第5話 回想

文字数 7,145文字

 あの日、長い時間僕は歩いていた。父のことを思った。
 決断、愛するものを手放す。いやだよ、パパ、いやだ。マリーを離したくない。どうして治なんかを?

「なぜあんな男に? 俺が劣っているのはピアノだけじゃないか? おまえが、ピアノであいつを負かすんだ。最年少入賞という自慢の記録を塗り替えてくれ」

 僕が劣っているのは?
 亜紀は小学校のときから治を褒めていた。
「みんな自分を中心に地球は回っていると思ってるけどあの子は違う。自分のことよりあなたのことを考えてる。あなたは自分を不幸だと思ってるでしょ?」

 治だったら、虐待されても父を庇い心配するだろう。とうに許してうまくやっているだろう。小さな女の子がなにを言おうと、手を上げることはしないだろう。

 僕はなにかあると、治だったらどうするか? と考えた。真希と靖のことも。不器用にふたりの中を修復させようとしたはずだ。

 もう解放しなければ。続けてもマリーの心は手に入らない。マリーが決断できないなら僕がしよう。マリー、どちらか選べないならば、どちらも捨ててくれ。

 あの日、マリーを駅まで送った。とても家までは無理だ。駅で切符を買い渡した。改札まで見送った。
「僕は自分の名前が大嫌いだ。改名したいとさえ思った。ピアノも嫌いだ。君と話題にはしたくなかった。
 17番と1番はベートーベンのソナタだよ。僕は楽しんで弾いたことなど1度もない。
 君を愛さなければよかった。愛しすぎて壊れたパパをみていたのに……」
マリーは泣き濡れた顔でなにか言いたそうだったがなにも言わなかった。

 僕は部屋を片付けた。亡霊が出る立ち入り禁止の部屋だ。壁に絵が飾ってある。母親が子供を抱いている絵だ。ここは母が出ていく前に父と話し合った場所だ。母は僕かあいつかどちらかを選べ、と言われあいつを選んだ。父は手放せなかった。祖母が管理人に連絡した。母は衰弱していたが決心に変わりはなかった。祖母が後始末をした。父は別れさせた祖母まで恨んだ。父は酔うと泣いてた。
 帰ってこい、帰ってきてくれ……

 パパ、いいかげん葬ろうよ。亜紀はもう死んだママより長い付き合いだろ? 僕とパパの恩人。先生でもある。亜紀がいなかったら僕たちはどうなっていただろう?

 高校1年の夏休み、同じクラスになった圭が家に来た。
「三沢の坊ちゃん」
と言われ僕はキレた。
「取り替えるか? 圭。俺の家と、家族と俺の人生と俺の……」
圭は僕の剣幕に驚き、亜紀が何事? と出てきた。
「俺はおまえが羨ましい。父親から仕事を教わり母親の作った弁当を食べる。変わるか? 三沢家の長男の重責。成績はトップでなきゃならない。父がそうだったから」
「入試はトップじゃなかったろ? 手、抜いたな」
「そんなことないさ。おまえには負けた」
「嘘つけ。面倒くさかったんだろ? クラス委員は成績で決めたからな。おまえのせいでクラス委員になった俺は大変なんだ」
 圭は合宿でダンスをやるからと、個人レッスンをしにきた。前日の集まりはピアノのレッスンを優先した。そんなことは言えない。
 夏生もやってきて、彩と亜紀と5人でダンスの動画をみた。確か書斎にCDがあったはずだ。亜紀が聴いていたことがある。30年近く前にはやった歌。去年の文化祭でダンス部が踊った。 『嵐が丘 』
「これを男子がやるの?」と夏生。
「女装すれば……失言」と亜紀。
庭で圭は振り付けを教えた。夏生は英語の歌を歌いながらすぐ覚えた。彩も速い。クルクル回る。
「棺桶から出てくるのにすれば?」
亜紀が余計なことを言った。動画を探す。白いドレスの亡霊……圭と亜紀が僕を見た。
「いやだよ。絶対にいやだ」
「亡霊なんてパパが喜ぶわ」
亜紀の復讐。かわいさ余って憎さ百倍。いまだに前妻を忘れられない夫にチクチクといやがらせをする。僕と彩を使って父の心に波風を立たせようと……
 長い独身時代になにをやっていたのか? 才能を小出しにされ驚く。亜紀は指導した。演劇もやっていたのか? マリーも見るのに女装なんて……いや、僕は女装癖のある変態。それでいい。化粧をする。メイクの研究をする。夏生にもしてやる。傷跡を隠し目を大きくし……13歳の夏生には不自然だ。
「気にしてないから」
少し間を置き
「自分のせいだし」

