第22話 嘔吐

文字数 9,400文字

 分厚い封書が届いた。差出人はCatherine
原稿在中
手書きの原稿 見覚えのあるきれいな字だ。
 
H高文芸部OGのマリーへ
   読んでいただければ光栄です。
      H高音楽部OB キャシー

            
        無題

 母が死んだ。今日死んだ。7月の暑い午後、母は幼児を庇って車の前に飛び出した。
 葉子から連絡が来た。状態を聞いても泣きじゃくり、要領が得ないとEの声に変わった。
「とにかくすぐ来るんだ」
実感が湧かなかった。電車の方が早い。家に向かう道すがら由紀夫は10年前のことを思った。

 難関校の合格発表の日、母と喜びを分かち合った。父は早世していたが、祖父母も大喜びだった。その週の土曜日だ。祖父母と母は法事で留守だった。黒いスーツに黒のストッキング、化粧は控えめだが母はきれいだった。出かけたあと母の部屋に入った。きれい好きな母の部屋は見事に整頓されていて、少しでも動かせばすぐに気づかれそうだった。タンスの上に亡くなった父の写真が数枚飾ってある。実物に抱かれた記憶はない。
 なぜあんなことをしたのか? 由紀夫はタンスをあけてみた。整頓された下着類をいじることはできなかった。和ダンスには紙に包まれた着物が入っていた。小物類の箱をそっとあけてみる。そこにはよくわからない着物の付属品が入っていたが、明らかにそれは隠してあったのだ。1本のビデオテープ。なにも書いてない。人の部屋に勝手に入ってはいけない。人のものを勝手に見てはいけない。父親代わりの由紀夫の祖父は孫を正しく導き育ててくれた。しかし由紀夫は誘惑に勝てなかった。
 すぐに後悔した。映っていたのは若い頃の母だった。入学式でも成人式でもなかった。若い母が恥ずかしそうに服を脱ぐ。きれいだよ、と男の声。恥ずかしがるなよ。ビーナスの誕生だ。手をどけて。目に焼き付けておくよ。君の体……テープは不鮮明だが明らかに母だった。若い母と男の行為だった。男の顔は映らなかったが父のはずがなかった。家のために自由な結婚はできなかったはずだ。祖父の選んだ会社の後継者、母は従うしかなかった。思い当たることがいろいろあった。母は電話が鳴ると必ず自分が出た。由紀夫が出ると電話は切れた。母は電話のあとすぐに出かけた。祖父母は黙認していたようだ。母は独り身なのだ。しかし結婚前から続いている? 由紀夫はぞっとした。父は知っていて結婚したのか?
 日が暮れて由紀夫は家を出た。帰ってくる母と顔を合わせたくはない。早足で歩き続けた。暗い方向へ導かれていく。そこで女とぶつかった。若い女は勢いよく倒れスカートがまくれた。悪夢だった。
 悪夢は女の方だったろう。乱暴されて殺されると思ったようだ。それほど異常者に見えたのだろうか?
 由紀夫は吐いた。悪寒がした。家に帰らないでいると祖母が探しに来た。15歳の孫を探す過保護な祖母だった。公園のベンチでみつかり由紀夫はまた吐いた。祖母は風邪だと勘違いして自分のコートを由紀夫に羽織った。戻れるのは家しかなかった。自分の部屋に入り鍵をかけた。従順な孫の反乱に家の中はパニックになった。祖父がドアを蹴破ろうとした。祖母が止める。ドアの向こうで祖父母が言い争っていた。
「あなたが厳しすぎたのよ。いつかこうなると思っていた。もう孫まで失いたくない」
母が宥める。私が悪いんです、と。終わりだ。由紀夫は机に頭をぶつけた。しかし気を失うこともできなかった。派手な1夜が明けると由紀夫は祖母の友人の家にあずけられた。

