第26話 社長と私 1

文字数 6,368文字

 妻にせがまれてこの地へ来た。何度も断り誤魔化し、ついに誤魔化しきれなくなった。何年も避けていた思い出の地だ。

 瑤子……結納までして別れを切り出してきた。好きな男がいるからと。

 妻は寝ていた。まだ早い。ひとり散歩する。思い出の地だ。瑤子と散歩した。体は許したが心は最後まで許さなかった。愛しい悪魔のようなかわいい女、瑤子……

 15年以上経っているのに幻想か? 現れてほしいのか? あれほど打ちのめされながら、なお会いたいのか?
 幻想ではなかった。瑤子が走ってきた。向こうから。変わらず完璧なプロポーション、早朝のランニングはノーメイクだろう。なのに変わらず美しかった。
「瑤子」
女は立ち止まった。いきなり止まり苦しくなったようだ。深呼吸し息を整えた。
「しばらく。元気だった? 仕事で?」
「いや、妻と」
「……よかった」
「よかったか。君は……妖怪だな。歳を取らない」
立ち話をした。不思議に穏やかだった。今の自分が幸せだからだろうか? 殺したいほど愛した女だった。
「ひとりよ。まだ。お店を持つの。雇われ店長」
ブティックを持つのが夢だった。妻と歳は変わらない。

 瑤子の携帯が鳴った。電話に出た声が震える。顔が真っ青になっていく。
「母が畑で倒れた」
瑤子は走り出した。追いかける。また電話が鳴り病院に運ばれたと。タクシーは電話してもつながらない。
 私はすぐ近くの滞在しているホテルに寄り車で瑤子を病院まで送った。瑤子は小銭しか持っていなかった。妻から電話がきた。散歩の途中で具合が悪くなった人を病院に連れて行く……と言い訳をした。
 母親は亡くなっていた。瑤子は突然のことに呆然としていた。
 私は離れられなかった。瑤子は父親を3年前に亡くしていた。親戚が集まってくる。妻には適当に話しひとりで観光してもらった。
 社長に電話した。通勤前だからすぐに出てくれた。私がこの地へ来ていることは言ってある。15年以上経っているのだ。妻と旅行すると話したとき、社長は奥さん孝行しろよ、とだけ言った。

 瑤子の母親は亜紀さんの叔母だ。瑤子に偶然会った……母親の突然の死を社長は信じただろう。なるべく早く行く……君は……お願いします……私は電話を切った。君は奥さんのところへ戻れ、と言われる前に。

✳︎

 高校を卒業して就職した。当時は人手不足で先代の社長はわざわざ地方の高校まで求人に来た。小さな工場だが寮もある。
 私はすぐに決めた。東京に出て働きたかった。真面目だけが取り柄の私を先代の社長は認めてくれた。社長の1人息子は将来を約束されていたが、結婚を反対され家を出た。息子を失くした社長は私をかわいがってくれた。
 忙しかった。生産が間に合わないと休みを返上した。給料は上がりボーナスは大手企業の大卒よりも多かった。頑張った分だけ出してくれた。社長が好きだった。尊敬していた。 
 社長夫人はよく差し入れをしにきた。母より10は年上の夫人が驚くほど若くてきれいだった。私は初めて会った日に失態をさらした。三沢です、と言われ、娘さん、と聞いてしまったのだ。何度も謝ったが夫人は喜んでいた。世辞など言えない、言葉遣いもひどい若造の私は気に入られた。
 寮で不自由だろうと惣菜を差し入れてくれたり、服まで買ってくれた。成人式にはスーツを新調してくれた。ひとり息子に出ていかれ寂しかったのだろう。
 チェーン店に行くと、きれいな女性が採寸してくれた。顔に出してはいけない……夫人の前で……
「懐に入ればかわいがってくれるが、敵に回したら怖いよ」
先輩に言われていた。特に女子の事務員は美人はいないだろ?
 さすがに、夫人のがきれいです……とは言えなかった。ふたりは楽しそうに話していた。
「あの子、頑張っているのね」
あの子?

