第23話 弟と妹 1

文字数 8,147文字

 夏生と結婚した年に家を2世帯住宅に建て替えた。外溝工事に来ていたのが圭だった。圭は親方と仕事をしていた。僕は飲み物を差し入れした。事故で入院していたとき以来だ。手術から目覚めた圭は弘美から美登利が輸血をしたことを聞いた。美登利は圭の意識が戻ると去って行った。弘美に看病を頼んで。美登利は弘美に譲ったのだ。夏生に僕を譲ったように。輸血したことで、美登利は圭と結ばれた。僕の血も混じったわけだが……
 美登利は圭が弘美と結ばれることを望んでいた。

「夏生と結婚したのか? そうなるとは思っていたが」
 高校入学の前の春休みに圭と初めて会った。あのときと同じように僕は手伝った。ブロックを壊し、車に運ぶ。あのときと違うのは、父親の代わりが親方であること、それに……
 小型のミキサー車が入ってきた。降りてきた男、いや、女を見て驚いた。病院で圭の世話を焼いていた弘美だった。真っ黒に日焼けし、男に混じって引けを取らずに働く。
「かっこいいなぁ、弘美ちゃん」
僕が言うと圭は優しい目で弘美を見た。

 圭は知りたいだろうが聞いてはこない。美登利がどうしているかを。美登利は信也と付き合っている。教えると圭は安心したようだ。
「三沢さん、釣り行かない?」
弘美が誘った。
「海釣りか?」
「ヒラマサよ」
「ヒラマサを、君が釣るの?」
「女も多いのよ」
「じゃあ、夏生も誘うか」
「奥さん、仕事してるの?」
「ああ。ウェディングドレス作ってる。プレゼントしようか?」

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 自分が養子だと気づいたのは小学校2年の時だ。ひとつ上の姉が喧嘩したときに口を滑らした。ふたりで通っていたピアノ教室。遅くに始めた春樹が姉を追い越した。
「特別なんだからハルは」
 うちの子じゃないんだから、伯母さんの子よ。伯母さんが駆け落ちした男の……子なんだから……
 うすうす気がついてはいた。目を閉じれば田舎の風景が見える。波の音が聞こえる。海岸で抱かれていた。訛りのある言葉が話しかけた。ハル……
 父親の記憶は少しもないが。
 悲しくて家を飛び出した。
 特別なんだ、ボクは……大事にされていた。姉よりも大事にされていた。だからわがままになっていた。弱いくせに。
 公園で由佳に会った。由佳は暗い公園のベンチに座っている春樹に声をかけ顔を見ると驚いていた。言葉に思い出と同じ訛りがあった。店でバイトしていた男が探しにきた。春樹の遠い親戚だという。そっくりだね、と姉は言った。姉はすぐ懐き勉強やピアノを教えてもらっていた。春樹は人見知りをする。エイコウ……聞き覚えのある名前。はっきり覚えている名前だった。エイコウの眼差しは不思議だった。優しい時もあれば冷たい時もあった。しかしエイコウが弾いたピアノ曲に春樹は魅せられた。それから春樹はピアノにかじりついていた。
 