 母の顔はずっと見ていない。あずけられた家には小学生の女の子がいた。母親は亡くなっていた。面倒見のいい祖母の友人と幼い葉子は喜んで歓迎してくれた。家の主人は仕事が忙しく帰るのは夜中だった。
 由紀夫は勉強に打ち込んだ。悪夢を忘れようとした。ひとつの悪夢は理解しようとした。母はひとりの女なのだ。母の人生なのだ。忘れられないのはそれによって犯した自分の罪。あれは……現実だったのか? 自分が犯したのは夢の中の母親。吐き気がこみあげる。由紀夫は記憶を押しやる。そのかわりに償いとしてボランティアに精を出した。
 寂しがりやの葉子の面倒を見た。葉子の祖母に頼まれ女手では無理な仕事を任された。器具の取り付け、修理。由紀夫は得意だ。珍しく大雪になった翌朝の雪かき。葉子は雪の球を投げてきた。雪だるまを作った。
 3年間、由紀夫はその家の息子のようだった。葉子は妹のような存在だった。祖母はよく遊びにきた。母と祖父の話をした。由紀夫の顔色を伺いながら。祖母は由紀夫が荒れたのは厳格な祖父に反抗したためだと思っている。母は祖父の言うことには逆らえない。

 大学に入ると由紀夫はひとり暮らしをした。葉子の家を出るとき、葉子は由紀夫の車を追いかけて転んだ。胸が痛かった。ずっとそばにいてあげたかった。しかし……君のそばにいてはいけないんだ。僕は……なにをするかわからない。成長していく君のそばにいてはいけないんだ。
 由紀夫はボランティアに明け暮れた。辛い仕事は買って出た。アルバイトの給料が入ると寄付をした。寄付するところは次から次に出てくる。匿名ではなかった。償いだ。誰に認めてもらいたいわけではないが、許されないだろうが……いくらかでも自分の罪が軽くなるように……

 祖母が危篤……由紀夫は病室で母に会いトイレに駆け込み嘔吐した。祖母は誰かを待っていた。祖父に追放された甥か? 祖父の会社の金を持ち逃げし付き合いは絶たれた。祖母のかわいがっていた甥だったが、祖父は許さなかった。祖母はよく祖父を責めていた。厳しすぎると。死の間際まで祖母は待っていた。それ以来祖父も弱くなった。
 祖父は祖母の形見のレコードを聞いていた。由紀夫に聞いた。
「厳しすぎたか? 自由がなかったか?」
「そんなことないよ。いつもきちんと叱ってくれた」
本当のことは言えない。
「おまえは自慢の孫だ」
僕は犯罪者なんだ。
 祖父も祖母のあとを追うように死んだ。祖父も最後まで甥を、誰かを待っていた。
 母はひとりになった。家に戻れと親戚は言う。由紀夫にはもうわかっていた。母は知っていたのだ。こうなった原因を。几帳面な母親にはすぐにわかったのだろう。だが弁解できなかった。思春期の息子に言えなかった。母の顔を見れば息子は吐く。母はただ時が過ぎるのを待っていた。由紀夫が大人になるのを。
 家を出るのが少し早かっただけだ。


 母は書道を教え始めた。はがきが届いた。葉子を引き取ったと。葉子……懐かしい名前。母は20歳の葉子を自分の娘のようにかわいがっている。母のない娘と娘のない母。ふたりは一緒に買い物に行き料理をし寝るのも同じ部屋だ。葉子、僕の代わりに母に孝行してくれ、と由紀夫は願う。
 祖父母に線香をあげにいく。母の顔は見ない。葉子は変わっていなかった。由紀夫の目には眩しいくらい美しくなっていたが、10年経っても懐いてきた。10年の歳月を感じさせない。母との気まずささえ薄らぐ。
「来月も来てね。お線香あげに来てね。月命日には来ないとダメよ。月に2度は来てね」
葉子は甘える。子供の頃のように。
 そのうち母の書道教室には大人も習いにくるようになった。母の人柄だろう。由紀夫と同年代の男がふたり。日曜日に習いにきている。葉子とはしゃぎ手料理まで食べていく。由紀夫も誘われたが自分の部屋にこもった。
 生徒のEが弾いているのか? 女に持てそうな男だ。葉子が好きになるのでは? 心配だが彼はじきに結婚する。ピアノに合わせて葉子ともうひとりの男が歌っている。母が歌うのも初めて聞いた。