 社長が脳梗塞で倒れると途端に会社は傾いた。ワンマン経営、皆次々に離れていったが私は残った。貯金もあるし恩もある……

 息子が戻ってきた。私よりひとまわり上の、女房の故郷で暮らしていたという1人息子は、実にスーツが似合っていた。会社を見捨てず残っていた者は皆息子を知っていた。皆戻ってきたのを喜んでいた。余程人望があったのだろう。彼は誰よりも早く出社し経理の不正をすぐに見抜いた。私に給料明細と源泉徴収表を探させるとざっと見て怒りだした。実際よりもらっていることになっていた。3年間私の給料は誤魔化されていた。私が見ていたのは手取り金額だけだった。
「俺の女房だって見抜くぞ」
社長に信頼されていた甥の経理部長は帳簿を誤魔化し、家と別荘、高級車、小型の船まで買っていた。訴えるというのを嫁が止めたという。社長夫人ががショックを受けるから。夫人は介護疲れで寝込んでいた。
「おふくろが目をかけかわいがっていた甥だ」
甥は謝り全てを売って会社に残った。
「オヤジは次期社長にするつもりだった。バカなやつ。俺? 俺は田舎が気に入っているんだ」
息子に肩書きはない。英輔さんと呼ぶ。
 英輔さんは夜遅くなっても家に帰った。仮眠室もあるのに。
「女房の顔が見たいから……」
息子の顔じゃないのか?
「オヤジを風呂に入れなきゃな。女房に任せっきりで罰が当たる」
帰っても大変なのだ。介護士や家政婦を雇う余裕はない。
 寮を追い出された。
「悪いが売る……当面うちに来い。食事付きだ。女房のメシはうまいぞ」
女房、女房……親も家も会社も捨てさせたのはどんな女房なのだ?
 何度か招かれた豪邸。毎年正月には招かれていた。贅沢な食事、高価な酒、上品な社長夫人、外国映画に出てくるような小犬、調度品、家具、夢のような生活をしていた……英輔さんは骨董品を売り、夫人の宝石を売り自分の高級車を売った。
「介護手伝ってくれ。女房が親父とおふくろの面倒をみてる。妹? 金をかけた妹たちは知らん顔さ。借金の相続なんてとんでもないって」

 初めてあのひとを見た。日曜日の午前中に引っ越した。英輔さんとふたりで荷物を運んだ。あのひとは庭で社長とバラの手入れをしていた。
 化粧品会社の社長の息子の嫁が化粧もしていなかった。車椅子の社長の姿を見て涙が出た。社長の目からも涙がこぼれた。あのひとがさりげなく拭いた。手に血がついていた。バラのトゲで傷つけたようだ。社長が怒った。言葉にはならないが。手袋面倒くさい……あのひとが言い訳を……英輔さんが手を取り舐めようとした。ふたりだけならそうしていただろう。
「おとうさん、紹介して。自慢の嫁だって。美しいバラのような女だって……ヒヒッ」
文字にすればヒヒッとだろうか。下品でも上品でもなく、形容しがたい魅力的な微笑み……この笑顔に悩殺されたんだな……
 社長がなにか言った。
「雑種? そうよ。私は強い雑種」
「原種って言ったんじゃないですか?」
「原種だよ。飾らなくてもきれいで強い。原種のままでいろ。三島君、惚れるなよ、トゲがあるからな」
と英輔さんが冗談を言った。
 夫人は介護に疲れ驚くほど老けていた。

