第14話 縁

文字数 8,741文字

 由佳の兄は3歳になった夏、川に落ちて死んだ。かわいい盛りだった。母は自分を責め精神を病んだ。分家の同い年の圭介を母は自分の息子と間違えた。思いこみたかったのだろう。圭介は由佳が生まれるまで本家で暮らした。
 由佳の誕生は母の症状を改善させた。由佳は過保護に育てられた。危険なものは排除された。いつのまにか、分家の圭介は由佳の許婚になった。
 5歳年下の由佳はかわいかった。やんちゃな圭介が親に叱られると慰めてくれた。
「いい子、いい子」
と頭を撫で頬にキスしてくれた。かわいくて圭介はわざとしょんぼりして由佳に会いにきた。
 自由のない由佳が気の毒で、川に連れ出したときは大騒ぎになり叱られた。叱られる圭介を由佳は庇った。
「由佳は圭ちゃんのお嫁さんになる」

 由佳は体操部に入りたかったが母は許さなかった。水泳だけは許してくれた。命を守るために。あとはピアノ、習字……由佳は好きではなかった。
 草むらでひとりで体操をした。倒立、ブリッジ。体操部の子の真似をした。圭介が支えてくれた。
 圭介は高校生になると野球に打ち込んだ。2歳上のマネージャーに恋をした。彼女が卒業すると付き合った。河原でデートをした。草むらで愛し合っていたときに由佳がやってきた。すぐ近くで練習した。倒立して前転した。何度も何度も。息をひそめていたがふたりは同時にくしゃみをした。まだ生理もない少女はふたりを見つけて驚いたが、得意になって演技を見せた。

 彼女は家業を継ぐために理容学校へいった。長女の彼女は婿をとる。圭介は長男だ。姉がふたりいる。長男だが本家の由佳と結婚するさだめだ。圭介には結婚などずっとあとのことだが、彼女のほうはそうではなかった。相手も決められた。彼女は好きな男とは一緒にはなれないと諦めている。彼女の結婚が現実味を帯びてくると圭介は決心した。母親に宣言した。大学へはいかない。理容師になる。理容店の婿に入る……母は当然猛反対した。
 母は彼女に金を渡した。その金で彼女は圭介に身を引くよう頼んだ。障害者の弟がいるの……もう結婚するの。決めたの。全部面倒みてくれる人なの……家のためなのよ。あなたじゃダメなの……そのあとは言い争い。寝たのか? 寝たわよ。初めてのフリをした……圭介は手切金を叩きつけた。

 忘れたくて東京の大学を受験した。母は反対し口を滑らした。せっかく別れさせたのに……どういう意味だよ? あの金は? かあさんか? 彼女が手切金なんて……いや、おかしいとも思わなかった。すごい演技力だった。すごい演技力で抱かれたのか? 
 2度と家には戻るものか。2度と会いたくない。おふくろにも由佳にも。

 夏に少年に会った。まだ少年だった。彼女と別れて2年目の夏、防波堤で思い出に浸っていた。それを邪魔された。少年が海に飛び込んだ。若い女が叫んでいた。少年が沈む。圭介は川で死んだ由佳の兄を思った。本家の長男の跡取り息子。彼が生きていたら由佳と圭介の運命は変わっていた。母も優しい母親でいただろう。彼女との仲も反対されなかったかもしれない。助けなければ……圭介は服を脱ぎ飛び込んだ。
 少年は泣いて暴れた。酒臭かった。ママ、ママのところへいくんだ……いかせてよ。ママ、置いていかないで……
「甘ったれるな」
圭介が殴ると少年はおとなしくなり言うことを聞いた。
 結局面倒を見ることになった。なぜか少年は圭介に懐いた。。懐いて甘えてきた。訛りが懐かしい……もっと喋って……ママと同じだ……
 一緒にいた友人と圭介の部屋に泊まった。少年はペラペラ喋った。友人には慕われていた。優等生なんです。こんなことは初めてだ。おかあさんの命日なんです。去年亡くなった。こいつを捨てた母親の命日なんです……
「母親なんていてもいなくても厄介なものだ」

