第24話 弟と妹 2

文字数 6,146文字

 夏生から電話がきた。9年ぶりに聞いた声は変わっていなかった。
「あんた、なにやってるの?」
「……なんだよ、いきなり」
「公園で彩となにしてた?」
なんで知ってる? 喋ったのか? 彩が?
 画像が送られてきた。顔はハッキリ写ってはいないが夏生にはわかるのだろう。彩は勿論、和樹のうしろ姿も。
「彩と付き合ってるのか? 高校生だぞ。9歳も年下の私の義妹だ」
男言葉で責められた。懐かしい悪態。高校3年の政治経済。先生は議論させた。死刑廃止やポルノ解禁まで、賛成か反対か。夏生はよく発言した。死刑廃止論者だったから和樹とバトルになった。ポルノ解禁では黙っていた。和樹が意見を聞くと赤くなり無視した……会えなかった年月を感じさせない。言葉遣いにデコピンしてやりたい。
「なんだよ、その口のききかた、よくオレだってわかったな? いまだに忘れられないか?」
「なに言ってんの?」
「英幸さんとはうまくいってるのか? 仲がよすぎて子供ができないって?」
「余計なお世話。あんた、エーちゃんになに言ったの? エーちゃん、ずっと誤解してた」
「ああ、産婦人科入るとこ見られたからな」
「あんたの嘘のおかげで……」
「なんだよ。おまえを女にしたのはオレだろ? 男みたいなおまえを女にしてやったのはオレだ。おまえは喜んでた。やりたいこともできたんだろ?」
いきなり携帯を奪われた。彩が入ってきていたのに気づかなかった。夏生は喋った。あんたはいい人だった……
 彩は携帯を投げつけ出て行った。

 彩が来た。閉店間際の店に来た。母に正体を気づかれたら大事になる。春樹は隠すように自分の部屋に入れ鍵を閉めた。母が携帯に電話してくる。なにやってるの? 菜穂さんはどうしたの? なにめちゃくちゃなことやってるの? なにもしないから……信じてよ……事情があるんだ。あとで話すよ。
 彩はコンビニで買ってきた酒をがぶ飲みした。二十歳には見える大女だ。
「みっともない……」
「こんな大女を誘う男がいる? 和ちゃんだけだった……」
酒を取り上げると叩いた。
「あなた、パパの前妻の子でしょ? パパがいまだに忘れられない女の……唯一パパが愛した女……そんなに愛されて、なにもかも捨てて出ていくなんて、なんて、バカな女……」
「そうなのか? そんなに愛されていたのか?」
「うちには亡霊がいるの。パパの前妻の亡霊……ヒースクリフ……」
彩は英語の歌を歌い踊った。階下に響く。勘違いされる……
「いつもいつも大女って言われてた。かわいいなんて言われたことない。告白なんて女の子にしかされたことない。パパも愛してくれない。こんなかわいげのない大女。兄貴は、兄貴は夏生のことばかり……夏生は和ちゃんとできていた。裏切ってる。兄貴を。和ちゃんは、和ちゃんは……」
 和樹のことを聞かされただけだった。和樹が兄嫁とできていた……? 
 夜遅くに送って行った。門の前で見送ろうとしたら手を引っ張られた。
「パパに紹介する。前妻の息子と愛し合ってるって」
彩は大声でわめき、エイコウが出てきた。10年ぶりに再会した。エイコウは驚いていた。彩にはなにも聞かされていないようだ。よかった。エイコウの妹に無理やり……なんて、殴られる。
「兄貴の弟のハルよ。私たち結婚するの。運命よ」
「……飲んでも飲まれるな」
エイコウが彩を叱った。
「夏生は最低!」
年配の男が出てきた。彩の父親か? 彩に似ている。
「彩の彼氏か?」
喋ろうとする彩は兄に口を塞がれ抱き抱えられ玄関に入った。
 男は春樹を見て驚愕。エイコウはかつて読んだシャーロック・ホームズの文章を思い出していた。
 
 私がまだ非常に若かった頃だ、ホームズ君、私は生涯で1度しか経験したことのない恋愛をした。
 ……彼の顔に母親の面影を見ることができた……彼を見ていると、いとおしい彼女のあらゆる仕草が……