 その夜は由佳のマンションに泊まった。由佳の隣の部屋には同郷の幼なじみの圭介が住んでいた。エイコウは圭介の部屋に泊まった。由佳はエイコウが好きだったのだろう。エイコウに頼まれ春樹の家庭教師になった。由佳は春樹の悲しみを受け止め、強くなろう、と励ましてくれた。
 私も引っ込み思案の弱虫だから一緒に強くなろうね、と。
 エイコウと由佳と遊園地へ行った。エイコウは春樹の気持ちを察してふたりとは離れて歩いた。乗り物に乗る時もうしろにひとりで座った。
 由佳はエイコウと乗りたかったんだろうな。
 由佳がトイレに行ったときに聞いた。
「由佳さんを愛してるの?」
「ませたガキだな。ハルは愛がわかるのか?」
「死んだパパとママは愛し合ってた。ボクは愛の結晶なんだ」
「そうか、よかったな」
エイコウは吐き捨てるように言った。冷たかった。
 家で由佳が酒を飲んだこともあった。未成年なのに父が勧め由佳は飲みすぎた。帰りはエイコウが送っていった。春樹は心配だった。エイコウはわざと由佳の肩を抱いた。
 エイコウがいたのは短い間だった。ある夜、由佳と3人で店で食事をしていると、きれいな人がやってきた。エイコウの彼女だ。彼女は終始微笑んでいた。慌てて取り乱したのはエイコウだ。由佳の様子も変だった。そんなことがあってからエイコウは来なくなった。それは構わなかった。由佳が4年間春樹の面倒をみてくれたのだから。由佳はたぶんエイコウに頼まれたのだろう。春樹の力になってくれと。由佳と春樹は強くなっていった。4年の間、由佳にもいろいろあったのだろう。同郷の圭介は由佳の婚約者だ。兄を亡くしている由佳は家のために親の決めた相手と結婚する。
 運命なの、と由佳は言った。
 ボクのママはなにもかも捨てた。捨てろよ。由佳も。愛してない男と結婚なんかして幸せになるわけないんだ……
 由佳は化粧が上手くなり強くなった。かよわかった彼女が春樹にボクシングを教えた。かよわかった彼女はいきなり泣き出し春樹が慰めたこともある。
 エイコウのピアノコンクールのビデオを見て由佳は恋をした。圭介に勧められファンレターを出したが返事はこなかった。東京の大学に入るために圭介のマンションの隣の部屋を借りた。圭介に連れてこられた春樹の親が経営しているあの店。ウェイターはエイコウだった。偶然、こんな偶然があるのだろうか?
 田舎に帰る前の日、由佳は春樹を抱きしめた。春樹は聞いた。
「エイコウは僕のおにいさん? だから由佳は僕に優しかったんだろ?」
由佳は答えられなかったが否定しなかった。
「エイコウさんはすごくいい人よ。自分のことより人のこと考えてる」
 おそらく母はエイコウを捨てたんだ。だから僕を見る目が冷たかった。今の春樹より小さいときに母親に捨てられた。その兄がなぜ店で働いていたのか? 春樹を探しにきたのか? 由佳に頼んだのか? もう会うことはないのか?
 姉は私立中高に進んだが春樹は区立中、都立高校に進んだ。大学へは行かない。遠慮していた。ピアノだけは続けさせてもらった。そのかわり店の手伝いをした。高校になると夜、店でピアノの演奏をした。春樹が弾くと若い女性客のリピーターが増えた。
 大学へは行かないと言うと、両親は怒った。店は繁盛しているがローンがあり楽でないのは知っている。
「おかあさんが残してくれたお金があるの」
生みの母は中卒だ。何度か行ったことがある田舎。母の実家は裕福ではなかった。6歳下の育ての母がなぜ大学を出ているのか不思議だった。
 18歳になったときに春樹は聞いた。自分を産んだ母親のこと。最初の夫のこと。会社経営している裕福な家庭の息子が母のためにすべてを捨てた。数年、田舎で暮らしていた。エイコウが生まれた。そして……母は会社の危機に、節約して貯めていた金を出した。驚くほどの金額。倒れた義父の介護をやりとげた。母名義の会社の株は全てエイコウに譲った。しかし、母が亡くなったときに前の夫は、春樹の分を渡してくれたという。毎年配当金が振り込まれる……

 春樹は母が暮らしていた家の前に立っていた。大きな邸だ。今は建て直したのだろう、2世帯住宅になっている。ここに兄のエイコウが暮らしている。母の元夫が再婚相手と娘と暮らしている。エイコウには母親の違う妹と父親の違う弟がいる。遠い昔、店で働いたのは弟の春樹が出生に気づき不登校になったからだという。力になってくれようとしていたのか? 自分を捨てた母親の息子を?
 大きな邸だ。社長夫人の座、息子まで捨てて余命宣告された春樹の父親のそばについていた……父親の親族は春樹の存在を知っているのだろうか?