 厄介な母親は電話をしてきた。父親の具合がよくないと。結局圭介は2年ぶりに帰ることになった。
 2度と会いたくないと思っていた由佳は中学3年になっていた。体操部に入りたがり草むらで必死に練習してい身の軽かった子は、菓子を食べながらテレビを見て笑っていた。
「太ったな」
「失礼ね。圭ちゃんはスレンダーな人が好きだものね。
 私は人形だもの。家のため好きな人とは結婚できない。ね、圭ちゃん。圭ちゃんは由佳の家と財産が欲しい? 床屋のあの人、双子を生んだわよ。ダンナさんとラブラブだって。近くに同級生がいるの。圭ちゃん、付き合ってたでしょ? 河原でいやらしいことしてた……」
「ばかっ! 少し痩せろ、ブタ!」
リモコンが飛んできた。すごいスピードで。圭介はキャッチした。
 次々に飛んできた。雑誌、とうもろこし、枝豆はカゴごと。
「家と財産のために結婚するんでしょ? だから今のうちにいろんな女と遊んでる。私はもっと太ってやる。財産付きでもごめんだって思うくらいね」
由佳はすごい勢いで階段を上って行った。

 2年で由佳も変わっていた。優しいから母親には逆らえない。逆らえば母親の病気は悪化する。人形か? 親の決めた相手と結婚し跡継ぎを生む。
「馬に乗せてやる。機嫌なおせ」
誘うと由佳は喜んでついてきた。馬上の由佳は初めてなのに怖がらなかった。
「由佳、君は自由だよ。それ以上太るなよ。馬がかわいそうだ」

 次に帰ったのは由佳が高校1年の冬。圭介が帰ったとき、家の中から曲が聞こえた。CDか? 迫力のある曲だ。玄関で圭介は震えた。生のピアノだ。由佳が弾いているのか? あの怠け者の嫌々レッスンしていた娘が?
 ピアノのそばに立っても由佳は気づかなかった。自分の世界に入り込んでいた。目を閉じ弾いている。酔っている。自分の演奏に。いや、由佳の演奏ではない。由佳はこんなふうに弾いたりしない。ミスばかりしていた。楽譜が書き込みだらけだった。長い曲が終わると由佳は我に返った。圭介は少し遅れて拍手した。
「すごいな。君じゃないみたいだ」
あらためて由佳を見た。顎のラインがすっきりしていた。腹部がへこんでいた。目つきが違う。怠惰な由佳の面影は消えていた。
「好きな男ができたか?」
見つめ返した由佳の目、みるみる涙が溢れる。由佳は圭介におかえり、も言わず立ち去った。後ろ姿はくびれていた。太った娘が凹凸のあるプロポーションになっていた。

 夜、由佳の家に親戚が集まった。由佳は酒を運んできた。きれいになったなあ、と皆に褒められている。1年と4ヶ月ぶりだ。16歳の由佳は台所で酒を注いでいた。1升瓶から軽々と徳利に注ぐ。豪快に。溢れた酒は置いてある容器に貯まる。それを美味しそうに飲み干す。思わず笑った。
「酒の味覚えたか?」
「男の味もね」
「……」
「アハハ、嘘ォ」
「酔ってるのか?」
由佳は燗をした酒を運ぶと軽やかに階段を駆け上り、自分の部屋に行った。
 圭介はしばらく飲んでから、由佳の部屋をのぞいた。由佳はテレビを見ていた。菓子は食べていない。ひとり掛けの椅子に座り食い入るように見ている。聴いている。昼間由佳が弾いていた曲だ。思わず圭介は近付いた。弾いているのは知っている男だった。

