デカルトはサウナに入らない

文字数 1,343文字


日曜日にサウナへ行った。朝だったこともあり、サウナ五分+水風呂一分を二セット、軽めにしておいた。水風呂は水温低めの一三度で、浸かるとなにも考えられなくなった。
なにも考えない。この心地よさは癖になる。裸で汗まみれのおじさん(いわずもがな、それは私自身でもあるのだが)といやでも至近距離で接するサウナに、わざわざ足を運ぶだけの価値はある。
なにも考えない。その瞬間私は、仕事や日常の雑事を一時放念するにとどまらず、私であることをも放棄する。コギトエルゴスム、と唱えたデカルトはたぶん、サウナ未経験者だと思う。
似たような体験はサウナ以外にもある。たとえば以前この日記でも書いたけれど、目覚めてすぐ、夢と現実の境目があいまいなあの時間は、密度こそ低いがそのぶん持続する放心状態の心地よさがある。
読書の、こと小説を読んでいるときの精神状態も、けっこうこれに近いんじゃないかと思っている。読書をしているときだけ、なんというか私は、登場人物に人生の主人公の座を譲り渡している。うまく伝わるだろうか? 本を読んでいるのは私だが、本の世界に私は存在していない。いや、より正確に言うと、私はすっかり解体され、私の端材で構築されたまったくべつの人間がそこにはいる。
重要なのは、さっきから言っているようなサウナや朝寝坊や読書を私が、そして私と気性の近しい多くの人が好き好んでやっているということだ。みな、我を忘れたがっている。我を忘れられないまま飲むマッチウォーターはたいしてうまくないが、我を忘れて飲むマッチウォーターはほとんど奇跡みたいにおいしい。ちなみにマッチウォーターというのは微炭酸飲料マッチとイオンウォーターを混ぜあわせた概念で、サウナ上がりに飲むと最高だということを、エッセイアンソロジー「読書のおとも」のなかで岸波龍さんが述べている。エッセイを書き始めたのは間違いなくこのアンソロがきっかけだったし、エッセイをだらだらと書き続けられているのは同じアンソロの寄稿者である柿内正午さんの、ポイエティーク・ラジオのおかげだ(「毎日書いていると諦めがつく」)。ポイエティーク・ラジオは現在五〇話くらい配信されているポッドキャスト番組で、私は先月一話から追いかけはじめて、ようやく二五話あたりまできた(ただしクイーンズ・ギャンビットのネタバレ回は除く。この作品を見たいがためNetflixに加入しようか本気で迷っている)。エッセイというのはユーモアのセンスのある人が包み隠さず書くからおもしろいのであって、クラスで三番目くらいに話がつまらなく、見栄と虚飾にまみれた私にはとうてい無理だと思っていた。たとえばさくらももこやくどうれいんのエッセイはほとんど反則的におもしろい。私もひらがな六文字のペンネームにしたらもうすこしエッセイ向きの人格になるかしら、など考えていたが、四の五の言わず書いてみると徐々に、文章のほうから私に正直な語りを促してくれる気がするから不思議だ。それはたとえば博物館の体験ひろばで植物の化石を発掘したという程度の、さんざんあつらえられたすえの発見だが、私は嬉しかった。ちなみに実家の学習机の引き出しには、シダだかソテツだかの化石がいまだに、ちゃんとティッシュにくるんで保管されている。
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