 圭は部活の合間にやってきた。それが楽しみになる。夏生も彩も圭を待つ。踊ってみれば面白かった。皆で歌いながらパントマイム。何度か側転を入れる。夏生は得意だ。華麗に回る。僕と圭は息が乱れる。演劇部から借りてきたドレスとカツラ。その姿で乱れずに側転できるまで……歌が耳から離れない。父に見せるなら完璧に。
 完成した日曜の午後、父が見物した。父は僕を見る。それを亜紀が見る。父には思い出の物語なのだろう。亜紀の言う亡霊はキャシーに関係があるのか? 
 嵐の夜、亜紀は父に連れ戻され、翌日書斎でこの歌を大音量でかけていた。『嵐が丘』の本が開いてあった。

 いつでもそばにいてくれ。どんな姿でもいい。俺をいっそ狂わせてくれ! おまえの姿の見えない、こんなどん底にだけは残していかないでくれ!
 
 パパ、これで僕の復讐は終わりにする。あとはパパとの約束を果たす。そしてそのあとは僕は自由だ。
 夏生はこんなに明るく育った。僕の罪は?
 音楽が始まる。僕はダンボールの棺桶を開けてゆっくり出る。皆と一緒に踊る。クルクル回る。側転が多すぎる。夏生は少しも乱れない。最後の側転でカツラがはずれた。慌てて拾い圭に被せた。
 父と亜紀が笑う。手を叩いて笑う。彩が父に駆け寄り呼びかける。
「Heathcliff,it'me-Cathy.」
僕は心の中で言った。
「I hated you,I loved you too.」

  母の命日、父はいつもと変わらなかった。彩にキスされ車に乗った。僕は治のところで酒を飲み羽目を外した。翌日帰ると亜紀はすぐ気づいた。まだ酒は抜けていなかったし、服は圭介さんに借りたものだった。
「パパは?」
「会社に泊まり」
母がいるときはどんなに遅くても帰ってきた。朝も早いのに。仮眠室もあるのに。命日だった。墓参りに行ったのだろうか?
 シャワーを浴びた僕の目を亜紀は覗き込んだ。
「お酒は嫌いでしょ?」
「……」
「ドラッグとセックスは?」
「やってない」
本当? とは聞かなかった。
「もう無理だわ。私には。初めから無理だったのよ。彩ひとりでさえ大変なのに。思春期の男の子なんて。パパはなんの役にもたちゃしない」
「パパは無関心だ。女でもできたんじゃないの?」
「だったらマシよ。生きてる女なら許さない」
「……」
「あなたもパパもこの家で亡霊と暮らせばいいのよ」
僕はまた土下座して謝った。
「ごめんなさい。おかあさん。もう2度とバカなことはしません。お願いがあります。手話を教えてください。理由は聞かないで」

  高校で彼女と同じクラスになったことを、亜紀は夏生から聞いた。
「運命を感じない?」
「ぜんぜん」
「幸子」
「禁句だよ」
 幸子……父が呼んだ。何千回も。優しく、やがて狂おしく……僕は呼べない。その名前は。

 目標にしていたコンクール。本選間近、亜紀は僕の体と精神を心配した。
「倒れるわよ。映画みたいに。精神が壊れる」
「努力に勝る天才はなし、だろ?」
「……あなたにあるのは人目を引く容貌。礼儀正しさ。観客を魅了できるわ」
「言えよ。才能なんかないって。教授だってわかってる。桂が羨ましい。パパは桂の才能を見出した。桂はあいつを超えた。もういいじゃないか」
「好きでやっているやつにはかなわない。言ったでしょ。やめてもいいって」

 行き詰まり、マリーに醜態を見せた。立ちくらみがしたのは本当だ。彼女は支えようとした。崩れていく彼女を押し倒し、意識がないフリをし体を密着した。
 音楽の授業があったら大変なことになっていただろう。

「力が抜けたわね。いいことでもあった?」
マリーの感触を思い出し、顔に出るのを抑える。 
「結果はどうでもいい。コンクール体験に価値がある」
 意地も執念も、マリーの前では砕け散れ。僕にとって彼女ほど価値のあるものはほかにはない。

「聴衆賞、さすがだわね」
「あいつを超えられなかった」
「そんなことないわ」
「僕には、おかあさんがいる。あなたがいたから今の僕がある」
本当に感謝している。気恥ずかしくて映画のセリフを代用して伝えた。
「今夜、私があるのはあなたのお陰だ。あなたがいて私がある。ありがとう」
亜紀は照れて封書を出した。
「手紙がきてたわよ。あなたのママと同じ郷里の人」 
 母と同じ郷里? 佐々木由佳? 圭介さんと同じ姓、同じ町だ。彼の? 圭介さん、長身でガッチリした体格、野球をやっていたと……口髭と顎髭生やしてた。惹かれる。憧れる。会いたい。恥ずかしいが。汚名返上……入賞しました。最年少で。あいつと同じ3位だけど、聴衆賞のおまけつき……
(コンクールのビデオ、何度も繰り返し聴いています。私も練習しています。ショパンのピアノソナタ2番……)
「ファンができたのね? 返事書いたら? あっ、勿体無い」
 手紙は破り捨てた。惹かれたのは僕の外見だけ。
 もう、ピアノは解放だ。