 そこへ女も出てきた。彩の母親だろう。彼女は春樹を見て一瞬で全てを理解した。様子のおかしかった娘。付き合っていたのは春樹だったのか。まるでドラマのようだ。なんという因縁。この家の亡霊は消えてはいない。住み着いていた家を壊され、建て直されても出てくる。亡霊の息子は元夫の娘を求める。英輔の魂を。それは同時に英輔も感じている。
 春樹は頭を下げて歩き出した。ひと騒動起こりそうだ。この家に再び嵐が……?
 英輔はそのまま2階の書斎に閉じこもった。
 リビングで亜紀が叫んだ。
「幸子の魂が俺の魂を求めてる……そう思ってるわ。きっと。何年経つのよ? さらに鮮明に……」
亜紀がグラスを叩きつけた。この女が物に当たるのを初めて見た。彩は子供のように泣き出した。
「更年期なのよ。幸子さんはいつまでも若いままだわ。あの人が死んだときホッとした。あの人は島崎が死ぬと待っていたのよ。パパと暮らしてた故郷の部屋で。パパが帰るのを待っていた。いつパパが私と彩を捨てて、出ていくんじゃないかとびくびくしてた。会社は三島に譲って、なにもかも捨てて……あなたは渡さないわよ。あなたは私が育てた私の息子……」
亜紀は笑って泣いた。英幸は義母を抱きしめた。かつて幼い英幸を抱きしめ救い出してくれた人だ。もう英幸の母親は亜紀だった。亜紀をいまだに悩ます母を憎らしいと思った。彩も亜紀を慰め謝った。
「僕はあなたの息子だよ」
「パパが弱いからダメなのよ。離婚なんかしないで待っていれば幸子さんは帰ってきた。私と再婚なんかしなければ、今この家にいるのはあなたのママだったのよ」
「そうしたら、私はいなかったじゃない」
「妄想だよ。亜紀、亜紀は最後の女だ」
声も話し方も英輔そっくりだ。亜紀はいっとき弱みを見せたが、すぐに自分を取り戻し砕けたグラスを拾った。
 英幸が掃除機を取りに行くと英輔が階段の上にいた。
「気をつけて、パパ」
「大丈夫だ。前の家とは違うんだ。バリアフリー」
「おかあさんがグラスを割った。後始末頼むよ」
「かあさんか?」
かあさん?
掃除機を渡しドアを閉めた。そして聞いた。
「絶対に先に死んでやる。あなたが死んでいくのを見たくない。幸子って呼ぶわ。きっと。私は殴るわよ。死にいく人を殴るの」
「亜紀は最後の女だ……白髪が増えたな」
今度は本物の夫の声だ。
「あなたのせいじゃないの。あなたは若い娘に持てて持てて……」
「共に白髪の生えるまで……」
亜紀の笑い声。抱きしめたか? また、土下座か? そして父の声。
「彩は最愛の娘だ」
「ママを大事にしないと怒るからね」

 娘は両親をふたりきりにさせ出てきた。
「夏生は和ちゃんとできてる」
「……和樹?」
「夏生が妊娠したのも和ちゃんが現れた途端。和樹の子よ。兄貴は裏切られた……」
和樹の子……あの男の子?
「……私が、なんだって?」
そこに夏生も起きてきてこちらもひと騒動。
 夏生は携帯の画像を見せた。
「ママの知り合いが撮ったの。三沢さんのお嬢さんじゃないかって」
「和樹の……登場か……あいつがおまえと……なんてまっぴらだ」
「嘘なの? 嘘なんでしょ? 夏生が兄貴を裏切るわけない」
「嘘だよ。あたりまえだろ。全部見当違いの誤解だ。和樹は男みたいな夏生を女に戻した。和樹は本気だった。しかし夏生は僕一筋」
「そうよ。兄貴と夏生は特別だもの。妹の私より大事だもんね」
「和樹のことは忘れろ。あいつは嫌いだ」
「私は大好きなの」
「おまえは若い」
「兄貴のママだって19で結婚した。11も年上のパパと」
「そして別れた」
「パパは忘れない。和ちゃんは夏生のことなんか愛してなかった。和ちゃんが愛したのはただひとり」
「おまえか?」
「高校の後輩……和ちゃんは忘れない。和ちゃんの心に住み着いている亡霊を追い払ってやる。協力して。兄貴。和ちゃんの心にずっと住み着いてるの」