 少年は酔ってペラペラ喋った。来年コンクールに出る。入賞してみせる。必ず。最年少で3位以上に……入賞したのか? テレビで放映されているのだから。由佳はビデオに撮り何度も見て聴いているのだろう。演奏を覚えるほどに。由佳のいい加減な練習では弾ける曲ではなかっただろう。コンクールは秋……まだ3ヶ月しかたっていない。短期間で由佳は……すごい集中力だ。圭介に気づかない。魅了されたのは演奏か? 顔か? 雰囲気か?
 三沢英幸(えいこう)、こんなこともあるんだな。オレの親たちが勝手に決めた許嫁が君に恋をしている。ビデオの中の君に。由佳は呟いた。
「愛してる」

 翌日由佳は大広間で踊っていた。短パンにタンクトップ。ビデオをかけ踊っていた。身体中の筋肉を使い痩せるというダンス……コマーシャルしていた。由佳は映像と同じように踊っていた。すごい汗だ。簡単に踊っているように見えるが……圭介は真似してみたがついていけない。
 数分間のレッスンが終わり圭介は拍手した。
「君は運動神経がいい」
「ママもダンスは禁止しない」
「痩せたな。かっこいいよ」
出るとこ出てるし。
「きれいになりたい」
「なったよ。きれいに」
「もっともっときれいになって……」
「三沢英幸(えいこう)に会いたいか?」
「どうして?」
「夕べ、のぞいてた。ビデオ観てるの。惚れたか?」
由佳の目に涙が溢れる。
「おかしいよね。自分でも変だと思う。芸能人にも夢中になったことないのに。想像するの。いつか、きれいになってあの人に会うの。そして演奏する。あの人と同じ演奏。あの人はびっくりする。そしてどんなに私が思っているか……わかるはず」
確かに魅力的な少年だった。酔って泣いてボロボロだった。ママ、ママ、ママ、自分を捨てた母を憎み焦がれた。
 由佳、そんなに好きなのか? 驚くだろうな。君の恋焦がれている男、オレは助けたんだぜ。裸にして洗ってやった。鍛えた身体だった。顔は女よりきれいだった。
「手紙書いてみろよ。ファンレター。住所は調べてやる。繋がるんだよ。彼と」

 返事はなかったようだ。由佳は待ち続けやがて彼を恨む。つれない男を恨み憎み、また愛した。
 翌年の夏、由佳は乗馬クラブでバイトしていた。母親も禁止できなくなったようた。迎えを頼まれた。8ヶ月ぶりか。会うのが楽しみになっていた。由佳は合宿に来ていた大学生たちと遠乗りに行っていた。遠乗りに行けるほど上達したのか? 父親の経営する乗馬倶楽部。
 戻ってきた馬上の女はますます見違えた。圭介を見つけると障害物を飛んで見せた。
「おばさんがよく許したな」
「いつまでも人形じゃない」
由佳はなかなか帰らなかった。大学生とバーベキューをし、圭介は由佳の母親に電話をさせられ、子守を頼まれた。由佳は東京の大学の話を聞いている。男女の大学生は酒が入ると馴れ馴れしくなる。由佳は肩を抱かれすり抜けてきた。
「東京の音大いく。三沢さんが入るとこ調べて」
「……彼は音大いくの?」
「当然でしょ」
いや、由佳がどんなに頑張っても同じ大学には入れない。彼は父親と同じ東大に入らなければならないのだから。

 由佳は親を説得した。実力で圭介よりレベルの高い大学に合格した。由佳は圭介の隣の部屋に住むことを条件に4年間の自由を勝ち取った。圭介は由佳のために部屋を探した。ふたりで引っ越した。由佳が住むのは新築の家賃の高い物件だった。大学にも通いやすい。それよりも……頑張ったご褒美をあげなければ……

