風上で魔法の杖を振りかざす

文字数 741文字

ここ数日であらたに出来た日課について。

朝目が覚めるとまずベランダへ行き、カーテンを開ける。眼前に、一夜にして完成した細糸の多角形を私は確認する。
三本の物干し竿を梁として使い、まだ若い蜘蛛が作った巣はぬるい朝の風に心地よくたなびいている。

彼なり彼女なりの努力には実際涙ぐましいものがあって、せいぜい米粒程度の小さな体で編み上げたにしてはそれはあまりに立派な建築に見える。幾何学の何たるかを完璧に理解し、軽量かつ強靭な特殊繊維で編まれたそれはミニマリズム建築の極地とも言える。

しかし、選んだ場所が悪かった。
ベランダは洗濯物を干す場所であって蜘蛛が家庭をこさえるべきところではない。申し訳ないがそのふたつを両立できるほどの広さを我が家のベランダは持たない。

同居人を仕事へ送りだし洗濯機のスイッチを入れると私は短い散歩に出る。やけに足元ばかり見て歩くのは、てごろな枝を探すためだ。
そこらに生えている木の枝を折ってしまうくらい子供のころなら躊躇なくできた。でも、もうそういうことをして許される年齢ではない。かと言ってだれがどうして許さないのかと具体的に問われると曖昧な返事しかできない。一番なりたくないと思っていた大人に現在進行形でなりつつある。

とにかくそうして手に入れた木の枝はちょうど菜箸くらいの長さだった。

帰宅した私はベランダに出て風上に立ち、箸を持つ要領で握ったその枝をくるくると振りかざす。

透明な細糸で形成された多角形が、いとも簡単に巻き取られていく。哀れな家主は必死に逃げまどう。私は右へ左へ、丹念に容赦なく枝をまわし続ける。ついに居場所を失って地に堕ちた蜘蛛をどうしたかは、あえて語るまい。

ベランダには今日も二人分の洗濯物が干されている。日差しは一日また一日と濃度を増していく。

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