 小さな木の実

 歌詞に泣けた。父と息子の絆を歌う……由紀夫は入ってはいけない。楽しんではいけないのだ。
 それでも毎週帰った。月に2度が毎週になった。葉子の顔が見たくなって。葉子とふたりの男のことが気になって。
 もう充分苦しんだ。もういいだろう? 人並みの幸せを求めても。しかし夢を見る。思い出したくない夢。思い出したくない空き地。刑事が捕まえにくる。まだ時効ではない。時効間際に捕まったという強姦事件の記事も読んだ。
 あれは、事件になったのか? その話題を聞いたことはない。あれは、闇に葬られた……
 気がつくとEが目の前にいた。
「ごめん。ノックしたんだけど」
驚いた。彼は由紀夫の顔を覗き込む。
「優秀なんだね、君。また寄付したね。新聞に名前が出てたよ。偉いんだね」
この男は新聞の災害の寄付欄にまで目を通すのか?
「偽善者です」
「女に興味ない? 葉子ちゃんにも? まさかゲイ? 童貞とか?」
葉子とOも入ってきた。由紀夫さん、ゲイなの? えーっ? 童貞はOちゃん……キャッキャッキャッ……若い娘が
「三沢さん、彼女とうまくやってる?」
「やってるよ。ジャンクセックスはしてないよ。君に言われたから……」
若い娘が、若い男たちがあんなふうに、あんなふうに話せたら冗談にできたらどんなにいいか……
「ごめん。かあさんのビデオ、盗み見たんだ。きれいだったよ」

 病院で見た母の顔は事故で酷く傷ついていた。傷ついた顔を見ても平気だった。見ても嘔吐しなかった。悲しみは上滑りしていった。喪主として決めることが次から次にあった。葉子がそばにいて手伝ってくれた。悲しみに浸らないために葉子もキビキビ動いた。
 Eが母に死化粧をした。傷跡を隠し、生気を取り戻させていった。由紀夫は口を押さえて部屋を出た。

 母の葬式にその女は来た。母によく似た双子の妹。親戚は怒った。
「もうあなたに渡す遺産なんてない、あなたのためにどれだけ苦労したか、親の葬式にも来ないで」
 勘当された母の妹は正反対の性格だった。厳格な父親に従順な姉。反抗し家を出て行った妹。勘違いだった。あのビデオは妹のものだった。おそらく恐喝されたのだろう。母は妹に泣きつかれて尻拭いをしてやった。
 台所に立つ母そっくりの女。殺してやりたい。この女のために母は電話が来ると会いに行き金を渡した。
「ねえさんだけだった。味方は。かあさんは私を見捨てた」
叔母が振り向いた。母にそっくりの顔。
「いろいろあったけど今は幸せなのよ。息子がいるのよ。15歳。私に似ないで優秀なの」
ではその息子に見せてやろう。あのビデオを。どんな反応をするだろうか? いや、あんな反応をした自分が悪いのだ。なにもなかったように過ごせばよかったのだ。
 叔母が帰り由紀夫は祖父の聞いていたレコードをかけた。

 お前が生まれた時 父さん母さんたちは
 どんなによろこんだ事だろう
 私たちだけを頼りにしている寝顔のいじらしさ
 ひと晩中 母さんはミルクをあたためたものさ
 昼間は父さんがあきもせずあやしてた

 お前は大きくなり 自由がほしいと言う
 私達はとまどうばかり
 日に日に気むずかしく 変わってゆく
 お前は話を聞いてもくれない
 親の心配見むきもせず お前は出てゆく
 あの時のお前を止めることは誰にも出来なかった
  (Anak 日本語詞 なかにし 礼)