 店を予約した。マンションの近くの小綺麗なフランス料理店。午後の忙しいランチタイムのあと、奮発したフルコース。入学祝いだからピアノ演奏も頼んだ。由佳は雑誌でしか見ることのできなかったブランドの服を買い、雑誌に出ていた美容院で長い髪を少し切った。
 小さなレストラン。奥の予約席に通された。
「圭ちゃんの働いているホテル見たかった」
ウェイターが水を持ってきた。圭介はふたりの反応を楽しんだ。彼に会うのは4年ぶりか?
 由佳は凍りついた。彼の顔を見て目から涙が溢れた。彼は戸惑い圭介を見た。今度は彼が凍りついた。頬が染まる。圭介はそっと唇に人差し指を当て、由佳に気づかれないようにした。
「このお嬢さん、君の演奏観て夢中なんだ。ファンレター出したのに、返事くらい書けよな」
由佳がようやく現実世界に戻り真っ赤になった。何事もなかったように料理が運ばれてくる。
「すごい偶然だな、運命かも」
由佳はなにも考えられなかった。食事も喉を通らなかった。圭介はふたり分平らげた。
「彼がお祝いに弾いてくれるよ。リクエストしろよ」
由佳は……できない。圭介がコンクールで入賞した曲を言うと、彼は断った。
「練習していないので……」
「由佳、チャンスだよ」
由佳はおじけづいた。いきなりの展開。
「言ってただろ。いつか、あの人に会って演奏する。あの人と同じ演奏。あの人はびっくりする。そしてどんなに私が思っているか……わかるはず。君の思いをぶつけてこい」
由佳は憑かれたように立ち上がりピアノの前に座った。ランチの客が数組残っていた。彼がピアノを開ける。どうぞ、と言ったようだ。
 由佳は演奏した。取り憑かれたまま。いいぞ、由佳。彼そっくりの演奏だ。ますますうまくなっていた。ビデオの彼と同じ表情、同じ姿勢、同じ音? 彼は驚愕した。残っていた客も厨房の中の者も驚き出てきた。愛の告白だ。こんな告白をされては平静ではいられないだろう。演奏が終わっても彼は拍手もしない。周囲の盛大な拍手に由佳が我に返り恥ずかしがる。発した言葉は懐かしい響き……だろ? 懐かしい母親と同じ訛り。運命を感じたか? おまけに障害のある愛だ。君は言っただろ? 障害のある愛だけが永遠の愛だ……由佳はオレの許嫁。君はウェルテルだ……
 
 由佳はひとりで店に行けない。圭介はスポーツジムに連れて行った。また偶然に彼に会う。彼は休憩時間に鍛えに来ている。由佳は内弁慶だ。圭介にはズバズバ言うくせに彼の前だと話せない。かわいいと思う。彼も思っているはずだ。田舎のまだ垢抜けないが素朴な、とてつもなく努力家のプロポーションのいい娘。男は由佳の胸に視線がいく。彼も……圭介はボクシングのレッスンに入るからと、由佳を彼に頼んだ。彼は圭介の頼みは断れない。
 30分後に戻ると由佳はマシンを教わっていた。由佳の身体能力に彼は驚いている。スポーツを禁じられていた。危険だからと。好きな体操は骨を折るから、とやらせてもらえなかった。優しい娘は母親のために諦めた。しかし、今回は意地を張った。張り倒した。
 君のために頑張ってきたんだ。エイコウ君。由佳の思いに答えてやれ。

