるスーパーで働く……今より安い給料で。楽しみだわ。学歴を見下され、美貌を嫉妬され意地悪されて快感。次は何をされるか……」
幸子は手を見る。俺は想像しただけで震える。
「……じゃあ、それまで付き合うんだ。それまでに嫌いにさせるんだ。嫌いにさせてくれ」

 冬にマフラーを編んでくれた。忙しい時間の合間に編んでくれた。服のお礼だと。アイボリーの見事な編み方。
「毛糸は奮発したのよ」
幸子とふたりで首に巻く。帰ると母は手に取って調べた。
「アラン模様ね。がんばったわね」
母の質問をかわし幸せに浸る。容赦なく時は過ぎるのに。

 暮れに幸子は田舎に帰った。ホームで見送る。4日会わないだけなのに。こんなに辛いと思ったことはない。もう帰ってこないのでは? 不安が胸を押しつぶす。正月は地獄だ。親戚が口々に言う。まだ結婚しないのか? 
 退屈で書斎にこもる。昔読んだ本をパラパラめくる。見つけた。カミュのシーシュポスの神話。

 情熱恋愛の専門家たちが口をそろえてぼくらに教えてくれる、障害のある愛以外に永遠の愛はないと。闘争のない情熱はほとんどない、と。そうした愛は死という究極の矛盾のなかではじめて終わるものだ。ウェルテルであるかしからずば無か、そのどちらかだ。

 幸子は帰ってきたが本当の別れが近づいていた。
「こっちで働いて年に何度か帰ればいいじゃないか?」
「ハイジみたいに病気になる」
幸子はため息をつく。決心は変わらない。一方的な愛だ。怒りに任せゴミ置き場の袋を叩いた。右手に激痛が走り血が流れた。ガラスか? 割れたガラスが袋に?
 幸子は素早かった。近くの家のドアを叩き救急車を呼んだ。ハンカチの上から彼女の手が押さえる。気が遠くなっていく。
「しっかりするのよ」
頼もしい女だ。必死で俺を支えた。俺が守ってやる必要はない。守ってほしいのは俺のほうだ。
「一緒だな。おまえの手と……キスを……このままでは死ねない」
人間の精神力はすごい。遠のいた意識が戻った。気を失っている場合ではない。幸子の唇が正気に戻した。
 怪我のおかげで幸子は帰郷を伸ばし、ずっと付いていてくれた。手術の間は家族とは離れて待っていた。ふたりきりになると世話を焼いてくれた。食事、歯磨き、体を拭き、着替えさせる。そして……勉強熱心な女はキスの研究をする。角度を変える。映画のようにステキなキスを……ずっといてくれるなら治らなくていい。
 父が幸子のことを調べさせた。幸子の家族のこと。直接聞いた通りのことだ。深く付き合った男もいない。それでも反対する。母がとりなす。1度会いたい、と。なにを言われるかはわかっている。19歳の田舎の貧困の父親のいない中卒の娘。三沢家の長男の嫁にするわけにはいかないと。
 5月の連休に幸子は帰る。もう戻っては来ない。俺は幸子を家に連れてきて紹介した。幸子は家の大きさに驚き、グランドピアノに驚き、飾ってある日本刀に驚いた。
「本物? 斬られるかも」
幸子は買ってやった服ではなく普段の地味な服装で来た。ソファーに座らされ質問攻め。感情をなくすことの訓練を積んでいた女は、怒りも憤慨もせず涙も見せなかった。出されたケーキには手をつけず、壁に飾ってある額を見ていた。

  勧君莫惜金縷衣
  勧君惜取少年時 
  花開堪折直須折 
  莫待無花空折枝 

 母と1番下の妹には情けがあった。編み物、上手なのね、と言われ微笑んだ。すぐ下の妹の言葉に幸子は出て行った。立ち上がり俺の顔さえ見ずに、客にお辞儀をするように丁寧に頭を下げて出て行った。
「本当のことでしょ? 財産目当て」
父は聞く耳を持たなかった。男の孫は3人いる。
 追いかけると幸子は漢詩の意味を聞いた。
「花 開き 折るに堪へなば 直ちに 須く(すべからく)折るべし」
 