 我が子よ……祖父母は出て行った娘のことを思い泣いていたのだ。死ぬ間際までもうひとりの娘を待っていた。
 叔母のことを思う。情景が浮かぶ。悪い仲間に入り夜の街をさまよう。母は必死で止めたのだろう。由紀夫は母の部屋に入った。あの日以来だ。あのビデオをみた呪われた日以来……
『心を病む子供達』
これは妹を理解しようとして読んだのか? 久しぶりにビデオを見た。こんなもののために長い時間を無駄にした。祖父母にも辛い思いをさせた。
「君でもこんなもの見るんだ」
振り向くとEがいた。慌てて消そうとするとEが止めた。
「おかあさんだね。すごくきれいだ。ビーナスの誕生か」
なんていう感想を言うんだ。
「おかあさん、愛していたんだ。おとうさんを。結婚を反対されて駆け落ちした。優秀で従順なあの人が。なにも知らないんだな。おかあさんのこと。勘当されて君が生まれておとうさんは不治の病にかかった」
「母じゃないよ。母だと思い込んでいたけど違ったんだ。あの女だった」
「おかあさんだ」
彼は続けた。
「死を覚悟してふたりは愛し合った。おかあさんは乳飲み子かかえて頭を下げて戻ってきた。治療にはお金がかかるから。すぐにおとうさんは亡くなったけどおかあさんが愛したのは君のおとうさんだけ。君は日に日に似てくるって」
「母はあなたに話したんですか?」
「思春期にこれをみて、世界が終わった、か? 10年前の冬」
「……」
「神聖な愛なのに」
ビデオの終盤、男が喋る。
「死ぬときはこの何倍も気持ちいいらしいよ。神様の最後の贈り物だ。そう思うと死も怖くないな……由紀夫を頼む」
由紀夫の目から涙が吹き出した。声を抑えられなかった。なぜ最後まで観なかったのだ?
「最後まで観なかったのか? バカだな」

 納骨まで葉子はいてくれると言う。おかあさんのそばにいたいから、と。近所の目がある。親戚の目も。自分はいいが……葉子は近くに部屋を借り働くと言う。嬉しかった。母の残してくれたプレゼント……

 四十九日も過ぎ、EとOが線香をあげにきた。Eに言われ葉子と4人で散歩した。行きたくない場所。決して近づかなかった場所。悪夢を思い出す、いや、忘れはしない。
 そこはきれいに整備された公園になっていた。
「10年前は草が生えていて夜になると暗くて、女は危ないから通るなって言われていた」
Eが話しだした。彼の高校時代、愛した女が乱暴された。ここで……さらに不幸なことに妊娠した。さらに不幸なことに……

「僕は知らなかった。ついこの間まで。ついこの間まで、彼女の相手はOだと思っていた。彼女はOを愛しているのだと思っていた。

 彼女の手紙を読んで決心した。10年経ってる。犯人を探すのは不可能か? しかし、できるだけのことはやらなければ……
 翌週から僕とOは周辺を聞き回った。Oが仕事の日はひとりで聞き回った。あの公園の周辺は建売の家が立ち並び10年前にあった工場はなくなり、精神病院は老人施設に変わっていた。
 彼女の手紙にあった、夢遊病者か麻薬常用者。もう調べることは不可能か?
 ぶらぶらと歩き回ると古いたばこ屋があった。吸いもしないたばこを買い、話好きな老婆に昔の話を聞いた。引っかかることはなにもない。ただひとつだけを除いては。
 僕は老婆に聞いた家を探した。古くからの土地持ちの邸。
『あのうちの子は皆出て行った。娘も孫も。幹夫さんが厳しかったからね。娘はひどかったねぇ。孫の由紀夫君は真面目すぎたんだよ。名門の高校に受かったのに……』
 2月8日は私立高校の合格発表のあとの土曜日だった。その翌週、真面目な由紀夫君は大きな邸を出て行き、知り合いのところから通学した。なぜ? 以来祖父母が亡くなり母親ひとりが残されても戻らない。
 僕は家をのぞいた。娘も孫も出て行った。ではあの娘はなんなのだ? 20歳くらいの活発そうな娘は由紀夫君の妹か? 娘と目が合い、とっさに芝居をした。僕は立ちくらみがした振りをし、門の前でしゃがみ込んだ。
 あなたは駆け寄り庭に入れ椅子に座らせてくれた。落ち着いたふりをすると、あなたはわざわざ家に入り飲み物を持ってきてくれた。濁った茶色い汁。鰹節の匂い。
『飲んで。出し汁よ。ジャンクフードばかり食べてたらダメよ』
『ジャンクフード?』
『ジャンクフードにジャンクセックスはダメ。生き方を変えなきゃ』
思わずあなたの顔をみつめた。初対面の男になにを言い出す……? 日の光の下でもあなたはきれいだった。健康的で肌も目も髪も歯も輝いていた。本気で見ず知らずの僕を心配してくれた。心のきれいな女性だ」
「やめてよ。恥ずかしい」
葉子を無視して彼は続けた。
「女主人が出てきた。走ってきた。警戒していた。ピンときた。武道に精通している。あの人が守ろうとしたのはあなただね。
『ヨウコちゃんのお友達?』
とあの人は聞いた。ヨウコ、か。僕は取り入った。年配女性には受けがいい。礼儀正しいからね。表札に書道教室の看板があった。僕は生徒になった。Oも誘った。ヨウコはOの好きなタイプだ。