 弟の春樹のおかげで由佳は彼と急接近した。ある夜、由佳が圭介の部屋に彼を連れてきた。泊めてくれ、と。彼の父親の違う8歳の弟の春樹が家出して由佳が保護した。由佳の部屋に泊める。彼は帰ると言うから……隣の圭ちゃんの部屋に泊めて……春樹はレストランの経営者の息子、実は姉の息子だった。彼の母親の。春樹は自分の出生を知り家を飛び出し公園にいるところを由佳が保護した。彼にそっくりの幼い春樹を。春樹は由佳に懐いた。聞いたことのある訛りだから……
「縁があるんだな」
彼は丁寧に4年前の礼を言った。
「見違えたな。ママ、ママ……の少年が、父親の違う弟の面倒を見てるなんて……乗り越えたか?」
「彼女もいます」
「由佳を押し付けるなって?」
彼はハッキリうなづいた。
 再会に乾杯して1杯飲んだ。彼は口をつけただけだった。僕は弱いですから、と。覚えてるか、君の体洗ってやたんだ。髪も……レイプ魔にならなくてよかったなって言われました。あれは、誤解です。全然状況は違うんです。彼女には謝ったのか? はい。きちんと、手話と筆談で謝りました。それに……彼は話した。文の敵討ち。幼い文にいたずらした米屋の親父を治と叩きのめした……4歳上の文に交際を申し込んだが断られた。初めてふられました。しっかりした人でした。いつか、恋人ができたら僕を殴りに来るって。僕は楽しみに待っているんです……治は、元気か? いい子だったな。人のいい、あんな子は珍しい……君は謝ってたぞ、ママ、ごめんなさい。治みたいになるからって。
「僕が謝った? ママ、ごめんなさい? まさか……ネコ、ごめんなさい、の間違いじゃ?」
「なんでネコに謝るんだ? ネコを虐待して階段から落として殺したのか? 屈折してたからな」
「しないですよ……歌ですよ。ネコ踏んじゃった。ネコ、ごめんなさい」
「おかしな奴だな。間違いないよ。ママ、ごめんなさいだ」
 彼は覚えていなかった。夜が明けるまで話した。聞きたがった。母親のことを。
「母がいなくなった前後の記憶がはっきりしないんです」
「忘れたいんだろ? 思い出さないほうがいい」
「あとどんなことを喋りましたか? 僕は?」
言えなかったから誤魔化した。春樹も階段から落ちて死ねばよかった……なんて。
 明け方少し眠り彼は春樹を連れて帰って行った。由佳に感謝して。由佳は春樹の気持ちをしっかりつかんでいた。

 由佳は英幸に頼まれ春樹の家庭教師になった。不登校になっていた彼の弟にピアノも教えた。由佳が話す郷里と言葉は春樹の記憶と重なった。春樹は学校にもいくようになり勉強もピアノも頑張った。
 英幸とは3人で会っているようだ。遊園地に誘われたと喜んでいた。3人のデートか……春樹の家で食事も誘われるらしい。酒を飲んで彼に支えられ送られてきたこともある。圭介は気配を伺った。英幸は由佳が落とした鍵を拾いドアを開け中へは入らずに帰って行った。ふたりの仲はそれ以上にはならない。それも長くは続かなかった。

 やがて由佳は諦めた。英幸の彼女が現れたのだ。由佳との仲を誤解し、店に現れた。
「逆立ちしてもかなわない……」
「逆立ちは得意だろ。奪え。君の情熱に勝てる女なんていないよ」
「英幸さん、取り乱してた。誤解されて迷惑してた」
「諦めるのか? 彼は由佳のこと好きだよ。オレにはわかる」
彼は去った。由佳は春樹の家庭教師に甘んじた。メールはしている。関係は切れてはいない。弟の面倒をみていれば彼と繋がっていられる。由佳はメールで彼と話す。彼が読んでいる本を買い、彼の好きな詩を暗唱する。由佳は変わっていく。都会的な女に。ボクシングを習い始めた。彼に勧められたらしい。冗談だろうに。いつか彼に会える日のために由佳は努力している。由佳は彼が恋人にふられるのを待っている。