 あのひとは結婚を反対した夫の両親の面倒をみていた。父親は嫁に従順になっていた。最初は大変だったらしいが……母親は頼りきり謝ってばかりいた。幼い息子の英幸(えいこう)君は母親似で愛らしかった。夫婦の愛の結晶は私をおじちゃんと呼んだ。おにいちゃんだよ、おにいちゃん……
 あのひとは父親の介護に母親の世話、英幸君の世話、小犬の世話、広い家のことをすべてひとりでやっていた。食事は質素だった。金がないのだ。魚のアラなんて初めて食べた。英幸君に、食べ方がきたなーい、と叱られた。白米がうまかった。居候してからは下痢をしなくなった。英輔さんはあの人に仕事の相談もした。あのひとの助言で罪を免れた経理部長は、借入返済の期限を延ばしてもらってきた。
 あのひとは計算が早い。確かにあのひとなら見抜いただろう。数字に弱い私はふたりの話についていけなかった。カタカナの言葉がわからなかった。
 あのひとはクイズが得意だ。英輔さんよりも博学だ。記憶力がすごい。私は口を開けば無知を晒す。
 社長と夫人は就寝前に、レコードを聴く。社長の不明瞭な言葉でのリクエストをあのひとは理解し、レコードをかける。曲が始まると腕を上げ、指揮者の真似。振り下ろすと曲は始まる。老夫妻は笑う。本当の娘のようだ。あのひとは洗い物をしに行く。英輔さんが手伝う。エルガーのチェロ協奏曲……
 無知な私は高尚なクラシック音楽に眠気を誘われソファで眠った。体力も気力もあのひとにかなわない。英幸君が毛布をかけてくれる。せめて、この子の面倒くらいみなきゃならないのに…… ああ、うるさい……
「あなたには雑音ね」
あのひとの声……英幸君が起こす。おにいちゃん、お風呂入りなさい、歯磨きしなさい……
面倒を見られたのは私の方だった。ふたりで風呂に入った。体を洗ってやる。英幸君は私の背中を流してくれた。おにいちゃん、おにいちゃん、と懐いてくれた。湯船に浸かり歌を歌う。

 パパとふたりでひろったー たいせつな
このみーにぎりしめー

「ママの歌なんだ。ママのパパは死んじゃったんだって。ボクくらいのときに……ここが悪かったんだって」
英幸君は心臓を押さえた。

 ぼうやー つよくいきるんだー ひろいこのせかいー おまえのものー

「パパは死なないよね? パパが死んだらボク……」
「大丈夫だよ。おにいちゃんがいるから……おにいちゃんが守るから。英幸君と……ママを」

 ときどきはシャンソンが流れた。ミラボー橋。老夫婦の思い出の歌らしい。英幸君がレコードに合わせて語る。意味もわからないだろうに……社長もあのひとも加わり合わせる。

 ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
 われらの恋が流れる
 私は思い出す 悩みのあとには
 楽しみが 来るという
 日が暮れて 鐘が鳴り
 月日は流れ 私は残る

 手に手を取り 顔と顔を向け合おう
 こうしているとわれらの腕の橋の下を
 疲れた無窮の時が流れる
 日が暮れて 鐘が鳴り
 月日は流れ 私は残る

 流れる水のように恋もまた死んでゆく
 恋もまた死んでゆく
 生命ばかりが長く 希望ばかりが大きい
 日が暮れて 鐘が鳴り
 月日は流れ 私は残る

 日が去り 月が行き
 過ぎた昔の恋は 再び帰らない
 ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
 日が暮れて 鐘が鳴り
 月日は流れ 私は残る
(ギョーム アポリネール)

 初めてふたりが喧嘩するのを見た。
「こんなときだから欲しいの……欲しい。欲しい。欲しい」
なんの話だ? 
「もう一生やらないっ!」
 あのひとが怒って私の横を走っていった。怒った目を初めて見た。英輔さんはため息をついた。
「こんなときに子供が欲しいって……」