 マリーが休んだとき、僕は葬儀で休むことにしてくれ、と亜紀に頼んだ。
「友達が不登校になった。千葉まで迎えにいく。ひとりでは帰らない」
「誰?」
「……」
「マリー、小さな太陽」
なぜ知ってる? なぜいつもわかるんだ?
 マリー……僕は呼んだ。何千回も。優しく、やがて狂おしく……マリー、小さな太陽!

  卒業式の日に彼女が訪ねてくると亜紀は喜んだ。
「気を利かせてふたりきりにしてあげたのに、キスもしなかったの?」
「友達でいましょうって」
「感じが変わったわね。憂いを含んだ彼女は美しい」
 
「喜びのあとには?」
亜紀がデートのたびに言う。
「夏生も一緒だ」
マリーは……嫌悪症……恐怖症。
「潔癖症」
夏生が気づいた。
「ドラマにあったね。すごい潔癖症の男の探偵。奥さんだけは大丈夫だった」
なにが言いたい? 

 春樹のことも亜紀が教えた。父は亜紀経由で僕に伝えた。
「芙美子さんが本当の母親じゃないって気づいたわ。繊細な子だわ。学校にも行ってない」
「ざまあみろ、だね」
……治ならどうするだろう? 父親違いの弟の面倒をみるだろうな、あいつなら。

 葉月のことも観察力の鋭い亜紀にはわかっていたのだろう。若い娘が父を訪ねてきた。父は降参し打ち明けたのだろう。父の初恋の人のことを。
 激しい恋はひとつではない。

 別荘から戻ると亜紀は気づいたようだ。
「ベナレスで夜明けのガンジス川を見たんだ。素晴らしかった」
「なんだよ? それ?」
「昔、なにかで読んだの。自分の苦悩のなんとちっぽけなことか……」
「行ってこいよ。パパと」
「パパは行かない。私とは」
「……どういう意味?」
「パパが愛したのはただひとり」
「……」
「ふたり……」
寂しそうな亜紀の顔を見たのは初めてだ。