 邸から若い娘が出てきた。たぶん彩だろう。背の高い娘だ。犬の散歩らしい。遊歩道を歩いていく。春樹はあとをつけた。10分ほど歩くと大きな公園がある。なおもあとをつけるとバレた。彼女は方向転換して歩いてきて春樹の前に立ち驚いた。
「……死んだ犬に似ているから、ついあとをつけた。そっくりなんだ……」
言い訳は考えておいた。春樹は小さなトイプードルにさわろうとして吠えられた。彼女は犬を叱り抱き上げた。
「びっくり。うちの兄貴に似ているから。他人の空似かぁ」
そう言ってジロジロ見た。
「君は、似てないの? おにいさんに?」
「似てるのは背が高いことだけ」
175センチ はあるだろう。内気な春樹とは正反対のタイプだ。

 公園のベンチで春樹は彩から聞き出そうとした。彩の父親のこと、母の元夫のこと。兄のエイコウのこと。しかし逆に聞かれた。父の親戚の子? 父の隠し子じゃないの? うろたえる春樹。
「いつか現れると思ってたのよ。白状しなさい。パパの隠し子でしょ? だから家を覗いてた? おかしいわよ。兄貴にそっくりなんて……」
春樹は全部喋ってしまいそうになった。君のおとうさんの前妻の息子だと。しかし彩のじっと見つめる目が動いた。隣のベンチの男の声がした。おまえも高3か。成長したな……
「和ちゃん!」
彩はいきなり立ち上がり隣のベンチの男に駆け寄った。
「和ちゃんでしょ? 三沢彩です」
彩は喋りまくる。懐かしい。会いたかった。会えると思っていた。そうです。高校3年よ。この子は? 和ちゃんの彼女?
 菜穂が首を振る。菜穂は春樹を見ている。春樹は彩を見ている。彩は和樹を見ている。和樹は彩を見返し聞いた。
「夏生は?」
「兄貴と結婚したわ」
「そうだろうな。子供は?」
「まだ」
思いは9年前にさかのぼる。
「大きくなったな」
なりすぎだ。たいして和樹と変わらない。春樹はもう少し高いが。
 雨が落ちてきた。和樹は菜穂を屋根のある建物の下に移した。ふたりもついてくる。
「車回してくるから待ってろ。寒くないか?」
和樹は上着を脱ぎ菜穂の肩にかけると走っていった。
「あの人の大事な子、なんだね」
春樹が彩に意地悪く言う。
 和樹は傘をさしてくると菜穂を傘に入れ歩いていく。彩が和ちゃん、と呼ぶ。
「送っていくから待ってろ」
「自分はあんなに濡れて、よほど大事なんだな」
繰り返し春樹は言った。彩がにらんだ。憎しみと悲しみと弱さを含んだ目で。出会ってから1時間もたっていない。自信たっぷりの、この世は自分のもの……という雰囲気だった。
「好きなのか? 9年ぶりに会ったとかいう男が?」
雨に濡れた、さっきまでとは別人のような弱々しい女。雨に濡れた唇に春樹はふれようとした。彩は殴ろうとした。それをかわす。両腕をつかみ無理やりやった。
 蹴ってくる足をかわし体を押し付け抱きしめた。腕の中でもがく女。和樹が走ってきて、春樹は離した。今度はかわさずに殴られた。1回、2回、3回。手が痛いだろうに。 
「あんた、なんなの? パパの子じゃない」
春樹は店のチラシをポケットから出し渡した。受け取らないからジャケットのポケットに入れた。
「兄貴に聞けよ」
和樹が傘をさし歩いてきた。父がどうだろうが兄がなんだろうが、つぎのことが辛かった。彩は走っていくと汚された唇を和樹の唇で清めた。いきなりキスされた男は抵抗する間もなく……彩は雨の中を走って行った。
「なにやってんだ? おまえたちは?」
「おまえって言うな」
「君は、三沢さんの親戚か?」
「……大事な子が待ってるんじゃないの? 早く行きなよ」
和樹は春樹を置いて歩き出した。
「あの子、オレの顔ばかり見てたな。あの子はオレに惚れて、オレは彩に、彩はあんたに惚れてる。あんたは? 夏生っていう兄貴の奥さんに惚れてたのか?」
「弟か?  三沢の」
和樹のあとを春樹は追いかけ、助手席に座っている大事なお姫様に、窓を叩いて開けさせた。ポケットから店のチラシを出し渡した。
「食べにこいよ。ひとりでね」

 彩から連絡はなかったが、あのお姫様は来た。ひとりではなかったが。女友達を連れてきた。昼の混む時間を避けて来たから思いきりサービスしてやった。デザートはアイスクリームにブランデーをかけ火をつけてやった。極めつけは春樹のピアノだ。菜穂と友達はそばに来て春樹を見ていた。菜穂はもうオレのものだよ。和樹、だっけ?
 お姫様は誘えば来た。店でバイトしないかと言うと喜んだ。バイトは初めてなの……春樹が手取り足取り教えた。3日もすると手際よく動いた。帰りは送った。春樹の話を熱心に聞く。聞き上手だ。中身のない男の話を真剣に聞いてくれる。頭もいい。志望は薬剤師だ。和樹のことを聞いたが詳しくは話さない。家庭教師をしてくれていたの、とだけ。