 仲直りしただろうか? ふたりは下で寝ている。父親にいつ呼ばれるかわからないから。私は眠れずキッチンで水を飲んだ。ふたりの部屋から声が聞こえた。
「思い出すな……田舎の海」 
「田舎に帰りたい」
「自分たちの生殖器は、銀河系宇宙と性交するためにそなわっているのだ」
「数本が力強く濃くなって、白い肌の奥深く……」
難しくて私にはわからなかった。
 中断され子供の声。
「ずるいよママ。僕の番。パパ、僕も抱っこ。ぎゅーして…………
 パパ……僕もお馬さん……えいっ!」
どんな体位で? 笑い声。あのひとのおおらかな笑い声、英輔さんの笑い声。子守唄。英輔さんの歌を初めて聞いた。社長もうまかったが……子守唄に聞き惚れた。
「パパ好き、ママ好き、おじいちゃんもおばあちゃんも、おにいちゃんも大好き」
すぐに眠ったのだろう。
銀河系宇宙との性交……続きが始まる前に私は離れた。
 悲惨な空気はあの家にはなかった。会社は倒産寸前。父親は半身不随、母親は体を壊し精神も参っている。親戚は寄り付かなくなっていた。
「皆で田舎で暮らせばいいわ。なんとかなるわよ」
いよいよピアノも売られていく。今まで残っていたのが不思議だった。あのひとは自分が買う、と言い出した。私は通帳を出した。車を買うために貯めた金でピアノくらいは守れるだろう。あのひとのために……あのひとは私の気持ちに感謝してピアノを弾いた。クラシックに精通しているあのひとはどんな素敵な曲を弾くのだろう? あの人が弾いたのは……
 猫踏んじゃった……
あのひとはヒヒッと笑った。社長も笑い出した。独学で練習していた。楽譜は読める。英幸君が歌う。
 猫ひっかいた……
英輔さんも歌う。
 猫、ごめんなさい……
若い母親は笑い転げた。つられて息子も笑い転げた。
 あのひとは絶望しない。笑いが溢れていた。
「いよいよ家も手放すか……ギブアップだ。ピアノはまた買ってやる。絶対買ってやる。英幸に習わせておまえの好きなテンペストを弾いてもらおう」
あのひとは通帳を出した。
「おまえを露頭に迷わせる訳にははいかない。皆でおまえの田舎に帰ろう。俺はまたスーツを売る。任せておけ。売り上げはトップだから。帰ろう。田舎に。おまえの好きな田舎の海のそばで皆で暮らそう」
あのひとは通帳を開いた。本人名義のもの。
「おまえの貯金くらいじゃどうにもならないんだ」
私たちは数字を見た。言葉が出ない。覗いた数字は桁を間違えたかと思った。通帳の残高は私の金額の10倍。
「どうしてこんなに? 俺が渡した金を全部積んでいたのか?」
あの人は就職してからずっと節約して貯金していた。結婚してからは自分の配達の収入だけでやりくりしていた。夫が渡した生活費は手をつけずに貯めていた。

 会社は持ち直した。あのひとの金で。私は部屋を借り三沢邸を出た。よかった。もう少しであのひとを好きになっているところだった。
 英輔さんは社長になった。会社は業績を上げていった。私を昇進させた。学歴コンプレックスを一笑に付した。
「女房は中卒だ。俺よりすごい女だ。俺の片腕だ」
 社長は私に苦手なことをやらせた。営業、会計、発表、スピーチ。いろいろな講習を受けさせた。高学歴の者ばかりが参加する……学歴で悩むとあのひとのことを思った。学歴など、口にしなければわからない者たちが口に出して私を見下した。

 先代の社長が危篤の時、病院へ行くと夫人と娘たちは泣いていた。あのひとは涙も見せず亡くなるとテキパキと後処理をした。しかし、私にはわかった。1番悲しんでいたのはあのひとだ。
 会社は順調だった。家庭も順風満帆……急用ができ久々に三沢邸を訪れた。夫婦は庭の椅子に座って……キスをしていた。美男美女。映画のようだった。息子が父親の膝に乗り真似をしてあのひとにキスをした。父親は息子の顔にキスをして舐めた。息子が嫌がると余計にペロペロ舐めた。幸せそうだった。社長が書類を取りに行った。
 あのひとの肌は光っていた。あのひとはおなかをさわった。ああ、銀河系宇宙との性交……待望の子を授かったのだな。なぜかピンときた。きっと女の子だ。あの人のように強い……
「夫と会う前は、卑屈で嫌な女だったのよ。笑わない女だった。恨んでた。自分の境遇、学歴。愛想笑いしかできなかった」
「まさか」
「この家の人たちも皆嫌いだった。夫は太陽なの。夫がいたから自分を好きになることができた。結婚を反対されて当然だった……ひどいことをしたわ」
私は常々聞きたいと思っていたことを口に出した。
「その手の傷跡は社長と同じですね」
あのひとは右の掌をみた。
「夫はバカなのよ。怒りに任せて外のゴミ袋を叩いたの。ガラスが入ってた。私は食肉工場で働いてたときに、肉の中に包丁がまぎれてた。つかんだの。袋詰めしてて……」
どちらもゾッとして言葉が出ない。
「美人だから嫉妬されてた。慣れてるけどね。ヒヒッ」
名状しがたいその微笑みの輝き……私もいろいろ読んだのだ。
 あのひとはまだ何か言いたそうだったが社長が戻った。

 幸せな家族のはずだった。それが私があのひとを見た最後になった。

 
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