 父は他人には優しかった。面倒見がよかった。部下やその家族、それに……

 まだ、ときどきは女の子に間違えられていた中学1年の夏休み、背は平均より低く、体重は女子より軽く華奢だった。3月生まれの僕の外見は幼かった。心は老人のようだったが……母親譲りの白い肌、女だったら、女に生まれていたら父の扱いは違っていたのだろうか?
 治と区のトレーニングジムに通った。誘った。頼んだのだ。一緒に行ってくれ、と。初回と2回目はコーチに付いてマシンの使い方をマスターしなければならない。そうすればいつでもひとりでトレーニングができる。1回 300円。若い子は少なかった。来ているのは年配者、老人が多い。
 その日は3人が初心者で年配の男のコーチが指導した。身長、体重、体脂肪、血圧……を測っていく。太った女がいた。年は不明。メガネをかけ青春からはじかれた体型。コーチが意地悪く笑う。コーチも年齢不詳。歯が数本抜けている。抜けたまま放置。見かけより若いのか? 痩せていてるが筋肉はすごい。治は持ち前の優しさでフォローする。無口な僕と無口な太った女と、優しさのかけらもないようなコーチとの間で、太った女が傷つかないようにフォローする。
 女はスポーツには無縁のようだ。ストレッチでぐらついていた。マシンの使い方を1通り教わる。コーチは、か弱そうな僕の筋力に驚いていた。
 最後にランニングマシンで走った。治はすぐに脱落。隣のマシンで、太った女がバタバタ走る。呼吸を乱し、無理をしている……女は貧血を起こしたのか、僕はマシンを停止させた。コーチより先に治が走ってきて僕とふたりで支えて座らせた。血の気が戻ってくる。コーチが無理しないで、とわめく。女はしばらく休んでいた。そして、帰り、優しい治は住所が近いから送っていくと言い出した。
 治は誰にでも優しいのだ。大丈夫だから、と言う女の横で話しかける。年は……高校3年、都立高。そこそこの学力。体重は70……コーチは大声で言ったあとに声をひそめた。一念発起、夏休みの間に痩せたい……最初から無理しちゃダメだよ……僕は無言。
 治は2回に1度は僕に付き合った。あいつには寄ってくる友達もいたし落語クラブにも入っていた。僕は合唱部に所属はしていたがよくさぼった。ピアノの練習と勉強だけで睡眠時間さえ削ったが、幼い頃からの劣等感を克服したかった。
 太った女は桂さん、と呼ばれていた。僕は三沢クンだから、名字なのだろう。桂はよく来ていた。僕は1日おきくらいだが、彼女はいつ行ってもいた。午後の1時間トレーニングをした。成果があるのかはよくわからないが。治はその夏、背がぐっと伸び男らしくなった。努力している僕の身体は相変わらずで、逞しさとは程遠い……いっそ、桂の身体と交換したいくらいだ。
 隣のランニングマシンで桂が走る。もう貧血は起こさない。彼女は1キロをゆっくり走る。自分のペースで。それを何回繰り返すのか? 僕たちは口をきかない。かたくなにどちらからも話しかけない。治は来ると気軽に声をかける。痩せたんじゃない? 痩せたよ。きれいになった……恥ずかしくもなく口から出る。羨ましくなる。治の性格。桂も気さくな治には心を開く。僕には話しかけない。かたくなに、意地でも自分から話しかけるものか……とでも。
 その日、桂の手に目が止まった。今までしっかり見ることはなかった。桂は視線を感じたようだ。なに? というように僕を見返した。
「ピアノ、弾きますか?」
そこからは話が弾んだ。桂はピアニストを目指していた。家では思い切り弾けない。グランドピアノで弾きたい……
 急速接近に治は驚いた。亜紀も僕が初めて連れて行った女、いや、2度目か、香がいたな……を見て驚いた。5つ年上の太った女、10キロ近く体重を落としたらしいが……
興味があるのは彼女のピアノの腕。目指すコンクール。
 桂は思いきり弾ける環境を羨ましがった。送っていったのは小さなマンションだった。思いきり弾いたら苦情がくるだろう。
 三沢家の古いグランドピアノで最初に弾いたのは……最初はわからなかった。ゆっくりで、別の曲かと思った。今まで僕はなにを弾いていたのだろう? この曲を速く弾いていた。モーツァルトのよさはわからなかった。簡単でつまらない……桂の8番は違った。僕は初めてモーツァルトに泣いた。恥ずかしいが、とめどもなく涙が出てきた。
 父がハンカチを頬に押し当てた。父が帰ってきたのにも気づかなかった。恥ずかしがることはない。感動したのだ。崇高な音楽に感動した…… おまえのとは大違いだ……そう思っただろう。父と亜紀と3人で拍手した。桂は父の出現に驚いたが、クラシック好きな魅力的な男にリクエストされ、次々に弾いた。暗譜で。夏生が音に惹かれてやってきた。
 トレーニングジムでは冴えなかった、歯の抜けたコーチにさえ軽くあしらわれていた女が、ピアノの前では魅力的だった。
 夏生は習っている曲を弾きアドバイスを受けていた。僕は彼女の前では恥ずかしくて弾けない。亜紀が茶と菓子を出し、父が彼女に紅茶を注いだ。父はいろいろ聞いていた。驚いたことに彼女に練習場所を提供した。僕に教えることを条件に。亜紀と気の合った彼女はいろいろ話していた。コンクールにドレスを着たいの。だから、痩せたい……ドレス、夏生が興味を示した。絵に描く。紺か、黒か、濃い色がいいよ。ボクは、女だよ、一応……
 その夏、桂はトレーニングに励み、僕にピアノを教えに来た。父が手配したピアノの教授が僕と桂を教えにきた。コンクールに多勢入賞させてきたベテランの年配の男だった。父はそのために多額の金を使った。教授は桂に夢中になった。僕にはほんの少し教えるだけ。父は僕との約束を覚えていたのだろうか? 桂はあの男と同じ年、おそらく3位以上の賞を取らせたいのだろう。
 亜紀は痩せたい彼女のためにいろいろアドバイスした。父の帰りが早い日は夕飯を食べていった。太った女はメリハリのある体になっていった。亜紀は気が付いていたのだ。なぜ彼女が短期間で変わったのか。青春からはじかれていた女は一気に魅力的な女に変わっていく。
 その年の秋、桂は僕の目指しているコンクールに出場し1位になった。色の濃いシンプルなブルーのドレスを着て会場の注目を浴び、演奏で一層惹きつけた。彼女から学んだことは多い。彼女の訪れが父と僕の距離を少し縮めた。
 18歳の女と42歳の男。桂は恋をしていたのだ。亜紀にはわかっていた。恋の魔力はすごい。鈍感な父にはわからないのか?
 その後、彼女は音楽留学し活躍するようになる。

 治はいつでも……いいやつだった。
 親友を失った。ふたりも…
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