 なにをしているんだ? オレは? 彩の好きな男に嫉妬して大事なものを奪ってやろうとして、奪えるわけないのに。

 菜穂の真剣さに惹かれていく。おとなしくて控えめだが強い。投げやりな春樹は恥ずかしくなる。帰り道、菜穂はキスを待っていた。春樹はできなかった。彩の感触を忘れたくない。
「和樹さんに怒られるな」
バイトは内緒にさせた。菜穂は素直に言うことを聞く。菜穂に惹かれていく。心が洗われていく。
 しかし、春樹は彩に会いたくて公園に行く。犬を散歩していないかと。
 日曜日の同じ時間。3人が集まった。春樹は彩に会いたくて、彩は和樹に会いたくて、和樹は誰に会いに来たのだ? 彩か? 春樹に菜穂のことを聞きに来たのか? 彩がまた和樹に言った。会いたかった、と。和樹はひどいことを言った。本心ではあるまい。彩を、9歳も年下の女を諦めさせるために。
「背の高い女は嫌いなんだ」
彩の自信が崩れた。姿勢のよかった女がうなだれた。ひとりの女の表と裏。強さと弱さ。弱い彩がたまらなく愛しい。しかし走っていく彩を先に追いかけたのは和樹だった。
 
 和樹は思い出した。そうだ、嫁にもらってやると言った。男は背の小さいかわいい子が好きなの……なんて言うからつい言ってしまった。覚えていたのか? 
「みんなが言うの。でかい女って」
9年前の彩のコンプレックスだった。和樹は慰めた。
「僕は好きだよ。背の高い女の子。堂々としてなきゃダメだよ」
コンプレックスだったのだ。幼い頃から。和樹が慰めて励ましたからこんなに覚えていたのか? なんてことを言ってしまったのだろう? いつもこうだ。今度は手放したらダメだ。和樹は追いかけた。
「背の高い女は嫌いだけど、君は特別だ」
抱きしめてキスをする。この間からキスのゲームみたいだ。公園だ。外国の公園ではない。子供も見ていた。春樹にも見られた。彩はスラリとした宝塚の男役のような絵になる女だ。和樹もまあ、かっこいい部類だ。携帯で写真を撮るものもいた。離すと拍手がおきた。手を取りその場から逃げ出す。
 車に乗せると彩は下を向いていた。簡単に許しはしない。
 部屋に連れていく。この部屋に越してから入れた女はいない。彩は机の椅子に座り背を向けている。うしろから肩を抱く。
「おまえは特別だ」
もう1度言った。椅子を回転させると彩は胸に飛び込んできた。まだ高校生の娘。三沢英幸の妹。夏生の義妹。それがどうした? 
「コ、コーヒー入れよう」
体を離しワンルームのキッチンでコーヒーを入れた。別れた女が置いていったコーヒーメーカーは、豆からひくから香りが蔓延する。彩は喋るだろうな。三沢と夏生に。もう出会ったことは話しているか? 
 コーヒーを飲むと彩は部屋を掃除した。家でもやっているのか手際がいい。

