第20話 美容院の女

文字数 3,806文字

 治は母と祖母の話を小耳に挟み、その美容院を訪れた。自転車で小1時間。
 幼い治を捨てた父はこの美容院の女と再婚していた。いや、再再婚だ。
 駅の近くではないから家賃も高くはないだろう。ひとりでやっているらしい。客がひとりいた。
「あら、珍しい」
「あら、若くていい男」
女店主と年寄りの客が言った。店主の美容師は髪は長いが……美容師か? 自分の頭をなんとかしろよ……
 客は施設の入居者くらいの年、80は過ぎているだろう。
「男は滅多に来ないから雑誌もないのよ」
店主はドライブの本をテーブルの上に置いた。東京周辺のドライブの本。
「ドライブ、趣味なんですか? 運転うまそうですね」
「旦那が運転。私は酒飲んでる」
豪快に笑う。
 父は運送業のはず、運転のプロだ。細い男だった。かつては……20年以上前だ。出ていったのは。治の母親は勝気だった。祖母も。ふたりの強い女に閉口して帰ってこなくなった。居場所がなくなったのだと……それなのに、この体格の良すぎる豪快な女が妻なんて……

 三沢英幸(えいこう)、あいつの名前を借りた。住所は覚えている。簡単だ。同じ町名。同じ2丁目。あいつの家は3の4。
 髪を切り話した。かかっているBGMの話。余計なことは聞いてこない。先ほどの老婦人とは親しく話していたのに。
「店長さん、ドライブ以外の趣味は?」
「海外ドラマかな。客が来ない時は奥で観てる」
治も観ているドラマだった。話に花が咲く。
 カットだけだから早かった。金を払い釣りをもらう。名残惜しかった。

 帰りにケーキ屋があったので6個買った。母と祖母と自分の分。2個ずつだ。また美容室の前まで戻った。美容院の女は自転車で帰るところだ。思わず声をかけケーキを渡した。
「旦那に食べさせなよ。酒飲まないんだろ?」
「こんなに……ありがとう」
大声で女は言った。
「また、おいでよ」

 帰り、三沢邸の前を通った。何年ぶりだろう? 同じ町内なのに。子供の頃は毎日のように遊んだ。迎えにきた。邸の庭でも遊んだ。あいつは母親に捨てられた。だから親しくなれた。誓ったのだ。(こう)と3人で。絶対親を許さない。親が死んでも泣かないと。墓に唾を吐きかけてやろうと。
 あいつに会えるわけないな。裏切りそうだ。父が幸せで嬉しいと思う。香は守るだろうな。誓いを守るだろう。
 あいつはどうしているだろうか? 墓に唾をかけに行ったか?
 治は絶縁した親友のことを思った。ある事件がきっかけで絶縁してしまった。
 オレがそういう男だと思っているのか? 幼稚園からの付き合いなのに。

 1か月後再び美容院を訪れた。美容師の女は覚えていた。当たり前だ。接客業なのだから。小さな店に客は治だけ。
「三沢さん、仕事は忙しいの?」
「はい。正月も関係ないです」
仕事のことを話す。女も母親のことを話した。認知症で……亡くなった。千葉の実家は荒れ放題。海まで歩いてすぐよ。いずれ、歳とったら帰る。サーファーだったのよ。
 その体で?
「旦那さんも?」
「田舎なら金がなくても何とかなるからね」
「旦那さん、お金ないんですか?」
「年金はかけてるわよ。別れた子供が3人、ようやく養育費払い終わる……ひとり優秀なのがいるって自慢してる」
養育費、出していたのか?
「ドラマにあるじゃん、最初の息子に会ってもわからないの。ギター弾いて歌うの」

 治は辛くて話題を変えた。仕事の話。認知症の話。女の母親もそうだった。男の介護士が来ると目の色が変わり、我が母ながら嫌だった……自分の息子より若い男に色ボケ……
 自分も若くなってますからね……
 私に嫉妬するのよ……

 あの人も……病気だったのか? 脳の病気、それとも心の?

 智恵子は東京に空がないと言う……
あいつのママが教えてくれた。
「おばちゃん、田舎に帰りたいの?」
おばちゃんと呼ぶには若くて美しすぎる人だった。真っ白で……
「治ちゃんは人の気持ちがわかるのね」
「……なんでも買えるのに……」
「なんでも買えたら幸せだと思う?」
治は首を振った。
「気がつくかしらね? 大事なものなくす前に」

 あいつは金持ちの嫌な坊ちゃんになっていた。欲しいものは、祖母がなんでも買って与えた。治に見せびらかした。あいつのママは何も言わずにゲームを取るとすごい握力で壊した。壊してゴミ箱に放り投げた。見事にストライク。あいつは呆気に取られ、泣くことも忘れた。
「友達なくすぞ。ママにも捨てられるぞ」
治が叫んだ。わかったのだろう。あいつは急いで後を追いかけ謝っていた。何度も何度も。
「おばあちゃんよりママがいい。ママが好きだ……」 