 思ったとおり、Oはあなたに惹かれていった。Oのシフトに合わせて日曜日の午前中早めの時間、僕たちは書道教室に通った。Oを見ると女主人の書道教師の警戒心は完全に解かれた。人徳。Oの人徳だな。幼稚園からの親友だ。Oは半紙に『葉子』と書いた。
『5月生まれ?』
とOが聞いた。
『8月生まれだろ?』
と僕が聞いた。葉月の8月。
『生命の息吹を感じる名前。亡くなったおかあさまが付けたのよ』
先生の説明にあなたは涙ぐんだ。Oは完全に惚れた。遅番の時間ギリギリまでいて、あなたに見送られ自転車を漕ぐ。Oの恋を応援したい。僕は本気でそう思っていた。しかしあなたには意中の男がいた。
 初めて由紀夫君に会った。僕は自分の推理が間違いだと思った。君はまるで聖職者のよう……手を合わせて拝みたくなるように神々しかった。おかあさんの自慢だった。災害があればボランティアにいく。警視総監賞をもらったこともある。物欲のない珍しい男だと。
 葉子は君を愛している。こんなにわかりやすい女はいないな。Oはがっかりした。Oは身を引く。Oはいつでもそうだが……
 Oはボーナスでペンダントを買った。振られてもいい。葉子の幸せを望む。いつも襟の高い服しか着ていないのはなぜだい? 葉子ちゃん。
『Tシャツを着ないな、病気の跡でもあるのか?』
Oでさえ気づいた。そのほうがマシだな。小説みたいに? クリスティの小説みたいにさ……病気のあとならどんなに醜くたってOの気持ちは変わらない。
 結局プレゼントは渡せなかった。先生が亡くなってしまったから……
 10年前の2月8日、ここで強姦したのはおまえだろ? 僕の彼女はずっと苦しんだ。今でも」