 和樹は思い出す。2年の間つくしてくれた女を。きれい好きな女だった。地味で質素で目立たないが、いや、目立たないがきれいな女だった。
 テニス部に勧誘したとき、はじめはなにも感じなかった。
「かわいい子しか誘わないんだ」
和樹の軽口に戸惑い、驚きと少し軽蔑の混じった顔で見た。冗談の言えない女。しかし、間近で見た桃のような頬、思わず見惚れた。よく見るときれいな顔だちをしていた。和樹はうれしくなった。誰もこの子がこんなに魅力的であることに気付いていない。自分でも気付いていないのだろう。
 誰も気が付かないから安心していた。真面目すぎる女で面白くなかった。自分が軽薄だったのだ。彼女ほど深みのある女はいない……恋にも一途だった。和樹一筋で……だから好き勝手なことをして傷つけた。
 和樹はティッシュを取った。3枚取って鼻を拭いた。彩はなにも言わなかった。『おまえ』は違った。もったいないと言った。2枚で大丈夫でしょ? 思わず言い返した。ティッシュ位でケチケチするなよ。夏は、エアコン寒すぎない? 『オレ』は暑いんだ。『おまえ』は何も言わずにカーディガンを羽織った。ごめん、冷やしたら不妊症になるな……抱きしめて謝った。休みの日にATMで金を下ろすと言いたそうだった。手数料がもったいないと。水道の水もそうだ。流しっぱなしにしてると手が伸びてきて止めた。なにも言わず。このときも和樹は謝った。真剣な表情だった。
 そのくせ、和樹のために買ってきた肉や果物は高かった。当時はわからなかったが自分でスーパーにいくようになるとわかった。質素な女が和樹のために惜しみなく金を使った。
 『おまえ』の言うとおりにしていれば……いや、結婚しても泣かせただろう。見限られたんだ。『オレ』は。並んで歩くには見栄えがいい。夫にするタイプではない。別れてよかったんだ。『おまえ』のために。
 
 彩は下着姿でバスルームを掃除していた。下着のモデルになれそうなプロポーション。
「バカ、風邪ひくぞ」
黄ばんだ部分を一生懸命こすっている。あとは流すだけだから、と追い出された。
 比べないで……『おまえ』はベッドで何度も言った。比べないで。比べないで、葉月さんと。夏生さんと由佳さんと……あの、きれいな人たちと比べないで……
 葉月と夏生は三沢を愛していた。由佳は圭介を愛していた。
 『おまえ』は今のオレを見たら、やっぱりね、と言うだろう。
 しかし、誰と比べたって『おまえ』が1番だったよ。『オレ』には。だから忘れられない……『おまえ』は特別だった。
 彩がバスタオルを巻いて出てきた。
「シャワー浴びちゃった。どうする?」
「バカ、早く服着てこい」
和樹はうしろを向いた。

 春樹は菜穂を呼び出した。店の3階の自分の部屋。菜穂は来たことを後悔した。だが、もっと後悔したのは春樹だった。和樹への腹いせに大事なお姫様の恋心を踏みにじってやろうと思った。刺激的な映画を観せた。ほとんどAVと変わらない。音量を大きくする。真っ赤になった菜穂を押し倒した。
「君も和樹とやってんだろ? 生徒に手を出すなんて」
胸のボタンを外すと菜穂はひどく抵抗した。抵抗されてボタンを引っ張った。
「ハル、見ないで」
 春樹がひるむと菜穂は素早く立ち上がり出て行った。

 ママは心臓が弱っていた。激しい運動は止められていた。それなのに、溺れる子を放っておけなかった。なぜ助けにいったんだ? オレを残して。ママは瞬時に決断した。
 オレはなにをしているんだ?

 春樹はテレビを消しリモコンを投げた。菜穂の胸には大きな傷跡があった。おそらく心臓の手術のあとだろう。古くはない。わかった。なぜ和樹があんなに大事にしていたのか。

 なにをしているんだ? オレは? ママ、あなたの息子はなにをしているんだ?

 置いていったバッグを持ち追いかけた。走って大丈夫なのか? どこかで倒れているのではないか? 怖かった。
 バス停で菜穂は下を向いて座っていた。バッグを渡したが顔を上げなかった。
「ごめん」
菜穂はなにも言わない。バスが来た。立ち上がり乗り込む。もう2度と春樹の顔は見なかった。
 電話もメールも反応がない。出ない。読まない。拒否はしない。菜穂の高校の駅にピアノが置いてある。放課後、春樹はピアノを弾いた。菜穂が通り過ぎるまで。初日、菜穂は春樹を見た。見たが走っていった。次の日は観客ができて菜穂の姿はよく見えなかった。でも耳に届けばいい。菜穂が素敵だと言った曲を次々に弾く。3日目からは人だかりがした。菜穂はいない。届いているのか? 君だけのために弾いているのに。1週間目、人だかりの向こうに菜穂が見えた。歩いていくと女子高生が数人春樹を取り巻いた。菜穂は歩いていく。
 もう春樹の周りには若い女子が囲み菜穂は完全に見えなくなった。それでも弾いた。聞いてくれ。君が好きだと言ったモーツァルトの8番。涙が出る。明るくて、悲しくて……モーツァルトは好きじゃないのに。

 
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