 よくプールに連れて行ってくれた。プールに入るとずっと泳いでいた。人魚のように。帰りにケーキを食べに連れていってくれた。店員が間違えた。あいつは怒った。ボクは苺だよ。治は言った。チョコも好きだからいいよ。
 
 あの男が夏生の部屋の隣に越してきた。夏生のママはウキウキしていた。おかずや菓子を差し入れし、夏生にピアノを教えてもらった。小学校の音楽教師にあいつもピアノを教わった。金を受け取るわけにはいかないから、あいつの祖母も高級菓子や果物を渡していた。あいつのママは無関心だった。そう見えただけだったのか? 
 そのうち、あいつの家に皆が集まってピアノリサイタル……夏生母娘と治も呼ばれた。あいつの祖母はクラシックファンだったから次々にリクエストしていた。あいつのママはキッチンでひとりで目を閉じて聴いていた。治がそばに寄っても気づかなかった。
「向こうでみんなと聴けばいいのに」
「気にして見に来てくれたの? 治ちゃんは優しいね」
音当てゲームだ。あの男が鍵盤を叩く。夏生が当てる。あいつは少し当たる。治にはわからない。あいつのママは……
「全然わからない」

 あいつのママは果物を切り盛り付けた。あいつが喜ぶように動物の飾り切り。器用な人だった。
「おばちゃん、その手の傷どうしたの?」
「前に、働いてたときに切ったの。包丁で」
「気をつけなよ」
「パパにもあるのよ。同じような傷。パパのは不注意。おばちゃんのは嫉妬。ひいきされてたからやきもちやかれたの。わかる? 治ちゃん」
治はうなずいた。だから、ここで聴いてるんだね……
 
 あの男が苦しんでいた。あいつと夏生と、あの男の部屋に行くと死にそうだった……と思った。あいつはママを呼びに行った。ママは大人の男を、パパみたいに大きくはなかったが……支え階段から降ろすと車に乗せて病院へ連れて行った。若いふたりになにがあったのかなかったのか? ふたりきりになったのはそのときだけのはずだった。
 そのあとあの男は手術をし、見舞いには夏生のママとあいつの祖母が行った。あの男に好意を寄せていたのは夏生のママの方だと思っていた。あの男よりは10も年上だったが。 
 それからあいつの叔母さんが家に来るようになって、ママより若い大学生。ふたりは付き合うようになった。夏生のママの淡い恋は終了。ふたりを応援するようになった。

 治は思い出す。あの男の部屋のベランダから三沢邸の庭がよく見えた。あの男は見ていた。バラの手入れをするあいつのママを。祖父が亡くなるとあいつのママは近くの畑を借りて野菜を作った。三沢家の若奥様が長靴履いて畑で……あの男は通りすがりに見ていた。見るために通りすがる……

 あの人は……嫉妬していた。あの人の嫉妬があの家を壊した。

 あいつのママは妊娠していた。おなかを撫でていた。幸せそうに……治が気付くと困ったように微笑んだ。
「英幸はどっちが欲しいと思う?」
「弟だよ。妹は夏生がいるから」
「まだ内緒よ」
唇に人差し指を当て、そしてため息をついた。なぜ? 治にはわかっていた。
「治ちゃんは人の気持ちがわかるのね」
「気をつけて……」
知られたら……悪いことが起こりそうだ。あいつのママは自分の手を見た。

 喋ったのはあいつだった。そして悪いことは……起きた。

 救急車がきてあいつのママはおなかを押さえ言った。消えていく意識の中で何回か訴えた。夏生と同じだ。治にはわかっていた。夏生の頬の傷はあいつがやったんだ。どれほど悔やみ苦しんだか……いくつもの苦しみが重なりあいつの記憶にはモヤがかかっている。

 治は自分の想像が恐ろしくなった。あの人は病気だったんだ。

 あいつのママは出て行った。近所のものは噂して喜んだ。羨ましがられていた大きな邸の醜聞。崩壊。

 亜紀さんは? 父親は? まさか、知っているのだろうか? 知っていて再婚した? いや、それはないだろう。
 わからない。そもそもこの考えがあっているのかもわからない。しかし、あいつのママは……

 あの人は……

 治の施設にもいる。自分が1番でないと気が済まないのだ。食事も薬も風呂も1番でないと気が済まない。扱うのは楽だ。褒めておだてれば機嫌がいいのだから。

「終わったわよ」
女の声が現実に戻した。
「20年近く経ってるんだ。今更……」
「鏡の中の三沢さん」
「……」
「ケーキ3個も食べたわよ。1度に。おいしかった」
「……今日も買ってくるから食べさせなよ」
「亭主はモンブランが好きなの」
「甘党なんだな。酒飲まないのか」
「海外ドラマみたいね。あなたは……腎臓でもあげそうだわ」
「父親に似たのかな? 優しいだけじゃダメだって言われるよ」
「またおいでよ」

 20年か30年後、面倒見てやるよ。あなたを……だから頼む。亭主を……
 甘いな、あいつには言えない。
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