 もう覚悟していた。過去の犯罪を葉子の前で暴露された。優しいOが止めた。
「もう、やめろよ。葉子ちゃんの前で。S子は喜ばない」
「どうして、おまえはそうなんだ? こいつのせいでおまえは俺に殴られた。Oは妊娠した彼女を中絶させた。自分のせいだってことにして。僕は知らなかった。ついこの間まで。葉子、君にわかるか? 彼女の苦しみ。年月が過ぎても彼女は忘れない。犯人は嘔吐した。なぜだ? 嘔吐した。風邪か? 胃腸炎か? 心配症な彼女はエイズを疑った。エイズにかかった男が絶望して手当り次第移しているのだと……なぜ吐いた? おかあさんを見ると君は吐いた。あのビデオのせいか? あのビデオに刺激されて欲情した」
由紀夫は殴られ立ち上がった。また殴られるために。愛する葉子の前で下劣な犯罪を暴露された。死んだほうがマシだ。殴られ蹴られる……OがEを止める。葉子がEの前に立ちふさがる。
「どけよ」
葉子は両手を広げて立ち塞がる。
「あんたは罪を犯したことがないの?」
「……」
「もう充分苦しんでる。償いはしたわ。何人もの人を助けた」
「そうだな。許すよ。これで……君はなぜOを選ばない? 由紀夫は君にはふさわしくない。いや、君はOにふさわしくない」
Eが話した衝撃の真実。彼は葉子のハイネックの襟を引き下げた。いつも隠していた葉子の首にはくっきりしたアザがあった。
「刑務所で首を吊った。麻薬常用者は君だ」
衝撃を受けるふたりの男。葉子は力をなくし立ちすくんだ。
 葉子は自分から告白した。
「刑務所で首を吊り死にそこなった。死にそこなったのは2度目。由紀夫さんがいなくなって、おばあちゃんが死んでパパは忙しくて広い家にひとり。寂しくて悪い仲間と悪いことして……」
「万引きに援助交際。家出して売春、美人局、乱行。よく妊娠しなかったな? エイズにもならなかった。どこまでも落ちて覚醒剤に手を出した」
Eが付け加える。
「パパが、もう手に負えないから少年院に入れるって。それでもまたやって死にそこなった。遠い刑務所に入れられた。パパは面会にも来なかった」
「死にそこなってどうだった? 快感だったか? セックスの何倍も?」
葉子はEを睨んで続けた。
「ある日おばさまが面会に来たの。由紀夫さんの母親だって。懐かしい気がした。大好きだった由紀夫さんのおかあさん。おばさまは息子に見捨てられたって。私は父に見捨てられた。
 おばさまは私を引き取ってくれた。悪い友達が来るから家には帰さない。絶対立ち直らせるから覚悟を決めなさいって。トイレもお風呂も付いてきた。抵抗しても強くて敵わなかった。いろいろ教えてくれた。ママが生きてたら教えてくれたのかしら? 礼儀作法、書道、料理、本も読んだわ。たくさん話した。
 どうせ、汚れきった女だから……おばさまは、死んでもいいと思う人に巡り会うまで死んだらダメだって……」
そう言うと葉子は去った。去るしかない。
「追いかけろよ。由紀夫、早く追いかけろ」
「目糞、鼻糞を笑う、か。由紀夫君」
OがEを殴った。Eの唇が切れた。
「バカヤロウ。こんなことして……知ってたんだな、調べさせたんだ」
葉子を追いかけたのはOだった。
「バカなやつだ。由紀夫君、僕は消える。あとはOに任せる。仇は取った」

 死んでもいいと思う人と巡り会えるまで……
 圭介さんが言ってたな、あの女となら死ねた……僕も冗談めかして言った。マリーとなら死ねた……
 
『あんたは罪を犯したことがないの?』

 墓石の前でEは葉子とOに土下座した。
「かまわないわ。事実だもの。いつまでも隠してはおけなかった」
「自分の復讐のために君を利用した」
「そのまえに褒めてくれたわね。褒めちぎってくれた」
「事実だ。君は輝いていた。健康的に」
「おかあさんのおかげ。もっと早くに出会えていたら……」
「僕も罪を犯したことがある。庇われ守られ、道を踏み外さなくてすんだ。Oもいてくれた。幼稚園から一緒だった」
「ホントにいい人ね」
「君の過去なんか気にしないよ」
「……」
「バカ、葉子ちゃんが愛してるのはひとりだけ。子供の頃からひとりだけだろ? 僕は許すよ。おかあさんに免じて。由紀夫を許す。あいつは苦しんだ」
「……」
「ほら、迎えにきたよ。行けよ。あいつの償いだ。おかあさんの代わりに最後まで君の面倒をみさせろ。だから許す。行ってくれ。僕たちはもう少しここにいる。早く行けよ」
Oに言われ葉子は去った。Oはふたりが去るのを見ていた。
「あのペンダント、どうするんだ?」
「余計なお世話だ。派遣社員にかわいい子がいるんだ」
「俺が女だったら、絶対おまえを愛するよ」
「よせよ。気持ち悪い。唇、大丈夫か? 血が出てるぞ。もう、血は平気か?」
「おまえは……かばってくれた。小学校のとき、隣の子が彫刻刀で手を切ったとき、血を見てパニック起こした僕を宥め、バレそうになると自分が大袈裟に騒いで先生に怒られてくれた」
「そんなことあったか?」
「女みたいだって言われてたのに、弱虫だってわかったら絶対いじめられていた」
「やっと、結婚できるな、夏生と。どうする? 彼女に電話しようか?」
「時効はまだだ」
「もう、いいじゃないか。彼女は許すよ」
「夫がいるからね。まだダメだ」

                  完

 稚拙な文章、読んでくれましたか?
 あなたは行間を読んでくれるだろうか?
 題名は? 『Yの悲劇』
      『罪と罰』
      『我が子よ』
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