 圭介は英幸を呼び出した。かつての思い出の場所。防波堤で彼は待っていた。
「由佳と別れたのか?」
「彼女はあなたの許嫁。どうして、僕とくっつけたがるんですか?」
「由佳が言ったのか?」
「母親なんて、いてもいなくても厄介なものだ……」
「あのババア、またやりやがったな」
彼は吹き出した。
「いいおかあさんですね。息子のために恥も外聞もなく、子供なんてできたらとんでもないって、僕の彼女に別れさせるよう頼んだ。僕の父親のところへ行くと」
なんて女だ……
「すごいお嬢さんなんですね。ホテルに牧場、ゴルフ場、乗馬クラブ」
「ああ。そのためにオレの好きな女は身を引いた。あの女となら死ねたのに」
冗談めかして言った。
「僕も彼女となら死ねる。それに、由佳さんは弟の初恋の人だから。奪うことはできないんです」
彼も冗談で返した。

 1年が過ぎた。圭介は実家に帰らなかった。母の電話にも出なかった。由佳が血相変えて飛び込んできた。田舎の父が倒れた……
 夜中に車で帰る。由佳は助手席でずっと起きていて圭介を励ました。父は心臓の手術が必要だった。母は気が弱くなっていた。やつれた母を責める気持ちはなくなっていた。
「戻ってこようか? こっちで働く」
「由佳をひとりにさせられない。変な虫がついたら……」
「バチが当たったんだよ。バカなことするから。由佳の初めての恋を壊して、バチが当たったんだ」
「どういう意味?」
実家で母と話しているのを由佳に聞かれた。圭介は自分が由佳の恋を壊したと母を庇った。
「君が彼と急接近して焦ったんだ。頼んだんだ。子供ができた、なんてことのならないうちに別れさせてくれって」
由佳はなにを言われているのかわからなかった。圭介の父親のことを親身になり心配し励ましてくれたのに……

「英幸さんに会ったわ。死ぬって言ったらすぐ来てくれた。誘惑したの。お酒飲んで全裸になって。どうしたと思う? あの人? 圭ちゃんだったらどうする?
 圭ちゃんとは違うわよ。私の家と財産なんかなんの興味もない。あの人は、ね、逃げたのよ。私が押さえつけたら。私の力にびっくりして……EDとか訳のわからないこと言って、逃げ出してトイレに閉じこもったの。鍵かけて。下痢してるって。ずっと出てこなかった。私は酔ってソファーで眠ってた。タオルケット掛けてくれてた。鍵はポストの中に……あんな人いないわ。あんなひどい素敵な人……」

「オレは最低だ。田舎に帰るよ。君はもうひとりで大丈夫だ。家も君が継ぐんだ。オレより頭がいいし努力家だ。君ならやれる」
 部屋を引き払って実家に戻った。由佳の父親の経営するホテルに勤務した。由佳は長い休みには帰ってきた。都会的な女になっていった。圭介は畑仕事で日に焼け言葉も訛りが戻った。
 周囲はふたりを許嫁として扱う。由佳は受け入れていた。親や親戚の前では恋人のように振る舞う。ふたりきりになると投げやりになる。由佳が運転をする。スピードを出す。
「バカ、スピード落とせ」
「自分の愛しい命を振り捨てるほど私を愛してくれるのは誰だろう? 
 私のために海に溺れて死ぬものがあれば、そのとき私は石から解放されて、命へ、また命へと立ち帰っていくのだ……
 そんなにもざわめく血に私は憧れている。
 石はあまりにも静かだ。私は命を夢見る。
 誰も私を蘇らせてくれるための勇気を持つものはいないのだろうか?……あの人が好きだと言ってたリルケの詩」

 朝、由佳はマラソンをしていた。畑にいる圭介のところへ来ると子供の頃のように倒立した。支える必要はなかった。Tシャツがまくれ腹筋があらわになる。まぶしかった。太陽の下に答えがあった。この女を愛している……しかし女にはまだ怒りがあった。まだ許さない。
 由佳は圭介のボトルの水を飲んだ。
「よく走るな」
「東京の乗馬クラブの会員になったの。友達ができたわ。今度連れてくる。部屋取ってくれる?」
「女か?」
「ふたつ年下のかわいい男」
「……」
「男を連れてきたら大騒ぎ。女友達とその子の彼氏。昔の私みたいな女」
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