 全部見当違いの誤解だ……

 春樹は屋敷の周りを歩いた。離れられなかった。広い敷地だ。大きな木がたくさん植っている。旧家なのだろう。母が暮らしていた家。母と暮らしていた夫。息子。なぜ捨てたんだ? なぜ父を選んだんだ? それほど愛したのか? 知りたい。父親のこと。母のことをもっともっと。
 元夫は春樹を食い入るように見つめた。手が頬に触れようとした。手のひらに傷跡があった。似ていたのだろうか? 前妻に。別れて亡くなった前妻をまだ覚えているのか? 憎しみさえ薄れるほどの年月が経っているだろうに。愛しているのか? 彩が言ったように。
 オレのママをいまだに忘れずに愛しているのか? 風が吹いた。広い敷地を亡霊がさまよう? 春樹は想像した。窓を叩く亡霊、バカな、あれは彩のパントマイム……亡霊の掌にも傷があった。まるで夫婦の契りみたいだ。あの男は確かに母の愛した夫、男だ。
 
 何度か邸の周りを歩き、門の前に戻るとエイコウが立っていた。
「やってくれたな」
「彩が、彩が無理やり引っ張っていったんだ。みんなで出てくるなんて思わなかった」
「電車はもうないから送ろう」
車に乗りかつてこの男がバイトしていた春樹の店の前まで送る。
「あの、弱虫のお前が…… どうして彩と知り合った? 知っていたのか? 元夫の娘だと……」
「彩なんか……あんな年上の男に夢中な女」
「年上の男?」
「兄貴の奥さんとできてたって」
春樹が話すとエイコウは鼻で笑った。
「平気なのか? 離婚しろよ」
「一々離婚していたら、人の一生は離婚の一生となるだろう……」
「どうして、いなくなっちゃったんだよ? どうして、ずっといてくれなかったんだ?」
「……由佳のがよかっただろ?」
「由佳さんと兄貴とふたりが、3人がよかった」
「欲張りだ」
「ママは心臓が悪いのに溺れてる子を助けにいった。助けた子を母親に渡すと、そばに立っていた僕を抱き上げようとして倒れた。ママはオレを見て、エイコウって呼んだ」
「嘘だ」
「エイコウ、ごめんねって。それが最後の言葉だ。ハルじゃない」
「覚えているのか? 3歳になってなかったおまえが?」
「それだけは、はっきり覚えている。ママの顔も覚えてないのに」

 頭の中に詩が流れた。
 
 母よ僕は尋ねる
 耳の奥に残るあなたの声を
 あなたが世に在られた最後の日
 幼い僕を呼ばれたであろうその最後の声を

 三半規管よ
 耳の奥に住む巻貝よ
 母のいまはの その声を返せ

「パパはどんな男だったの?」
「……ピアノコンクールで最年少で3位入賞。僕はその記録を塗り替えるために生きてた。おかげで道を踏み外さないですんだ」
「憎んでるんだろ?」
「僕は、懐いてた。手をつないで歩いた。ピアノを教わった。祖母も気に入っていた。よく面倒見ていた。食事に招いて演奏してもらうのを楽しみにしていた。祖母は……」

 祖母は?

「オレにはなんの記憶もない。ママだって……ママを思うと由佳さんになる」
「訛りが懐かしかったな」
「由佳さんは兄貴を愛してた」
「由佳は圭介さんを愛してた。ふたりは結婚した。子供ももうふたりいる」
「会ってるの?」
「夏生とママの墓参りに行った。由佳のホテルに泊まったよ。幸せそうだ」
「幸せなんだ、由佳さん。ママになったのか」

 過去を懐かしがったあとエイコウは念を押して聞いた。
「彩は運命の女じゃないんだな?」
「オレは、オレの運命の女は……彩のせいで、彩が悪いんだ。菜穂にひどいことをした。どうしたらいいんだ? どうしたら菜穂を取り戻せる?」
「情けないやつだ」
エイコウは携帯の番号を教えてくれた。
 家に着くと母が心配して飛び出してきた。エイコウが車から降りて挨拶した。お久しぶりです、と。また、食べにきます。妻と妹と……それからなにか聞いていた。母親のことを。