「花が咲いて見ごろになったら、すぐに折り取るがよい」

 海辺のホテル、幸子はベランダに出てすぐ真下の海を見て波の音を聞いていた。長い時間……体が冷え切っても。

 1週間後、幸子の実家に挨拶に行った。近くに部屋を借りた。幸子は当面俺を養うくらいの金は貯めていた。車を買ったばかりの俺が自由にできる金は僅かだった。幸子はスーパーで働く。籍を入れて夫婦になった。祝福は幸子の家族からだけ。
 5月の海、冷たくないのか? 幸子は足を濡らす。水を得た魚だ。泳いで行ってしまいそうで怖くなる。誰もこない海。長年の幸子の疑問を解いてやる。幸子の帰りたがっていた田舎の海、青空の下で抱きかかえた。
 
 操が2年前働いてた紳士服店のチェーン店に面接に行った。こんな田舎にもある。学歴、資格、販売経験。翌週から契約社員として採用された。
 操は契約社員のままだが、全国売上トップテンに入っていた。目標ができた。操に会うことはない。まさか俺がこんな田舎の店にいるとは思うまい。同姓同名の男だと思っているだろうか?

 子供ができた。母にはハガキで知らせた。父は許さないから返事はない。幸子は謝る。親と断絶させてしまったと。母になる幸子には耐えられないと。
 名前は考え過ぎるくらい考えた。結果、英幸《えいこう》ふたりの名前から1字ずつ。

 1年間、操と売上を競った。店に電話がきた。操から。
「あなただったのね」
「篠田とはうまくやってるのか?」
「ええ、おかげさまで。子供ができたの。8月に生まれるわ。あなたのお子さんの1学年下ね」
「8月か、葉月だな」
「葉月……きれいだわ。そうね。女の子だったら葉月がいいかも。恩人のあなたに名付け親になってもらうわ」
「僕は今、最高に幸せだ。君よりいい女に会えた」
「……おかあさん、大事にしなさいよ」
情報がいっているのか? 三沢家の長男が女のために家族も会社も捨てた。

 

亜紀、
 俺は捨てられない。思い出にすることだけは許してくれ。おまえは俺の最後の女だ。


「あなたはずっと前に読んでたんだ?」
「嵐の夜に。パパが……」
「……どうして、……愛は永遠じゃないの? ひとつじゃダメなんだ? ひどいよ。ママは。こんなに愛したパパを裏切るなんて」
「……裏切ったのはパパのほうかも。再婚したパパのほうかも……」
「そんな……バカなこと」
「なんとなく、そう思うことがある……あなたも?」
「絶対違う」
「……嵐の夜にパパはうなされてた。起こすと一瞬夢と現実の区別がつかないみたいだった。幸せそうな顔をしたわ。全部夢だったのか、みたいな……それからは本当の悪夢ね。再婚したこと後悔してるんでしょって私に暴れられて……ああ、おかしい」
「情けない男だ」
「……おじいさんが倒れ、会社も傾き、おばあさんは介護で体を壊しパパは戻った。お金がなくなると叔母さんたちは寄り付かなくなった。おじいさんは体が不自由でも怒るしね。
 あなたのママは半身不随のおじいさんの介護に、体を壊したおばあさんの世話、家の中のこと、外のこと、介護もお手伝いも頼まずひとりでやり遂げたの。パパが仕事に専念できるように。合言葉は
Don't give up.
 大変な時にお金を出したの。田舎から出てきたあなたのママはずっと節約して貯金してた。パパと結婚してからも自分の収入だけでやりくりして、幼いあなたを連れて配達の仕事をして、パパが手を付けずに渡した給料は全部貯金してた。パパはナンバーワンの売り上げだったから半端な額じゃないわ。それを3年間手を付けずに貯めていた。そのお金で会社は持ち直した。あなたのママは会社の功労者。株主なのよ」
「財産目当てじゃなかったんだ」
「3分の1はあなたに」
「春樹は?」
「3分の1。あとは……寄付した。幸子さんの遺志で恵まれない子供に」
ママはそういう女だった。
「欲がないのね。幸子さんと同じ」
「……最後のページはあなたが書いたの? 絶望か希望か」
「ああ、忘れてた。なんだったかしら?」
「パパと結婚して幸せ?」
「英語の英に不幸の幸。ひねくれてたわね……」
「教えて。パパの部下のこと。瑤子の元婚約者。この家に住んでた? 僕は覚えてない。社長は太陽だったって、酔って言ってた。誰の太陽?」
「……あなたのママよ」
「……」
「私の太陽でもある」
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