 英幸は由佳と圭介に思いを馳せる。ファンレターの女。英幸そっくりの演奏をした女……驚愕した。その女が圭介さんの婚約者? 由佳とはいろいろあった。酔って迫られたこともある。いろいろあったが圭介を愛していることはわかっていた。
 ある日病院から電話がきた。由佳が子宮外妊娠で危険……英幸の連絡先しか言わない。彼は病院に行き、緊急手術の書類にサインさせられ術中ロビーで待った。おなかの子の父親にさせられた。術後の由佳を責めることはできなかった。彼は退院するまで何度も通い、部屋まで送り届けいたわった。

 傷ついた女が以前にもいた。身近に、ごく身近に。全身あざだらけで大量に出血していた。忘れたいから蓋をした。頑丈に。思い出さなくては……

 由佳は相手の名は言わなかった。
 バカな女だ。バカな女はとんでもないことを言い出した。
「あなたの子だってことにして。圭ちゃんは許すわ。相手があなたなら」

 あなたの子? あの男の子? 

 高1のとき助けられた堤防で英幸は圭介に会った。由佳の願いを叶えてやる。圭介になら殴られてやろう。そう思って土下座した。
「面白い因縁だな。君とこうなるとは思わなかった。由佳は白状したよ。由佳の相手は年下のいいやつだった。由佳のためにそれこそボコボコに殴られても守ってくれた。傷つけたのは由佳のほうだ」
「彼女と結婚するんでしょう?」
「ああ。由佳の家と財産は魅力だからな」
「そんなものがなければ、ややこしくはならなかった」

 家と財産……あの女は欲しがらなかった。あの女……ママは? ママの真実は?

 治は、元気か? いい子だったな。人のいい、あんな子は珍しい……君は謝ってたぞ、ママ、ごめんなさい。治みたいになるからって。
「僕が謝った? ママ、ごめんなさい? まさか……ネコ、ごめんなさい、の間違いじゃ?」
「なんでネコに謝るんだ? ネコを虐待して階段から落として殺したのか? 屈折してたからな」
「しないですよ……歌ですよ。ネコ踏んじゃった。ネコ、ごめんなさい」
「おかしな奴だな。間違いないよ。ママ、ごめんなさいだ」
ママ、ごめんなさい……あとなんて言いましたか? 圭介は言わなかった。
「春樹も階段から落ちて死ねばよかったんだ……春樹も」

 和樹が店に来た。菜穂に頼まれたのか? 1週間分のバイト代と荷物を取りに来た。
「ここはおまえの親がやってる店か?」
「来たことあるのか?」
「いや……」
この店だ。あの女と……あのピアノ、魅せられた。あの女に……
 和樹は菜穂のことを話した。心臓病で子供は産めない。中絶は命取り。人工弁を交換しなければならない。まだ手術しなければならない。諦めろ。おまえには無理だ。おまえはまだ若い。菜穂の面倒はオレが見る。ずっとみてきたんだ。菜穂はオレと結婚する。2度と近づくな。忘れろ。

 酒を飲んで忘れる。ママは弱いものを放っておけなかった。目の前の弱いものを助けるためになにもかも捨てた。助けたい。菜穂を。だけど、情けない。酒を飲んで忘れる。忘れられない。まだ若い。諦めろ。おまえには無理だ。ああ、情けないオレには無理だ。菜穂を助けられない。でも、でも……助けてくれ。菜穂……おまえがいないとオレはダメだ。ママみたいに強くはない。父親に似たんだ。そばにいてくれ。オレのそばにいてくれ。 
 助けてくれ。兄貴……

「情けないやつだ。父親そっくりだな。ママは強い女だった。ママが命と引き換えに助けた娘に会わせてやる。おまえに謝りたがっている」

 答えは出た。ママ、あなたは……
 夏生、君も僕をかばった。

 英幸、ごめんね……

 聞かなければ、お義母さんと大先生に。
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